戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会10万人大行動
東京の杉原浩司さんという方が、昨日8月30日に行われた戦争法案反対・安倍政権退陣を求める「国会10万人・全国100万人行動」の様子を報じたニュースやネット動画の閲覧先をまとめてくれています。マスコミがこのニュースを申し訳程度にしか報道しない中で、実際の様子を知る為には、必要不可欠な情報です。この行動に当日参加できなかった私も、参考にする為に、杉原さんのまとめを下記に転載させてもらいます。
東京の杉原浩司です。[転送・転載歓迎/重複失礼]
8月30日の「国会10万人・全国100万人大行動」に参加された皆さん、そし
て準備や運営に奔走された皆さん、本当にお疲れさまでした。国会正門前
は完全に解放区となり、ものすごい熱気でした。霞ヶ関、永田町一帯にも
多くの参加者が集まり、「12万人」との主催者発表がありました。
帰宅して報道をチェックしました。まだ不十分かと思いますが、まとめて
みました。ぜひご参照ください。行動の熱気の一端が伝わると思います。
以下の時事通信の報道にもあるように、本当にあと3週間が勝負です。
30日の大行動の成功を力に、廃案に追い込んでいきましょう。
安保採決、再来週にずれ込みも=審議停滞、修正協議も不透明(8/30、時事)
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015083000085
「9月15、16両日ごろの採決案も浮上。再可決を避けつつ、参院の独自性
にも配慮した形を取れるからだ」「与党は遅くとも連休前の同18日までに
は成立を図る方針だ」
-----------------------------------
【8月30日の国会10万人・全国100万人大行動の報道クリップ】
安倍はやめろ!国会を包囲した12万人の怒り~正門前は解放区に
(8月30日、レイバーネット)
http://www.labornetjp.org/news/2015/0830shasin
【動画】戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会10万人大行動
(8月30日、レイバーネット、約9分)
https://www.youtube.com/watch?v=t3VqmLmAejo&feature=youtu.be
反安保法案:国会周辺など全国で抗議行動(8月30日、毎日)
http://mainichi.jp/movie/movie.html?id=895519621002
※国会正門前道路の「決壊」の瞬間もとらえています。各地の行動の写真も。
安保法案 国会周辺で最大規模の反対集会(8月30日、NHK)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150830/k10010209801000.html
「廃案、ハイアン」、世代超え12万人 坂本龍一さんも(8月30日、朝日)
http://www.asahi.com/articles/ASH8Z5QK3H8ZUTIL01B.html?iref=comtop_6_01
【国会前、360度のパノラマ写真】(8月30日、毎日新聞写真部)
http://mainichi.jp/images/panorama/20150830anpo2/20150830anpo.html
こちらも360度のパノラマ(全天球画像・THETA)
https://theta360.com/s/qgdL0z3RF3c0G0cfszFkTwFFc
安保法案:反対の波 全国300カ所でデモ(8月30日、毎日)※全国の行動の写真
http://mainichi.jp/graph/2015/08/31/20150831k0000m040081000c/001.html
安保法案反対、全国で一斉抗議 国会取り囲み廃案訴え(8月30日、朝日)
http://www.asahi.com/articles/ASH8Z6HH6H8ZUTIL01W.html?iref=com_alist_photo
[空撮映像]安保法案抗議集会:国会議事堂取り囲み「戦争法案反対!」
(8月30日、毎日新聞)
http://mainichi.jp/movie/movie.html?id=895600848002
「法案反対!」国会前10万人のうねり 全国各地でも(8月30日、テレビ朝日)
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20150830-00000022-ann-pol
全国で安保法案に反対デモ、国会周辺には“12万人”(8月30日、TBS)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2574435.html
“安保阻止”12万人が国会周辺で反対集会(8月30日、日テレ)
http://www.news24.jp/nnn/news890109687.html
安保関連法案 国会周辺で10万人目標に大規模反対集会(8月30日、FNN)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00301561.html
安保関連法案反対集会 参加者に思いを聞きました。(8月30日、FNN)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00301562.html
BBC 動画 - Japan military legislation changes draw protests
(国会前抗議行動に10万人が結集)
http://www.bbc.com/news/world-asia-34101222
-----------------------------------
杉原浩司
※私のツイッターでも各種の画像やリンクなどを発信していますのでご参
照ください。
携帯 090-6185-4407
E-mail kojis at agate.plala.or.jp
FAX 03-6312-0640
ブログ http://kosugihara.exblog.jp/
ツイッター https://twitter.com/kojiskojis
フェイスブック https://www.facebook.com/koji.sugihara.10
東京の杉原浩司さんという方が、昨日8月30日に行われた戦争法案反対・安倍政権退陣を求める「国会10万人・全国100万人行動」の様子を報じたニュースやネット動画の閲覧先をまとめてくれています。マスコミがこのニュースを申し訳程度にしか報道しない中で、実際の様子を知る為には、必要不可欠な情報です。この行動に当日参加できなかった私も、参考にする為に、杉原さんのまとめを下記に転載させてもらいます。
東京の杉原浩司です。[転送・転載歓迎/重複失礼]
8月30日の「国会10万人・全国100万人大行動」に参加された皆さん、そし
て準備や運営に奔走された皆さん、本当にお疲れさまでした。国会正門前
は完全に解放区となり、ものすごい熱気でした。霞ヶ関、永田町一帯にも
多くの参加者が集まり、「12万人」との主催者発表がありました。
帰宅して報道をチェックしました。まだ不十分かと思いますが、まとめて
みました。ぜひご参照ください。行動の熱気の一端が伝わると思います。
以下の時事通信の報道にもあるように、本当にあと3週間が勝負です。
30日の大行動の成功を力に、廃案に追い込んでいきましょう。
安保採決、再来週にずれ込みも=審議停滞、修正協議も不透明(8/30、時事)
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2015083000085
「9月15、16両日ごろの採決案も浮上。再可決を避けつつ、参院の独自性
にも配慮した形を取れるからだ」「与党は遅くとも連休前の同18日までに
は成立を図る方針だ」
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【8月30日の国会10万人・全国100万人大行動の報道クリップ】
安倍はやめろ!国会を包囲した12万人の怒り~正門前は解放区に
(8月30日、レイバーネット)
http://www.labornetjp.org/news/2015/0830shasin
【動画】戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会10万人大行動
(8月30日、レイバーネット、約9分)
https://www.youtube.com/watch?v=t3VqmLmAejo&feature=youtu.be
反安保法案:国会周辺など全国で抗議行動(8月30日、毎日)
http://mainichi.jp/movie/movie.html?id=895519621002
※国会正門前道路の「決壊」の瞬間もとらえています。各地の行動の写真も。
安保法案 国会周辺で最大規模の反対集会(8月30日、NHK)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150830/k10010209801000.html
「廃案、ハイアン」、世代超え12万人 坂本龍一さんも(8月30日、朝日)
http://www.asahi.com/articles/ASH8Z5QK3H8ZUTIL01B.html?iref=comtop_6_01
【国会前、360度のパノラマ写真】(8月30日、毎日新聞写真部)
http://mainichi.jp/images/panorama/20150830anpo2/20150830anpo.html
こちらも360度のパノラマ(全天球画像・THETA)
https://theta360.com/s/qgdL0z3RF3c0G0cfszFkTwFFc
安保法案:反対の波 全国300カ所でデモ(8月30日、毎日)※全国の行動の写真
http://mainichi.jp/graph/2015/08/31/20150831k0000m040081000c/001.html
安保法案反対、全国で一斉抗議 国会取り囲み廃案訴え(8月30日、朝日)
http://www.asahi.com/articles/ASH8Z6HH6H8ZUTIL01W.html?iref=com_alist_photo
[空撮映像]安保法案抗議集会:国会議事堂取り囲み「戦争法案反対!」
(8月30日、毎日新聞)
http://mainichi.jp/movie/movie.html?id=895600848002
「法案反対!」国会前10万人のうねり 全国各地でも(8月30日、テレビ朝日)
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20150830-00000022-ann-pol
全国で安保法案に反対デモ、国会周辺には“12万人”(8月30日、TBS)
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2574435.html
“安保阻止”12万人が国会周辺で反対集会(8月30日、日テレ)
http://www.news24.jp/nnn/news890109687.html
安保関連法案 国会周辺で10万人目標に大規模反対集会(8月30日、FNN)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00301561.html
安保関連法案反対集会 参加者に思いを聞きました。(8月30日、FNN)
http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00301562.html
BBC 動画 - Japan military legislation changes draw protests
(国会前抗議行動に10万人が結集)
http://www.bbc.com/news/world-asia-34101222
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杉原浩司
※私のツイッターでも各種の画像やリンクなどを発信していますのでご参
照ください。
携帯 090-6185-4407
E-mail kojis at agate.plala.or.jp
FAX 03-6312-0640
ブログ http://kosugihara.exblog.jp/
ツイッター https://twitter.com/kojiskojis
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今日8月30日は、国会包囲10万人行動を初め、戦争法案反対の様々な取り組みが全国で一斉に行われる日です。大阪でも16時から扇町公園で大集会が行われます。しかし、私はその集会には参加できないので、代わりに昨日29日の仕事帰りに、「木津川デモ(kizugawa demo)」という下町の小規模なデモに参加してきました。
そのデモは、大正・西成・住吉・住之江区で活動している「かえるネットkizugawa」という、地域の若者による共産党後援会が主催したものです。この団体が、一週間ごとに持ち回りで、地域のあちこちで小規模なデモを行ってきました。
それで、29日は西成区でデモを行う事になっていたのです。そのデモは、18時に区内の天下茶屋にある小さな公園での出発集会から始まりました。私は当日は残業帰りで、お腹がすいていて夕食を先に済ませたので、その公園に着いた時には、18時を少し回っていました。既に集会の途中で、主催者による参加団体の紹介などが行われていました。
私は途中から参加したので、お話は後半しか聞けませんでしたが、「もう今までみたいに受け身の姿勢ではいけない。戦争法案反対の為に何ができるか、一人一人が我が事として考えて行動しなければならない」という主催者の言葉が、今でも耳の中に残っています。
18時半になり、いよいよデモ行進に出発です。デモは三列縦隊で、公園を抜け、西成消防署の角から旧26号線を北に進み、花園町のイズミヤ角の交差点まで、約20分のコースを歩きました。途中から小雨が降ってきましたが、それに負けずに、若者の方のコールで、元気にパレードしてきました。
戦争法案 絶対反対! 戦争法案 今すぐ廃案! 戦争する国 絶対反対! 安倍政権の暴走止めよう! みんなの力で 暴走止めよう! 安倍政権は 今すぐ退陣!(ここは3回ぐらい繰り返していた) 9条守れ! 平和を守れ! 命を守れ! 武力で平和は作れない!(ハイ!)・・・と、そんな感じのコールでした。最後の「武力で平和は作れない!(ハイ!)」の「ハイ!」の部分も、最初は全員で唱和していましたが、別の人にコールが代わった途端に、やはり照れくさいのか、「ハイ!」の部分は次第に言わなくなりました。
最後に、花園町イズミヤ角の交差点の手前の路地を中に折れて、そこで流れ解散となりました。ちなみに、上記が私の掲げていたプラカードです。裏表に書かれていた「戦争NO!」と「9条守れ!」の、2つのスローガンを交互に掲げてデモしました。
今までは大きなデモばかりに飛び入り参加してきましたが、そればかりでは参加する機会が限られてしまいます。それをフォローする為にも、たとえ少人数でも良いから、こんな身近な形でデモが行われたら、もっと大勢の人たちが気軽に参加できるようになって良いと思います。
戦争法案の事を、自民党や政府は「平和安全法制」と呼び、「”戦争法案”と呼ぶのはレッテル貼りだ」と批判していますが、とんでもない話です。何が「平和」で「安全」なのかと思いますね。政府は、二言目には「中国や北朝鮮から日本を守る為だ」と言いますが、だったらなぜ、中国や北朝鮮とは何の関係もない、中東のホルムズ海峡や地球の裏側まで、自衛隊を派遣しなければならないのでしょうか。実際は、「中国」も「北朝鮮」も全然無関係で、地球のどこにでも、自衛隊を米軍の下請けや肩代わりに派遣して、好きなように「使い捨て」にしたいだけなのです。その為には今の憲法は邪魔だから、本当は憲法を変えたいのだけれど、それはすぐにはできないから、無理やり憲法解釈をねじ曲げて、いつでもどこでも戦争ができるようにしようとしているのです。
これは何も自衛隊だけの問題ではありません。海外派兵で戦死者が出て、自衛隊への入隊志願者が減少すれば、最後には徴兵制の実施に行きつきます。こんな事を言うと、「今のハイテク兵器は素人には扱えないから、徴兵制なぞ実施されるわけがない」と、したり顔にいう人がいますが、そんな事はありません。いくら兵器のハイテク化が進んでも、人力でやらなければならない単純作業は必ず残ります。いくら無人機で敵地をじゅうたん爆撃しても、最後に敵地を制圧する為には一定の歩兵部隊は必要です。その最も人の嫌がる危険な「単純作業」を、下っ端の人間にやらせる必要が必ず生じます。
その下っ端の人間は、別に正規の自衛隊員である必要はありません。予備役でも良いし、民間人であっても構わないのです。むしろ、政府にとっては、民間の戦争請負会社や派遣会社の方が、後になって戦争責任や賠償問題を問われる事もないから好都合なのです。現に、イラク戦争においても、犠牲になったのは戦争請負会社や戦争派遣会社の貧しい人たちです。日航や日通の社員が自衛隊に交じって武器輸送業務に従事させられていたのも、今や公然の秘密です。今、原発の再稼働が進められる中で、下請けの更に下請けの貧しい人たちが、最も危険な作業に従事させられていますが、その「戦争版」を安倍政権や「死の商人」が画策しているのです。特に、奨学金の返済義務や借金を抱えた人たちをターゲットにして。
だから、別に「国民皆兵」でなくても良いのです。形は志願制の形を取りながら、食うためには軍隊に入隊するしかない所まで貧しい若者を追い詰め、あるいは社内研修で業務命令の形で強制的に自衛隊に体験入隊させて、もし戦死や事故で亡くなっても、「あれは志願で民間人が勝手にやった事だ」と言い張れば、政府は戦争責任を問われないし補償もしなくても良いのですから、まさに「願ったりかなったり」です。これが「経済的徴兵制」や「隠れ徴兵制」と言われるものです。
そもそも、普通、常識的に考えて、憲法9条で戦争も軍備も放棄しておきながら、海外派兵なんて一切できるはずがないではないですか。政府の言うように、「一部や例外であったら良い」とか、そんな問題ではないのです。もし、そんな事になったら、「一部」なら憲法違反でも構わない、というような「いい加減」な憲法なぞ、誰も守らなくなります。いくら憲法に「国民の人権は守られる」と書かれていても、誰も守らなくなりますよ。そうなって一番困るのは一体誰なのか。よく考えてみて下さい。戦争法案を止めなければならないのは、政治家でも運動家でもない、自分たち自身の問題なのです。
前々回記事の中でも少し触れましたが、現在、親父が入院中です。別に危篤とかではなく、近隣の市民病院で総胆管結石(そうたんかんけっせき)の除去手術の順番待ちの状態で、親父自身は暇を持て余しているのですが、何分高齢なので気掛かりです。その為に、私は現在、実家の家事や片付けに追われています。この8月23日の大阪での戦争法案反対デモにも遂に参加出来ませんでした。申し訳ありません。
しかし、その中で、今回の不遇を逆にチャンスと捉え、今までやった事のなかった自炊にも挑戦しつつあります。そう、「主夫」です。但し、私は未婚なので、厳密に言えば「夫」ですらないのですが。
今や家事は女性だけの仕事ではありません。最低限、男でもお米ぐらい炊けなければ、21世紀の男女共同参画社会の中では生きていけません。その「悪戦苦闘」の中間報告を次に紹介して行きたいと思います。ベテラン主婦やベテラン「主夫」が聞けば笑う様な話も一杯出てきますが、まあ、そこは愛嬌(あいきょう)と言う事で。
まず、親父が入院して真っ先にキッチンを片づけ、賞味期限切れ食品の大半を廃棄しました。
手始めにインスタントラーメンや調味料から始めて、冷蔵庫・冷凍庫の中も整理しました。賞味期限切れの食品も、7月以降の物で品質的に大丈夫な物は残しましたが、それ以前の物はたとえレトルトパックの物でも迷わず廃棄しました。また、日付的に大丈夫なレトルト食品や中元で送ってきた素麺についても、親父と二人で食べきれない分については、いつまでも置いておいても仕方がないので、職場の同僚におすそ分けしました。
そうしないと、このまま放っておいたら、早晩我が家は「ゴミ屋敷」と化してしまいますから。既に兄貴も妹も独立し、今や親父と二人しか家にいないのに、親父がなぜこうも買いだめしたがるのか、私は不思議でなりません。亡くなった母親もそうでしたが、やたら買いだめたがるのです。そのせいで、今や掃除にも支障を来し始めています。近くにはスーパーがあり、最近はコンビニも出来たのに、なぜ必要分だけ小まめに買おうとしないのか。買い物が煩(わずら)わしいと一気に買いだめし、捨てるのが勿体(もったい)無いとため込んだところで、使い切れずに腐らせて、後で一気に捨てなければならない方が、よっぽど煩わしいし勿体無いのに。
ただ、私の住んでいる高石市は、普通(可燃)ゴミの収集については「一部従量制」を採用していて、無料で出せる年間のゴミの量が決まっています。一定量までは、市役所から配られるピンクの無料券をゴミ袋に貼って出せばよいのですが、それ以上になると、コンビニ等で1枚30円もする茶色の有料券を購入して、ゴミ袋に添付しなければなりません(券の色は年度毎に変わります)。今回の在庫整理で無料券をかなり使ってしまったので、親父、退院して帰って来たら、さぞかし怒るだろうなあ…。
そして、キッチンの片づけが一段落した後、いよいよ「主夫」修行を始めました。今まではお袋がいて、お袋が亡くなった後も夕飯の支度は親父任せになっていました。別に私が家事をやっても良かったのですが、親父に一足先を越されてしまい、私もそれについつい甘えてしまっていました。そこで、「これではいかん」と一念発起し、親父の入院を機に、私も飯と卵焼きぐらいは作れるようになろうと、ネットの情報を頼りに、自炊に挑戦する事にしました。
まず、卵焼きからマスターする事にしました。ネットのレシピによると、「卵2個に砂糖大さじ1杯と醤油小さじ少々を加え、卵は白身を黄身に混ぜ込むように溶き(決して泡立てない)、フライパンに3分の1ずつ流し込み、専用のコテで卵を巻いていく」とあります。私も最初は、卵焼きのフライパンを買ってきて、そのレシピに沿った作り方をしました。しかし、それだとどうしても卵焼きが甘ったるくなるので、もう二回目ぐらいからは、卵には醤油だけ入れて、コテも使わず箸だけで卵を巻いていきました。箸で巻いたので、ネット写真のようなキレイな形にはなりませんでしたが、最初の頃と比べると、それなりに卵焼きの形になって来ているのでは…。味も基本的に満足がいくものでした。ところで、私は、フライパンに敷く油をサラダ油にしましたが、最近はサラダ油よりもオリーブオイルが主流となりつつあるようですね。
最後に炊飯です。何といってもコメは日本の主食なので、卵焼きよりもこちらの方からマスターし始めたのですが、途中で大チョンボをやらかしてしまい、マスターするのが卵焼きよりも後になってしまいました。
どういう大チョンボをやらかしたかと言うと…。私、恥を忍んで敢えて書きますが、自分でご飯を炊くのは初めてだったので、炊飯器の外釜に直接お米と水を放り込んでしまいました💦。「お米は計量カップに1合(180ml)ずつ入れ、水はその1.5倍、それを3合分ぐらい入れ、炊きあがった後は15分ぐらい蒸してから、ご飯をかき混ぜなければならない」という所までは、本やネットであらかじめ「予習」していましたが、実際に自分でご飯を炊いた事がなかったので、何も知らずに炊飯器に直接お米と水を放り込んでしまったのです💦💦。まさか、そこまで書かなければならないとは、本やネットの編集者も思わなかったのでしょう💦💦💦。
外釜から水が漏れだして、初めてその失敗に気が付き、あわてて炊飯器を近くの電器店に持って行って、そこで分解清掃してもらいました。やがて分解清掃も終わり、再び炊飯を試みて、今度は何とか上手く行きました。味も上々でした。ただ、白米のある場所が分からなかったので、胚芽米だけで炊いてしまい、後で親父から「胚芽米は高価なのに」と怒られてしまいました。そこで、白米を見つけ出して、「これからは白米2:発芽米1の比率で炊くように」と言われました。
そういう、普通では考えられないような大チョンボまでやらかしてしまいましたが、何とかご飯と卵焼きだけは自分で料理できるようになりました。
しかし、その中で、今回の不遇を逆にチャンスと捉え、今までやった事のなかった自炊にも挑戦しつつあります。そう、「主夫」です。但し、私は未婚なので、厳密に言えば「夫」ですらないのですが。
今や家事は女性だけの仕事ではありません。最低限、男でもお米ぐらい炊けなければ、21世紀の男女共同参画社会の中では生きていけません。その「悪戦苦闘」の中間報告を次に紹介して行きたいと思います。ベテラン主婦やベテラン「主夫」が聞けば笑う様な話も一杯出てきますが、まあ、そこは愛嬌(あいきょう)と言う事で。
まず、親父が入院して真っ先にキッチンを片づけ、賞味期限切れ食品の大半を廃棄しました。
手始めにインスタントラーメンや調味料から始めて、冷蔵庫・冷凍庫の中も整理しました。賞味期限切れの食品も、7月以降の物で品質的に大丈夫な物は残しましたが、それ以前の物はたとえレトルトパックの物でも迷わず廃棄しました。また、日付的に大丈夫なレトルト食品や中元で送ってきた素麺についても、親父と二人で食べきれない分については、いつまでも置いておいても仕方がないので、職場の同僚におすそ分けしました。
そうしないと、このまま放っておいたら、早晩我が家は「ゴミ屋敷」と化してしまいますから。既に兄貴も妹も独立し、今や親父と二人しか家にいないのに、親父がなぜこうも買いだめしたがるのか、私は不思議でなりません。亡くなった母親もそうでしたが、やたら買いだめたがるのです。そのせいで、今や掃除にも支障を来し始めています。近くにはスーパーがあり、最近はコンビニも出来たのに、なぜ必要分だけ小まめに買おうとしないのか。買い物が煩(わずら)わしいと一気に買いだめし、捨てるのが勿体(もったい)無いとため込んだところで、使い切れずに腐らせて、後で一気に捨てなければならない方が、よっぽど煩わしいし勿体無いのに。
ただ、私の住んでいる高石市は、普通(可燃)ゴミの収集については「一部従量制」を採用していて、無料で出せる年間のゴミの量が決まっています。一定量までは、市役所から配られるピンクの無料券をゴミ袋に貼って出せばよいのですが、それ以上になると、コンビニ等で1枚30円もする茶色の有料券を購入して、ゴミ袋に添付しなければなりません(券の色は年度毎に変わります)。今回の在庫整理で無料券をかなり使ってしまったので、親父、退院して帰って来たら、さぞかし怒るだろうなあ…。
そして、キッチンの片づけが一段落した後、いよいよ「主夫」修行を始めました。今まではお袋がいて、お袋が亡くなった後も夕飯の支度は親父任せになっていました。別に私が家事をやっても良かったのですが、親父に一足先を越されてしまい、私もそれについつい甘えてしまっていました。そこで、「これではいかん」と一念発起し、親父の入院を機に、私も飯と卵焼きぐらいは作れるようになろうと、ネットの情報を頼りに、自炊に挑戦する事にしました。
まず、卵焼きからマスターする事にしました。ネットのレシピによると、「卵2個に砂糖大さじ1杯と醤油小さじ少々を加え、卵は白身を黄身に混ぜ込むように溶き(決して泡立てない)、フライパンに3分の1ずつ流し込み、専用のコテで卵を巻いていく」とあります。私も最初は、卵焼きのフライパンを買ってきて、そのレシピに沿った作り方をしました。しかし、それだとどうしても卵焼きが甘ったるくなるので、もう二回目ぐらいからは、卵には醤油だけ入れて、コテも使わず箸だけで卵を巻いていきました。箸で巻いたので、ネット写真のようなキレイな形にはなりませんでしたが、最初の頃と比べると、それなりに卵焼きの形になって来ているのでは…。味も基本的に満足がいくものでした。ところで、私は、フライパンに敷く油をサラダ油にしましたが、最近はサラダ油よりもオリーブオイルが主流となりつつあるようですね。
最後に炊飯です。何といってもコメは日本の主食なので、卵焼きよりもこちらの方からマスターし始めたのですが、途中で大チョンボをやらかしてしまい、マスターするのが卵焼きよりも後になってしまいました。
どういう大チョンボをやらかしたかと言うと…。私、恥を忍んで敢えて書きますが、自分でご飯を炊くのは初めてだったので、炊飯器の外釜に直接お米と水を放り込んでしまいました💦。「お米は計量カップに1合(180ml)ずつ入れ、水はその1.5倍、それを3合分ぐらい入れ、炊きあがった後は15分ぐらい蒸してから、ご飯をかき混ぜなければならない」という所までは、本やネットであらかじめ「予習」していましたが、実際に自分でご飯を炊いた事がなかったので、何も知らずに炊飯器に直接お米と水を放り込んでしまったのです💦💦。まさか、そこまで書かなければならないとは、本やネットの編集者も思わなかったのでしょう💦💦💦。
外釜から水が漏れだして、初めてその失敗に気が付き、あわてて炊飯器を近くの電器店に持って行って、そこで分解清掃してもらいました。やがて分解清掃も終わり、再び炊飯を試みて、今度は何とか上手く行きました。味も上々でした。ただ、白米のある場所が分からなかったので、胚芽米だけで炊いてしまい、後で親父から「胚芽米は高価なのに」と怒られてしまいました。そこで、白米を見つけ出して、「これからは白米2:発芽米1の比率で炊くように」と言われました。
そういう、普通では考えられないような大チョンボまでやらかしてしまいましたが、何とかご飯と卵焼きだけは自分で料理できるようになりました。
【拡散希望】『戦争法案廃案!安倍政権退陣!8・30国会10万人・全国100万人大行動』この日、私たちが、戦争しない未来を作る。30日14時~国会議事堂周辺pic.twitter.com/oUJDFoNSyW ツイートボタンで拡散を!詳細は→ http://t.co/Vaf4xl9nRR
— プレカリアート (@afghan_iraq_nk1) 2015, 8月 21
お盆明けから「戦争法案反対」のデモを若い方たち有志が地域でやるそうです!!(^^)
大正区、西成区、住之江区、住吉区です。
ぜひ、ご参加を~ pic.twitter.com/ImucG5UirP
— かえるネットkizugawa (@kizugawaminami) 2015, 8月 8
戦争法案廃案、安倍政権打倒を目指して、8月30日東京で行われる10万人規模の大集会と、その前日29日に職場の近くで行われる小規模な集会の二つを載せました。実は8月30日の当日も、東京の国会10万人行動に呼応して、16時から大阪の扇町公園で大集会があるのですが、私はあいにく翌日早朝から仕事なので、夕方からの行動には参加しづらいものがあります。それでも、今までは極力参加してきましたが、今は家事もこなさなければならないので、今回は日曜の扇町での集会ではなく、規模は小さいですが地元主体の取り組みに、休日前日の29日の仕事帰りに参加してこようと思っています。
またまたブログ更新が少し滞ってしまいました。実は親父が総胆管結石の手術でしばらく入院する事になり、それでバタバタして更新できませんでした。幸い親父の方は経過も順調で、このまま行けば一週間ぐらいで退院できるようです。
その間に、安倍首相が戦後70年談話を発表しました。安倍本人は「従来の村山談話を引き継いだ」と言っているようですが、とんでもありません。村山元首相の戦後50年談話とは似ても似つかぬ代物になってしまいました。
村山談話と安倍談話について、それぞれ両者の全文を参考資料として別のページに掲示しましたが、見比べるとその違いは一目瞭然です。
村山談話の方は、基本的に「私は」「我が国は」という出だしで始まっています。主語と述語が明確で、「誰が何をしたのか」「それに対してどう思っているのか」がハッキリしている、非常に分かりやすい文章になっています。また、戦後談話としての性格上、過去の戦争に対する総括が主要テーマとなりますが、そこでも「わが国は、過去に国策を誤り戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によってアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」、その反省として「独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければならない」と、非常に論旨が明確な文章になっています。
それに対して、安倍談話の方はどうかと言えば、その点が非常に曖昧です。まず、自分が発表した談話でありながら、「私は(どう考える、どうする)」という出だしには全然なっていません。どちらかと言うと、「私たちは」という、第三者的で他人事のような表現になっています。そして、一応は「戦争で周辺諸国に迷惑をかけた」という表現になっていますが、そこでも「欧米諸国が経済のブロック化を進めたので日本は大きな打撃を受けた」と、暗に戦争責任を他者に転嫁する姿勢が顔をのぞかせています。他にも、帝国主義戦争でしかない日露戦争をあたかも自衛戦争であるかのように描き出して、過去の日本の行為を正当化したり、「戦争には何ら関わりのない子孫に謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と、まるで居直っているとしか思えない箇所が随所に見られます。
しかし、事実はどうでしょうか。
確かに、アジア諸国の中では、日本と東南アジアのタイだけが欧米諸国の植民地にはなりませんでした。それは、明治維新などの日本自身の努力だけでなく、日本に進出してきた外国勢力が互いに張り合った為に、かろうじて独立を保てたからでもあるのですが。その中で日本は、単にタイのように独立を維持しただけでなく、軍事大国として他の欧米諸国と同じように、アジアを侵略していくようになります。国内では富国強兵政策の下で、「女工哀史」や「蟹工船」などの小説に見られるように、農民や労働者を奴隷のようにこき使い、その犠牲の上に立って。
それに対して、アジア諸国も、やがて欧米諸国や日本の侵略に対抗する知恵を身に付けるようになります。最初は、「太平天国の乱」「セポイの乱」「東学党の乱」のような土人の反乱に止まっていたのが、やがて孫文やガンジー、スカルノやホーチミンなどの指導者によって、西欧から学んだ人権や民主主義の思想も取り込んで、民族自決権や民族主義を掲げて植民地からの独立を要求するようになってきます。それが安倍談話の中にある「第一次大戦後の脱植民地化や戦争違法化の動き」となって現れたのです。
このアジア諸民族の覚醒(かくせい)や「脱植民地化や戦争違法化の動き」に気付かず、日本が相も変わらずアジア諸国を「遅れた植民地」としか見なせず、国内においても国民の自由と人権を抑圧してきた所に、日本がその後、孤立を深め戦争に至った真の原因があるのです。国民の自由や権利を抑圧し、貧しい生活のまま抑えつけた為に、国内の消費市場が拡大せず、自国の製品を売る為には新たな植民地を手に入れる他ありませんでした。その為に、満州事変などを引き起こし、次第に欧米諸国とも対立し、経済封鎖で追いつめられていったのです。何の事は無い。「欧米諸国による経済のブロック化」も、元をただせば「自業自得」の結果にしか過ぎなかったのです。
その「自業自得」を他者に責任転嫁し、被害国だけでなく自国の国民をも戦争にまきこんでおきながら、敗戦の責任も取らずに、今度は国民に責任をなすりつけ、「私たちは心に留めなければなりません」「私たちは思いを致さなければなりません」とは、一体何たる言い草かと思いますね。そりゃあ、国民にも戦争責任は大いにありますよ。いかに自由や人権を抑圧されていたとは言え、努力すれば真実を知る事もある程度できたのに、政府やマスコミの言いなりになって、アジア侵略に加担した責任は当時の国民にも勿論あります。だからこそ、戦後、少なくない国民が、原水禁運動や安保条約改定反対、沖縄返還運動やベトナム反戦運動に立ち上がり、自民党による憲法改悪の企てを阻止してきたのでしょう。
それに対して、安倍はどういう態度を取っているか。今も、「平和を守る為」とか「中国や韓国、北朝鮮による領土侵犯から国を守る」とか言いながら、中国や北朝鮮とは何の関係もない地球の裏側まで、米国の言いなりになって派兵する「戦争法案」を強行採決し、国民の自由と人権を抑圧する「憲法改正」を目論んでいるではないですか。「ホルムズ海峡を守る為」とか言いながら、親日国のイランまで敵に回そうとしているじゃないですか。「満州は日本の生命線」とか言って、国民を侵略戦争に駆り立てていった昔と一体どこが違うのか。「私たちは心に留めなければなりません」「私たちは思いを致さなければなりません」とは、私たちに言うより前に、まず己自身が今までの過去を悔い改めて率先垂範すべき言葉ではないか。
だから、今回の安倍談話に対しては、欧米のメディアも辛辣(しんらつ)な評価しかしていないでしょう。いわく、「侵略行為や植民地化に対するお詫び」には一応言及したが、自分の言葉としては決して語らず、過去の内閣談話を踏襲する形で、「もうこれで良いでしょう」と、渋々反省してみせただけだ。そのくせ、「日露戦争ではアジアに希望を与えた」と、白を黒と言いくるめるような事を言っている。おまけに、「戦争には何ら関わりのない子孫に謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません=もう謝罪はこれっ切りにしましょう」と、居直りとしか取れないような事まで言って・・・と言うように。ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)やニューヨーク・タイムズ(NYT)、ロイターやBBC、AFPも、おしなべてそういう評価しかしていないではないですか。
中国や韓国から何度も謝罪を迫られるのも、いくら形だけ謝罪しても、言った尻からそれをぶち壊すような事を今まで政治家が言い、それが何度も繰り返されて来たからです。その為に、戦争反対の国民や海外で人道復興支援に尽力しているNGO関係者まで「安倍の手先」みたいに思われて、後藤さんみたいにIS(イスラム国)に殺害される人間まで出てくるようになってしまったのです。確かに、今の中国も、チベットやウイグルなどの少数民族を抑圧したり、国内で言論の自由を抑圧したりしていますが、だからと言って、それが過去に日本がやった事の言い訳には全然なりません。それは、「他人が泥棒やっているから自分もやって良い」という理屈が通らないのと同じです。
なお、WSJやNYTの報道とは対照的に、米国政府はどちらかと言うと今回の安倍談話を歓迎しているようですが、これも安倍が談話の中で「戦争法案」推進の姿勢を明らかにしたからであって、別に安倍の復古姿勢まで評価した訳ではありません。安倍がいい気になって余り突出し過ぎると、米国も次第に警戒感を示すようになるでしょう。(参考記事)
そういう意味では、今回の安倍談話も、セクハラ親父やパワハラ親父の弁解とさほど変わりません。散々、部下にセクハラを働いたり暴力を振るってきたブラック企業の上司が、ついに立ち上がった部下に取り囲まれて、渋々反省の弁を述べたものの、その中でも「薄着で挑発した部下が悪い」「仕事が出来ない部下が悪い」と、責任を部下になすりつけている。そんな構図しか思い浮かびません。もし、百歩譲って部下が薄着だったり仕事が出来なかったりしても、それは部下が全て悪いのではなく、エアコンも入れずに仕事もろくすっぽ教えなかった上司にも責任があるのに、その事を棚に上げ、セクハラや暴力行為を正当化できるはずもないのに。
今回の安倍談話で、内閣支持率が37%から43%にまで回復したそうですが、こんな他人事のような談話で世界に恥を晒しながら、なぜそんな話になるのか不思議です。しかし、これも、今まで上司のセクハラやパワハラを容認してきた社員が、自分達もサービス残業や過重労働を強いられながら会社には何も言えず、部下から抗議されると、「お前が無能だから営業ノルマが達成できないのだ」と、逆ギレ、八つ当たりするしか能がない、「ウチの職場の誰かさん」の図を想像すると何となく理解できますw。その社員(安倍支持者)がまずすべき事は、上司(安倍)と一緒になって被害者(中国や韓国)に八つ当たりするのではなく、上司のセクハラやパワハラを諌め、誰もが気持ちよく働く事の出来る職場(世界)を作る事なのに・・・という事で、この問題でもまた「社畜の奴隷根性」克服の課題に行きついてしまいました。昨今の「右傾化、保守化」ブームも、その正体は、ひたすら時流に便乗し、ただ強い者や権力に媚びるだけの「社畜の奴隷根性」でしょう。
いずれにせよ、散々、鳴り物入りで報道された今回の安倍談話でしたが、こんな上辺だけの取って付けたような談話なら、何も出さない方がまだマシでした。これが安倍個人の恥だけに止まるならまだ良いでしょう。しかし、安倍個人のせいで、日本の国や国民まで世界から誤解されるようになったのでは、もう堪った物ではありません。
その間に、安倍首相が戦後70年談話を発表しました。安倍本人は「従来の村山談話を引き継いだ」と言っているようですが、とんでもありません。村山元首相の戦後50年談話とは似ても似つかぬ代物になってしまいました。
村山談話と安倍談話について、それぞれ両者の全文を参考資料として別のページに掲示しましたが、見比べるとその違いは一目瞭然です。
村山談話の方は、基本的に「私は」「我が国は」という出だしで始まっています。主語と述語が明確で、「誰が何をしたのか」「それに対してどう思っているのか」がハッキリしている、非常に分かりやすい文章になっています。また、戦後談話としての性格上、過去の戦争に対する総括が主要テーマとなりますが、そこでも「わが国は、過去に国策を誤り戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によってアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」、その反省として「独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければならない」と、非常に論旨が明確な文章になっています。
それに対して、安倍談話の方はどうかと言えば、その点が非常に曖昧です。まず、自分が発表した談話でありながら、「私は(どう考える、どうする)」という出だしには全然なっていません。どちらかと言うと、「私たちは」という、第三者的で他人事のような表現になっています。そして、一応は「戦争で周辺諸国に迷惑をかけた」という表現になっていますが、そこでも「欧米諸国が経済のブロック化を進めたので日本は大きな打撃を受けた」と、暗に戦争責任を他者に転嫁する姿勢が顔をのぞかせています。他にも、帝国主義戦争でしかない日露戦争をあたかも自衛戦争であるかのように描き出して、過去の日本の行為を正当化したり、「戦争には何ら関わりのない子孫に謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と、まるで居直っているとしか思えない箇所が随所に見られます。
しかし、事実はどうでしょうか。
確かに、アジア諸国の中では、日本と東南アジアのタイだけが欧米諸国の植民地にはなりませんでした。それは、明治維新などの日本自身の努力だけでなく、日本に進出してきた外国勢力が互いに張り合った為に、かろうじて独立を保てたからでもあるのですが。その中で日本は、単にタイのように独立を維持しただけでなく、軍事大国として他の欧米諸国と同じように、アジアを侵略していくようになります。国内では富国強兵政策の下で、「女工哀史」や「蟹工船」などの小説に見られるように、農民や労働者を奴隷のようにこき使い、その犠牲の上に立って。
それに対して、アジア諸国も、やがて欧米諸国や日本の侵略に対抗する知恵を身に付けるようになります。最初は、「太平天国の乱」「セポイの乱」「東学党の乱」のような土人の反乱に止まっていたのが、やがて孫文やガンジー、スカルノやホーチミンなどの指導者によって、西欧から学んだ人権や民主主義の思想も取り込んで、民族自決権や民族主義を掲げて植民地からの独立を要求するようになってきます。それが安倍談話の中にある「第一次大戦後の脱植民地化や戦争違法化の動き」となって現れたのです。
このアジア諸民族の覚醒(かくせい)や「脱植民地化や戦争違法化の動き」に気付かず、日本が相も変わらずアジア諸国を「遅れた植民地」としか見なせず、国内においても国民の自由と人権を抑圧してきた所に、日本がその後、孤立を深め戦争に至った真の原因があるのです。国民の自由や権利を抑圧し、貧しい生活のまま抑えつけた為に、国内の消費市場が拡大せず、自国の製品を売る為には新たな植民地を手に入れる他ありませんでした。その為に、満州事変などを引き起こし、次第に欧米諸国とも対立し、経済封鎖で追いつめられていったのです。何の事は無い。「欧米諸国による経済のブロック化」も、元をただせば「自業自得」の結果にしか過ぎなかったのです。
その「自業自得」を他者に責任転嫁し、被害国だけでなく自国の国民をも戦争にまきこんでおきながら、敗戦の責任も取らずに、今度は国民に責任をなすりつけ、「私たちは心に留めなければなりません」「私たちは思いを致さなければなりません」とは、一体何たる言い草かと思いますね。そりゃあ、国民にも戦争責任は大いにありますよ。いかに自由や人権を抑圧されていたとは言え、努力すれば真実を知る事もある程度できたのに、政府やマスコミの言いなりになって、アジア侵略に加担した責任は当時の国民にも勿論あります。だからこそ、戦後、少なくない国民が、原水禁運動や安保条約改定反対、沖縄返還運動やベトナム反戦運動に立ち上がり、自民党による憲法改悪の企てを阻止してきたのでしょう。
それに対して、安倍はどういう態度を取っているか。今も、「平和を守る為」とか「中国や韓国、北朝鮮による領土侵犯から国を守る」とか言いながら、中国や北朝鮮とは何の関係もない地球の裏側まで、米国の言いなりになって派兵する「戦争法案」を強行採決し、国民の自由と人権を抑圧する「憲法改正」を目論んでいるではないですか。「ホルムズ海峡を守る為」とか言いながら、親日国のイランまで敵に回そうとしているじゃないですか。「満州は日本の生命線」とか言って、国民を侵略戦争に駆り立てていった昔と一体どこが違うのか。「私たちは心に留めなければなりません」「私たちは思いを致さなければなりません」とは、私たちに言うより前に、まず己自身が今までの過去を悔い改めて率先垂範すべき言葉ではないか。
だから、今回の安倍談話に対しては、欧米のメディアも辛辣(しんらつ)な評価しかしていないでしょう。いわく、「侵略行為や植民地化に対するお詫び」には一応言及したが、自分の言葉としては決して語らず、過去の内閣談話を踏襲する形で、「もうこれで良いでしょう」と、渋々反省してみせただけだ。そのくせ、「日露戦争ではアジアに希望を与えた」と、白を黒と言いくるめるような事を言っている。おまけに、「戦争には何ら関わりのない子孫に謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません=もう謝罪はこれっ切りにしましょう」と、居直りとしか取れないような事まで言って・・・と言うように。ウォール・ストリート・ジャーナル(WSJ)やニューヨーク・タイムズ(NYT)、ロイターやBBC、AFPも、おしなべてそういう評価しかしていないではないですか。
中国や韓国から何度も謝罪を迫られるのも、いくら形だけ謝罪しても、言った尻からそれをぶち壊すような事を今まで政治家が言い、それが何度も繰り返されて来たからです。その為に、戦争反対の国民や海外で人道復興支援に尽力しているNGO関係者まで「安倍の手先」みたいに思われて、後藤さんみたいにIS(イスラム国)に殺害される人間まで出てくるようになってしまったのです。確かに、今の中国も、チベットやウイグルなどの少数民族を抑圧したり、国内で言論の自由を抑圧したりしていますが、だからと言って、それが過去に日本がやった事の言い訳には全然なりません。それは、「他人が泥棒やっているから自分もやって良い」という理屈が通らないのと同じです。
なお、WSJやNYTの報道とは対照的に、米国政府はどちらかと言うと今回の安倍談話を歓迎しているようですが、これも安倍が談話の中で「戦争法案」推進の姿勢を明らかにしたからであって、別に安倍の復古姿勢まで評価した訳ではありません。安倍がいい気になって余り突出し過ぎると、米国も次第に警戒感を示すようになるでしょう。(参考記事)
そういう意味では、今回の安倍談話も、セクハラ親父やパワハラ親父の弁解とさほど変わりません。散々、部下にセクハラを働いたり暴力を振るってきたブラック企業の上司が、ついに立ち上がった部下に取り囲まれて、渋々反省の弁を述べたものの、その中でも「薄着で挑発した部下が悪い」「仕事が出来ない部下が悪い」と、責任を部下になすりつけている。そんな構図しか思い浮かびません。もし、百歩譲って部下が薄着だったり仕事が出来なかったりしても、それは部下が全て悪いのではなく、エアコンも入れずに仕事もろくすっぽ教えなかった上司にも責任があるのに、その事を棚に上げ、セクハラや暴力行為を正当化できるはずもないのに。
今回の安倍談話で、内閣支持率が37%から43%にまで回復したそうですが、こんな他人事のような談話で世界に恥を晒しながら、なぜそんな話になるのか不思議です。しかし、これも、今まで上司のセクハラやパワハラを容認してきた社員が、自分達もサービス残業や過重労働を強いられながら会社には何も言えず、部下から抗議されると、「お前が無能だから営業ノルマが達成できないのだ」と、逆ギレ、八つ当たりするしか能がない、「ウチの職場の誰かさん」の図を想像すると何となく理解できますw。その社員(安倍支持者)がまずすべき事は、上司(安倍)と一緒になって被害者(中国や韓国)に八つ当たりするのではなく、上司のセクハラやパワハラを諌め、誰もが気持ちよく働く事の出来る職場(世界)を作る事なのに・・・という事で、この問題でもまた「社畜の奴隷根性」克服の課題に行きついてしまいました。昨今の「右傾化、保守化」ブームも、その正体は、ひたすら時流に便乗し、ただ強い者や権力に媚びるだけの「社畜の奴隷根性」でしょう。
いずれにせよ、散々、鳴り物入りで報道された今回の安倍談話でしたが、こんな上辺だけの取って付けたような談話なら、何も出さない方がまだマシでした。これが安倍個人の恥だけに止まるならまだ良いでしょう。しかし、安倍個人のせいで、日本の国や国民まで世界から誤解されるようになったのでは、もう堪った物ではありません。
平成27年8月14日
内閣総理大臣談話 [閣議決定]
終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
そして七十年前。日本は、敗戦しました。
戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
ですから、私たちは、心に留めなければなりません。
戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。
平成二十七年八月十四日
内閣総理大臣 安倍 晋三
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
平成7年8月15日
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html
(注)「杖るは信に如くは莫し」=「よるは しんに しくは なし」と読む。 中国の成語で、「頼りとするものとしては、 信義に勝るものはない。」という意味になる。
内閣総理大臣談話 [閣議決定]
終戦七十年を迎えるにあたり、先の大戦への道のり、戦後の歩み、二十世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り、その歴史の教訓の中から、未来への知恵を学ばなければならないと考えます。
百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。
世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。
当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。
満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。
そして七十年前。日本は、敗戦しました。
戦後七十年にあたり、国内外に斃れたすべての人々の命の前に、深く頭を垂れ、痛惜の念を表すとともに、永劫の、哀悼の誠を捧げます。
先の大戦では、三百万余の同胞の命が失われました。祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦陣に散った方々。終戦後、酷寒の、あるいは灼熱の、遠い異郷の地にあって、飢えや病に苦しみ、亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、東京をはじめ各都市での爆撃、沖縄における地上戦などによって、たくさんの市井の人々が、無残にも犠牲となりました。
戦火を交えた国々でも、将来ある若者たちの命が、数知れず失われました。中国、東南アジア、太平洋の島々など、戦場となった地域では、戦闘のみならず、食糧難などにより、多くの無辜の民が苦しみ、犠牲となりました。戦場の陰には、深く名誉と尊厳を傷つけられた女性たちがいたことも、忘れてはなりません。
何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を、我が国が与えた事実。歴史とは実に取り返しのつかない、苛烈なものです。一人ひとりに、それぞれの人生があり、夢があり、愛する家族があった。この当然の事実をかみしめる時、今なお、言葉を失い、ただただ、断腸の念を禁じ得ません。
これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和がある。これが、戦後日本の原点であります。
二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。
事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。
先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。
我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。
こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。
ただ、私たちがいかなる努力を尽くそうとも、家族を失った方々の悲しみ、戦禍によって塗炭の苦しみを味わった人々の辛い記憶は、これからも、決して癒えることはないでしょう。
ですから、私たちは、心に留めなければなりません。
戦後、六百万人を超える引揚者が、アジア太平洋の各地から無事帰還でき、日本再建の原動力となった事実を。中国に置き去りにされた三千人近い日本人の子どもたちが、無事成長し、再び祖国の土を踏むことができた事実を。米国や英国、オランダ、豪州などの元捕虜の皆さんが、長年にわたり、日本を訪れ、互いの戦死者のために慰霊を続けてくれている事実を。
戦争の苦痛を嘗め尽くした中国人の皆さんや、日本軍によって耐え難い苦痛を受けた元捕虜の皆さんが、それほど寛容であるためには、どれほどの心の葛藤があり、いかほどの努力が必要であったか。
そのことに、私たちは、思いを致さなければなりません。
寛容の心によって、日本は、戦後、国際社会に復帰することができました。戦後七十年のこの機にあたり、我が国は、和解のために力を尽くしてくださった、すべての国々、すべての方々に、心からの感謝の気持ちを表したいと思います。
日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。
私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。
そのことを、私たちは、未来へと語り継いでいかなければならない。歴史の教訓を深く胸に刻み、より良い未来を切り拓いていく、アジア、そして世界の平和と繁栄に力を尽くす。その大きな責任があります。
私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。唯一の戦争被爆国として、核兵器の不拡散と究極の廃絶を目指し、国際社会でその責任を果たしてまいります。
私たちは、二十世紀において、戦時下、多くの女性たちの尊厳や名誉が深く傷つけられた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、そうした女性たちの心に、常に寄り添う国でありたい。二十一世紀こそ、女性の人権が傷つけられることのない世紀とするため、世界をリードしてまいります。
私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄を牽引してまいります。繁栄こそ、平和の礎です。暴力の温床ともなる貧困に立ち向かい、世界のあらゆる人々に、医療と教育、自立の機会を提供するため、一層、力を尽くしてまいります。
私たちは、国際秩序への挑戦者となってしまった過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、自由、民主主義、人権といった基本的価値を揺るぎないものとして堅持し、その価値を共有する国々と手を携えて、「積極的平和主義」の旗を高く掲げ、世界の平和と繁栄にこれまで以上に貢献してまいります。
終戦八十年、九十年、さらには百年に向けて、そのような日本を、国民の皆様と共に創り上げていく。その決意であります。
平成二十七年八月十四日
内閣総理大臣 安倍 晋三
http://www.kantei.go.jp/jp/97_abe/discource/20150814danwa.html
「戦後50周年の終戦記念日にあたって」(いわゆる村山談話)
平成7年8月15日
先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。
敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。
いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。
わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。
敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。
「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/danwa/07/dmu_0815.html
(注)「杖るは信に如くは莫し」=「よるは しんに しくは なし」と読む。 中国の成語で、「頼りとするものとしては、 信義に勝るものはない。」という意味になる。
左から順に、梅屋庄吉ミュージアム、梅屋庄吉、孫文の写真。
長崎・軍艦島旅行記の続きです。長崎へは8月4日の夜に大阪を立ち6日の夕方に帰って来ました。そのうち、5日午前中に訪れた軍艦島資料館と6日の軍艦島の様子については前回記事に書きましたので、今回は5日午後の長崎市内観光について書きます。市内で回った主な場所は、梅屋庄吉ミュージアムとグラバー園、オランダ坂、孔子廟、眼鏡橋と原爆関連の史跡です。中華街や坂本竜馬、シーボルトゆかりの史跡についても観たかったのですが、そこまで回る余裕はありませんでした。
軍艦島資料館の見学を終えて次に向かったのが梅屋庄吉ミュージアム(旧香港上海銀行長崎支店記念館)です。梅屋庄吉と言うのは長崎の実業家で、今の日活映画の前身に当る会社の創立者の一人でもあります。その梅屋が、香港で商売をしている時に、中国の革命家・孫文と知り合いになり、終始彼を支援していく事になります。
孫文と言うのは、今の中華人民共和国が出来る前の、中華民国を建国した人です。中国では1911年の辛亥(しんがい)革命で清帝国が倒れ中華民国が成立しますが、革命後も国内の混乱が続く中で、孫文は1925年に58歳の若さで亡くなってしまいます。今も台湾と中国の両方から「革命の父」と敬われている人です。その孫文を、梅屋庄吉・トク夫妻が支え、孫文と宋慶齢(後に中国政府の要人にまでなった)の結婚仲人も勤めました。
梅屋は中国だけでなく、フィリピンの独立運動も支援しています。当時の日本は、富国強兵政策の下で、欧米諸国に追いつこうと必死でした。「欧米に侵略される前に、早く欧米に追いついて、欧米と同じようにアジアに植民地を獲得しなければならない」と。その考えの下に、台湾や朝鮮を植民地にし、満州や東南アジアに侵略して行ったのです。その中で、梅屋のように、アジアを侵略するのではなく、独立運動に共感して、自分もその中に身を投じようとする人は、まだまだ少数派でした。いまだに安倍首相は「明治の栄光」にすがっていますが、私に言わせれば、当時の梅屋の方が今の安倍よりも、ずっと進歩的だと思いました。
また、梅屋以外にも、中国の革命運動を支援しようとした日本人が多くいました。その中には、三菱の経営幹部や右翼の宮崎滔天(とうてん)と言った人たちもいました。右翼の中にも中国革命を支援した人がいた事は私も知っていましたが、三菱の経営幹部までいたとは思いもよりませんでした。孫文も梅屋も、第二次大戦が始まる前に、いずれも50~60歳代の若さで亡くなってしまいますが、もし彼らがずっと生き続けていたら、その後の日本と中国の関係も、ひょっとしたら変わっていたかも知れませんね。
旧グラバー邸とトーマス・グラバー像。坂本竜馬を財政的に支援した長崎在住の英国商人です。
グラバー邸から見た長崎港の風景と大浦天主堂
眼鏡橋とオランダ坂
梅屋庄吉ミュージアムを出た後、すぐ近くの中華料理の老舗・四海楼で遅めの昼食を取るのですが、その時のエピソードについては、もう少し後でまとめて書く事にします。遅い昼食を済ませた後は、少しでも先を急ぐべく、大浦天主堂・グラバー園・オランダ坂・孔子廟・眼鏡橋と、周辺の史跡を片っ端から巡りました。どこも有名な観光地なので、私もせっかく長崎に来た以上は回らなければ損と、夏の暑さと闘いながら半分意地で巡りました。やはり、市内観光は春か秋に限ります。夏の日中に回っても暑いだけです。しかも、どこに入るにも600円の入場料が要ります。4ヶ所の有料拝観史跡を巡ったので、入場料だけで2400円もの出費となってしまいました。
それでも、グラバー園から見た景色は美しかったです。この大浦一帯は、出島からも目と鼻の先で、長崎の中でもとりわけ異国情緒が強く感じられる場所でした。でも、その反面、余りにも観光地化され過ぎてしまい、どこも人だらけで、今やただのテーマパークに成り下がってしまったようにも感じられました。 眼鏡橋のたもとにある縁結びのハート形の石組みも、最後まで見つける事ができずに終わってしまいました。
長崎原爆資料館と爆心地の碑
メモリアルパークの護岸に掲げられたゲルニカの壁画と、原爆によって崩れ落ちた浦上天主堂の遺構
被爆間もない頃の爆心地の様子と、溶けたガラスの破片などが刺さった当時の護岸の石組み(史跡保存されている)
山王神社(爆心地から約800メートル)の一本足鳥居と、崩れ落ちた鳥居の残骸
同じ山王神社の被爆クスの木と、原爆の爆風で木の幹にめり込んだ大石
そんなこんなで、平和公園周辺にたどり着いたのは、もう夕方近くになってからでした。原爆資料館は夏休み中は18時まで開いているので、何とか観る事ができましたが、平和公園や永井隆記念館の方へは行けずじまいでした。
資料館を出て、すぐ前の爆心地公園を巡った後、山王神社の一本足鳥居と被爆クスノキを観てきました。山王神社は原爆資料館から歩いても行けます。爆心地から800メートルの距離にある山王神社には、当時、四つの鳥居がありました。そのうち、一の鳥居だけが、原爆の爆風が真横から吹き付けた為に、どうにか倒壊を免れた事ができましたが、二の鳥居は片足が吹き飛び、三、四の鳥居は完全に倒壊してしまいました。そして、倒壊を免れた一の鳥居も、戦後の交通事故で車の衝突によって倒壊してしまい、二の鳥居(一本足鳥居)だけが残っているのです。その近くには被爆したクスノキも茂っています。原爆の熱線で幹が焼けただれた上に、爆風で飛んできた大石によって幹に大穴があき、枯れ死寸前にまで追い詰められた山王神社の大クスノキが、驚異の生命力で生き抜き、今も枝を茂らせているのです。その時に飛んできた大石も横に展示されています。
原爆資料館の写真やビデオも凄かったですが、やはり、現存している被爆遺跡の方が、その何倍も真に迫ってくるものがあります。もし、その場に私が居合わせていたら、一体どうなっていたであろうかと思うとゾッとします。この一本足鳥居と被爆クスノキの前で、核戦争なぞ絶対に起こしてはならないと、改めて心に誓いました。
四海楼の建物と、そこで5日のお昼に食べた皿うどん
5日の夕食で食べたトルコライスとミルクセーキ
「通の食べ方」を勧める喫茶店内のメニューと、6日昼に帰りの航空便の時間を気にしながら食べたちゃんぽん。
ここで中華料理店・四海楼での「ちゃんぽん」にまつわるエピソードについて書きます。長崎に着いた初日・5日の昼食は、「ちゃんぽん」発祥の地とされる四海楼で食べる事にしていましたが、実は「ちゃんぽん」にしようか「皿うどん」にしようか、ずっと迷っていました。と言うのも、以前、大阪で「ちゃんぽん」を食べた時に、余り美味しくなかったので、それ以来、余り「ちゃんぽん」は好きになれなかったのです。
それで、その時も四海楼で、「ちゃんぽん」にせずに「皿うどん」で昼食を食べたのですが、レストランは満員で30分以上も待たされてしまいました。ようやく席につく事ができ、「皿うどん」とギョーザのセットを注文したのですが、ギョーザは意外と早く持ってきたものの、「皿うどん」が全然来ずに、とうとう待ちきれずにギョーザだけ先に食べてしまいました。だから、写真には「皿うどん」しか写っていません。
その日は晩も、夕食はホテル近くの喫茶店でトルコライスを注文しました。トルコライスとは、ポークカツが載ったピラフとスパゲティが一つのお皿に盛られた料理です。「ちゃんぽん」や「皿うどん」と並び、長崎を代表するB級グルメとして、最近特に注目されるようになりました。「トルコライス」の名称の由来についても少し調べましたが、とうとう分からずじまいでした。しかも、「トルコライスとミルクセーキをセットで食べるのが通の食べ方だ」と言う事も聞いていたので、更にミルクセーキも注文してしまい、食べた後は満腹で少し動けませんでした。
そして、翌6日、軍艦島から帰ってきて、もうそろそろ空港に向かわなければならない時間に、最後の最後になって、「せっかく長崎まで来たのだから、ちゃんぽんも食べて帰ろう」と意を決して、ついに「ちゃんぽん」にも挑戦する事にしました。そして・・・「なあんだ、美味しいじゃないか」という結果に終わりました。今まで「シツコイ」と思っていた「ちゃんぽん」の濃厚なスープも、てんこ盛りの魚介類や野菜の具と食べなければならないので、これくらい濃厚な味でないと、具に負けてしまう事が分かりました。じゃあ、大阪で食べた不味い「ちゃんぽん」は一体何だったのだろうか・・・?
そこで、「ちゃんぽん」の由来を調べてみると、この料理は、元々は広東料理の「あっさり味のラーメン」だったそうです。その「あっさり味のラーメン」を、当時、四海楼の初代オーナーだった人が、長崎の中国人移民や中国人留学生の粗末な食生活を憂いで、「安くて栄養のあるものを腹一杯食べさせてやりたい」という思いで考案したのが、この「ちゃんぽん」という料理だったそうです。同じ事は「皿うどん」やトルコライスにも言えます。どちらも、安い値段で沢山の具を腹一杯食べられる点は、「ちゃんぽん」と似通っています。
私はその話を聞いて痛く感激しました。貧乏な外国人留学生に対する長崎の人の優しさに。大阪も、コリアンタウンやリトル沖縄があったりして、それなりに異文化を受け入れてきた土地柄ですが、ここまで優しくはありません。外国人や地方出身者に対する風当たりも結構きついのです。ところが長崎には、中国の革命運動やフィリピンの独立運動を支援してきた人たちも少なくありません。それも、左派だけでなく右派や財界人の一部にも、そういう人たちがいたりする。もし、「長崎の心」というものがあるのなら、それは(1)梅屋庄吉に見られるような「海外との友好」精神や、(2)「原爆許すまじ」に代表される「平和愛好」精神、(3)「ちゃんぽん」に見られるような「弱者への思いやり」、この3つを指すのではないだろうかと思いました。
最後に、路面電車に関するエピソードについても少し書いておきます。
長崎市内の移動には路面電車を利用しました。端から端まで乗ってもわずか120円と、運賃が非常に安いので重宝しましたが、途中の乗換が少しややこしいのが玉に傷でした。長崎駅前から赤迫・蛍茶屋・正覚寺下の各終点へは乗換なしで行けるのに、石橋へは途中の築町で乗り換えなければなりません(上記路線図参照)。その場合、石橋までの運賃を先に払った上で、築町で乗り換える際に乗継券を運転手からもらい、石橋の停留所で降りる際に乗継券を渡せば良いのですが、最初はその乗換方法が分からず少しまごつきました。また、乗換の際も、同じ築町のホームでも赤迫行きと石橋行きで待機場所が違ったりと、結構ややこしかったです。
石橋周辺にはグラバー園やオランダ坂などの観光地も多いので、出来れば長崎駅前からも乗換なしで行けるようにしてほしい旨、路面電車を運行している長崎電気軌道(株)本社に旅先からメールしました。その返事が後日返ってきましたが、現実にはなかなか難しいようです。と言うのも、石橋行の路線(5系統)は、大浦海岸通から先は単線になるので、もうこれ以上の増便は難しいのだそうです。この区間は川沿いの狭い道を走るので、複線にしたくても出来ないのです。川を暗渠にしてその上を走らせれば複線にできない事もないのでしょうが、それでなくとも坂の多い長崎で、安易に川に蓋をしてしまうと水害の被害を拡大してしまう事にもなりかねません。それで直通便が出せないのだそうです。ここでも一つ勉強になりました。
そんなこんなで、結構学ぶ事が多かった旅行でした。旅行費用も、新幹線の早割切符が買えなかったので、その代わりに夜行バスとLCC(格安航空便)を使う事で、往復旅費を最小限に抑える事ができました。通常旅費の4割ぐらいに抑える事ができたと思います。その反面、5日午前中に長崎市郊外・野母崎にある軍艦島資料館にまで足を延ばしてしまった事で、その分、午後からの長崎市内観光のスケジュールにしわ寄せが来てしまいました。たとえ朝早く長崎に着いたとしても、1泊2日ではギリギリの旅程日数です。軍艦島ツアーに参加すれば資料ももらえるのだから、無理に資料館まで足を延ばす必要はなかったかも知れません。また、老舗の評判にこだわる余り、四海楼で30分以上も待たされたのも痛かったと思います。夕食は場末の喫茶店でもトルコライスを堪能できたのですから、無理に老舗にこだわらなくても良かったのではないかと思います。以上、今後の反省点にしたいと思います。
長崎・軍艦島旅行から帰って来ました!
軍艦島(端島=はしま)には8月6日の午前中に行きました。とりあえず、その時の写真だけでも先にブログに載せる事にします。その他の長崎市内観光の写真と旅行記は、また次の更新に回したいと思います。
しかし、その軍艦島の写真を整理・編集するだけでも大変でした。この記事に載せた分だけでも30枚位あるのですが、実際にはその倍ほどの分量の写真を撮影しています。その一つ一つに、いちいち撮影日時や場所を添付している余裕もなかったので、帰宅してからはずっと、ブログに載せる写真を選び、それをブログ掲載用に編集し、どこで撮った写真か撮影場所を特定するだけでも一苦労でした。
また、写真撮影できるのは、島の西側にある軍艦島の見学路から観れる建物や風景だけです。見学路は島の周囲全体の約4分の1にしか過ぎません。残りの施設については、軍艦島ツアー会社のガイドさんが説明時に使った写真や、前日に訪れた軍艦島資料館の写真・ビデオを基に、ブログで紹介していく事にします。
ちなみに、軍艦島の土産物は、私の知る限り、この資料館の販売コーナーが一番品数が豊富でした。私は荷物になるのが嫌で、土産物は帰りの飛行機に乗る直前に、市内か空港の土産物屋で買うつもりで、ここでは買いませんでしたが、そちらには軍艦島の物は数えるほどしかありませんでした。お土産を買うなら、たとえ手荷物が増えても、ここで買っておくべきでした・・・。
いよいよ軍艦島が見えてきました!遠くから見ると本当に軍艦の形をしています。どうりで、端島が通称「軍艦島」と呼ばれるはずです。(なお、右の写真は軍艦島資料館に掲げてあった島の全景写真ですが、それを見ても軍艦のような形をしています)
島内を散策できるのは見学路の中だけで、立入禁止区域は船の上からしか見れません。船は、まず島の北東角にある端島病院の方から外洋側を反時計回りに、陸地(長崎半島)側のドルフィン桟橋目指して進みます。(なお、この後も色んな施設名が記事の中に出てきますが、冒頭に軍艦島の島内案内図を掲げましたので、それも参考にしながら読んでもらえれば分かりやすいかと思います)
「軍艦島には日陰は無い。長崎市内の最高気温が35℃ぐらいの時は軍艦島では40℃以上になる。くれぐれも熱中症にならないように気を付けて下さい」と、ツアーガイドの人が何度も注意されていました。熱中症・船酔い予防の為には日よけ帽子と飲料は必需品です。軍艦島には日陰だけでなく自動販売機もありませんから。
ついに軍艦島に上陸!ドルフィン桟橋に接岸します。浮き桟橋ではないので、接岸時に波の衝撃で船が大きく揺れます。「手荷物はリュックに入れるなどして、いつ転んでも良いように両手を開けておくように」との指示がされました。(左上写真)
上陸したらトンネルを潜って第1見学広場へ向かいます。昔はもっと長く薄暗いトンネルが、会社の総合事務所や30号棟アパートの方まで伸びていたそうです。(真ん中の写真)
上陸してまず目に飛び込んで来たのが貯炭コンベヤーの支柱跡です。昔は、私たちが今回上陸したドルフィン桟橋の右の方に、石炭積み出し用の桟橋があり、後述する第2竪坑から積み出し用の桟橋まで、石炭を運ぶ貯炭コンベヤーが伸びていました。
その貯炭コンベヤーの遥か後ろに見えるのが端島小中学校の校舎です。7階建ての校舎で、1階から4階までが小学校、それより上が中学校の教室でした。昭和40年代に入ってからは、体育館や給食室、7階まであるのでエレベーターも設置されました。しかし、今や見る影もありません。体育館は既に崩壊し、校舎の7階もつい最近、台風で崩れ落ちてしまいました。校舎の土台も海水によって浸食され、地盤沈下と建物自体の劣化で、もはや、いつ崩壊してもおかしくない状態だそうです。(右上写真)
第1見学広場など、島内の要所要所には「見学路から外に出るな」との注意書きが立てられていました。今や軍艦島は世界遺産。遺跡保存が厳しく義務付けられるようになりました。それに、閉山して既に40年以上経ち、いつ建物が崩落するか判らないので、住宅街の中には立ち入ることができないのです。その代わりに、ツアーガイドが写真を掲げて当時の様子と今の状態を説明してくれます。
ツアーガイドのほとんどが、軍艦島やその近くの島に住んでいた人たちです。伊王島や高島など軍艦島近隣の島々も、三菱の炭鉱で栄えた島でした。長崎市北方にある池島の炭鉱に至っては、2001年まで稼働していました。現在は「池島さるく」という名のテーマパークとなり、トロッコ電車に乗る事も出来るのですが、あいにく私が長崎を訪れた日は定休日で、場所も離れているので訪問を諦めざるを得ませんでした。ああ、トロッコにも乗りたかったなあ・・・。
続いて第2竪坑の桟橋跡です。左上写真が現代の物で、桟橋の跡だけが、かろうじて残っています。労働者はこの桟橋を上り歩いて、右の竪坑から下に降り、「人車」と呼ばれたトロッコに乗って、海底数百メートル下の石炭採掘現場に向かいました。当時は櫓(やぐら)が組まれ、勤務を終えた労働者と、これから勤務に就く労働者の波で、桟橋の上はごった返していたそうです。
軍艦島案内のリーフレットにも、「海底下千メートル以上もの地底で、気温30℃、湿度95%もの悪条件と闘いながら、ガス爆発と隣り合わせの過酷な業務に従事していた」とあり、労働者が交わす「ご安全に」という挨拶に、「絶対に事故を起こさない」という気持ちが込められていた、と書かれていました。
軍艦島の中央部は岩礁でできた小山になっていて、山麓の炭鉱施設から山上の住宅街に向かって、「山道」とか「山通り」と呼ばれる道が伸びていました。左上写真の山頂にあるのが貯水タンクの跡です。1957年に海底水道が通じるまで、水は船で運ばれ、この貯水タンクに貯められていました。その為、真水は貴重品で、洗濯や浴場、プールの水には海水が使われていました。
貯水タンクとは反対側の崖の上には、端島神社が鎮座していました。島民の信仰を集め、毎年4月3日の山神祭の祭礼では神輿や仮装行列で盛大に盛り上がったそうです。今は神社の拝殿も崩れ落ち、コンクリート造りの祠だけがかろうじて残っている状態です。
その山の崖をぶち抜いて、ボタ(石炭ガラ)運搬用のコンベヤーが、31号棟アパートの中を通り、島の反対側まで伸びていました。石炭を掘ればボタが出ます。それを、島の反対側の海に捨てていたのです。右上写真の遺構は、そのコンベヤーが山をぶち抜くトンネルの入口をふさいだ跡です。
続いて第2見学広場の方に移動します。ここからは三菱炭鉱の会社総合事務所跡が見えます。事務所の建物は既に崩れ落ち、南側の赤レンガの壁だけが残っていました。一般用の共同浴場とは別に、炭鉱夫専用の共同浴場が事務所の中にあり、浴槽はいつも真っ黒に汚れていたそうです。
その赤レンガの壁の後ろから白い灯台が顔をのぞかせています。この灯台は、炭鉱閉山で無人島になった後に造られたものです。炭鉱が24時間フル稼働していた頃は島全体が不夜城で、別に灯台なぞ必要ありませんでしたから。
昔は、石炭と赤土を混ぜた天川(あまかわ)と呼ばれる接着剤で、護岸が作られていたそうですが、右上写真の瓦礫(がれき)が、ひょっとしてその名残でしょうか?
左上の写真が第3見学広場から撮った30号棟アパートです。この30号棟アパートは、1916年に建てられた日本最古の鉄筋コンクリート造りの高層アパートです。右上写真はその隣の31号棟。前述のボタ運搬用コンベヤーの出口も、この31号棟の中に見えていますが、遠くから撮った写真なので分かりずらいかも。南北480メートル、東西160メートルしかない端島に、5千人余りの人が住む為には、このような高層アパートを次々と造らなければならなかったのでしょう。当時の人口密度は東京の9倍にもなる、世界で最も人口過密な地域だったそうです。
真ん中の写真で、ツアーガイドが掲げているのが、当時の汲み取り式の便所の仕組みです。高層アパートという響きからは、戦後の団地を想像しがちですが、この30号棟アパートが造られた当時は、もっと狭く粗末な住まいだったようです。一世帯には、食べ物を煮炊きする竈(かまど)と6畳一間があてがわれただけで、浴場も炊事場もトイレも共同でした。水道も、もちろん共同水道です。建物の端に汲み取り式の共同便所があり、各階から1階に糞便を落とす仕組みになっていたのですが、雨風の強い日は下から吹き上げてくる風で、用を足したつもりが逆に糞まみれになる事も珍しくなかったそうです。
この30号棟が、軍艦島で現存する建物の中で最も古い物です。軍艦島は、別名「コンクリート風化の実験場」とも呼ばれ、潮風や荒波、台風などによって年々浸食されています。今でも、コンクリートの劣化を食い止める根本的な対処法はなく、割れ目を補修するなどの対症療法でしのぐしかないそうですが、ここまで古くなると、もはや手の施しようがなく、朽ちるに任せる他ないそうです。
第3見学広場の横に、床にラインが引かれたくぼ地があったので、何かと思って調べたらプールでした。端島では昼夜三交代で石炭が掘られ、ボタ投棄場所の浜辺(ボタの浜)付近の海は真っ黒に汚れていました。それに、離島で波が高かった事もあり、島の周囲では泳いではいけないと決められていました。但し、実際には、ボタの浜から離れた水のきれいな所では、子どもたちが一杯泳いでいる写真も目にしましたが。
プールはその代替措置として建設された物でした。このプールは1958年に完成し、25メートルプールに幼児用プールが併設されていたようです。
後は見学路からは撮影できない所ばかりなので、ツアーガイドや軍艦島資料館の写真やビデオを基に、説明して行きたいと思います。
左上写真が、島の東側にある65号棟アパートです。1945年から1958年にかけて造られた高層10階建てのコの字型のアパートで、アパートの中でも最大の317戸もの収容数を誇っていました。その次に多かったのが前述の30号棟の140戸で、後は皆、10戸から60戸ぐらいまでの中小アパートでした。
この65号棟は、単に規模が大きいだけでなく、居住性も他のアパートよりは優れていました。コの字型の空間には児童公園が、屋上には保育所が作られ、階段の傾斜も緩やかに設計されていました。もはや30号棟のような汲み取り式の共同便所ではなく、各戸にトイレがあり、一部には水洗トイレまで導入されていました。外の非常階段もエックス字型の粋なデザインで、住民の間でも人気が高かったようです。
この65号棟とその向かいの59棟から67棟アパート周辺は、外洋に面しているので、台風や時化(しけ)の時には高波がまともに建物にぶち当たります。その波が、右上の写真のように、建物を越えて街路にまで押し寄せて来て、通行人がびしょ濡れになるので、通称「潮降り街」と呼ばれました。でも、そんな物を怖がっているようでは軍艦島には住めません。軍艦島では「大波見物」と称して、屋上から花火見物でもするように高波を観賞していたようです。
次の写真は通称「地獄段」と呼ばれた階段です(左上写真)。65号棟から「潮降り街」を左に曲がって、16・17棟と56・57棟の間から端島神社の前に抜ける長い階段です。中学校のマラソンコースになっていて、一番心臓破りの難関だったので、そのような名前がつけられたらしいです。名前こそ仰々しいものの、道行く買い物客の顔からは、どことなく庶民生活の余裕みたいなものが感じられます。
階段や通常の道以外にも、各棟の間に渡り廊下が造られ、住民は頻繁に他のアパートと行き来していたようです(右上写真)。同じ高層アパートでも、現代の無機質なオートロックの高層マンションとは全く趣が異なるようですね。
私が参加した軍艦島ツアーのガイドさんもそうでしたが、戦後の炭鉱住宅の暮らしを皆、懐かしがっていました。当時「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫は、他の地域では普及率がまだ20%ぐらいだった昭和30年代初めでも、既に100%を数え、まだ共同アンテナが開発される前だったので、アパートの屋上にはテレビアンテナが林立していました。資料によると、各家庭には「ダルマ」と呼ばれるプロパンガスが無料で配られ、水道や共同浴場の入浴料も無料で、アパートの家賃も昭和30年代までは無料、それ以降も月額10円とか、当時の物価を考慮してもタダ同然の値段でした。(以上、前回記事で紹介した長崎文献社・刊「長崎游学」シリーズ4「軍艦島は生きている!」の記述より)
確かに、炭鉱労働は危険と隣り合わせの重労働で、住居は狭く風呂も共同浴場で、その点では不便でしたが、ガイドさんの話や写真に写っている人々の顔を見ても、今のワーキングプアのような悲愴感は全然感じられないのです。これが三菱に直接雇われた本工の炭鉱夫だけに限った話なのか、それとも当時、日給社員とか下請け社員とか呼ばれた人も含めてそうだったのか、そこまでは調べられませんでしたが。
春闘要求を掲げた組合掲示板の下でたむろする人たち(左上写真)と、会社の朝礼か何かの全体集会と思しき風景(右上写真)
端島メーデー(左上写真)と、端島労働組合定期大会(右上写真)の様子
その一方で、端島炭鉱では大きな労災事故がたびたび起こっています。1955年(昭和30年)以降の落盤事故だけに限っても、1955年(死者3名・負傷者1名)、1956年(死者3名)、1963年(負傷者10名)、1964年(死者1名・火傷30名)、1973年(死者1名)と、立て続けに大きな事故が起こっています。特に1964年8月に起こった坑内火災では、消火の為に坑道を広範囲に水没させなければならない破目に陥っています。この事故がきっかけで、2千人余りも離職者が出ました。そして、過去84年間では215名もの方が事故でなくなっています。
しかも、ガイドの話によると、朝鮮人などの外国人労働者の数は、これらの統計からも漏れているそうです。前述の長崎文献社の資料によると、朝鮮人の間では端島(軍艦島)は「地獄島」と呼ばれ、1925年から45年の20年間に、少なくとも63名の外国人が事故で亡くなっているそうです。
このように、ツアーガイドの言う「豊かな生活」と、朝鮮人の間で噂された「地獄島」との間には、大きな落差があります。この落差は一体どこから来るのか。それがずっと謎でした。その謎はいまだに解明された訳ではありませんが、どうやら、大正時代に造られた30号棟アパートと、終戦直後から戦後に渡って造られた65号棟アパートの暮らしぶりの違いに、その謎を解く鍵があるようです。30号棟が、6畳一間で汲み取り式の共同便所しか無いタコ部屋同然の造りだったのに対し、65号棟では、6畳と4畳半の二間に増え、狭いながらも児童公園や緩やかな階段も設けられ、水道代・ガス代・家賃もタダの企業福祉社会が築かれました。
その間に何があったのか。戦後の民主化で労働組合が合法化されたからではなかったのか(1946年に組合結成)。確かに、企業福祉に「おんぶにだっこ」で、下請け工も巻き込んでの運動だったかどうかは定かではないものの、組合が一定そこで果たした役割は無視できないと思います。この端島もそうでしたが、近隣の伊王島や香焼など、炭鉱や造船所のあった島は、保守県の長崎の中では、共産党が比較的強い地域として知られています。国政選挙でも約1割の得票率を保持し、地方選挙では定数2や3の選挙区でも当選を果たしたりしています。
安倍政権は、軍艦島などの世界遺産登録に際して、「明治の栄光」という事を念頭に置いたと言われています。あくまで「明治の産業革命遺産」が登録申請の対象なのに、産業革命とは直接関係のない松下村塾などが申請リストに加えられている事からも、その事は明らかです。でも、地元が思い描く軍艦島は、あくまでも戦後の民主化によって一定豊かな生活が送れるようになった時代に限られています。ツアーガイドが、戦後の歴史については、自身の歴史も含めて生き生きと語っていたのに対し、戦前については、外国人強制労働の話はしても、「明治の栄光」については「マニュアルに載っているから言っているだけ」にしか感じられませんでした。
もちろん、そこには「当時は生まれていなかったから」という理由もあると思いますが、それ以上に、「明治の栄光」と「戦後の家電ブーム」の、どちらにより親近感が感じられるか、という問題があると思います。
「三種の神器」の家電ブームも、農地改革や今の平和憲法、労働基準法などが施行され、特高警察がなくなり労働組合の活動が合法化されたからこそ起こったものです。戦前の貧しい小作農や「蟹工船」「女工哀史」のような状態では、消費ブームなぞ起こりようもなかったでしょう。もちろん、当時の庶民全てがそこまで考えていたとは私も思いませんが、「明治の栄光」なぞ、しょせん我々とは別世界の出来事なのだという事は、庶民も薄々は感づいているのではないでしょうか。同じ軍艦島ブームに沸く場合でも、安倍と地元の一般庶民との間には、「同床異夢」の関係が厳然と存在しています。安倍がいくらその点を曖昧にして、「昔は良かった」と、戦後も戦前もごちゃ混ぜにして「明治の栄光」を強調しても、一般庶民との間には、埋められない落差が厳然として存在し、安倍が「明治の栄光」を強調すればするほど、その落差もますます大きくなっていく事でしょう。
軍艦島(端島=はしま)には8月6日の午前中に行きました。とりあえず、その時の写真だけでも先にブログに載せる事にします。その他の長崎市内観光の写真と旅行記は、また次の更新に回したいと思います。
しかし、その軍艦島の写真を整理・編集するだけでも大変でした。この記事に載せた分だけでも30枚位あるのですが、実際にはその倍ほどの分量の写真を撮影しています。その一つ一つに、いちいち撮影日時や場所を添付している余裕もなかったので、帰宅してからはずっと、ブログに載せる写真を選び、それをブログ掲載用に編集し、どこで撮った写真か撮影場所を特定するだけでも一苦労でした。
また、写真撮影できるのは、島の西側にある軍艦島の見学路から観れる建物や風景だけです。見学路は島の周囲全体の約4分の1にしか過ぎません。残りの施設については、軍艦島ツアー会社のガイドさんが説明時に使った写真や、前日に訪れた軍艦島資料館の写真・ビデオを基に、ブログで紹介していく事にします。
ちなみに、軍艦島の土産物は、私の知る限り、この資料館の販売コーナーが一番品数が豊富でした。私は荷物になるのが嫌で、土産物は帰りの飛行機に乗る直前に、市内か空港の土産物屋で買うつもりで、ここでは買いませんでしたが、そちらには軍艦島の物は数えるほどしかありませんでした。お土産を買うなら、たとえ手荷物が増えても、ここで買っておくべきでした・・・。
いよいよ軍艦島が見えてきました!遠くから見ると本当に軍艦の形をしています。どうりで、端島が通称「軍艦島」と呼ばれるはずです。(なお、右の写真は軍艦島資料館に掲げてあった島の全景写真ですが、それを見ても軍艦のような形をしています)
島内を散策できるのは見学路の中だけで、立入禁止区域は船の上からしか見れません。船は、まず島の北東角にある端島病院の方から外洋側を反時計回りに、陸地(長崎半島)側のドルフィン桟橋目指して進みます。(なお、この後も色んな施設名が記事の中に出てきますが、冒頭に軍艦島の島内案内図を掲げましたので、それも参考にしながら読んでもらえれば分かりやすいかと思います)
「軍艦島には日陰は無い。長崎市内の最高気温が35℃ぐらいの時は軍艦島では40℃以上になる。くれぐれも熱中症にならないように気を付けて下さい」と、ツアーガイドの人が何度も注意されていました。熱中症・船酔い予防の為には日よけ帽子と飲料は必需品です。軍艦島には日陰だけでなく自動販売機もありませんから。
ついに軍艦島に上陸!ドルフィン桟橋に接岸します。浮き桟橋ではないので、接岸時に波の衝撃で船が大きく揺れます。「手荷物はリュックに入れるなどして、いつ転んでも良いように両手を開けておくように」との指示がされました。(左上写真)
上陸したらトンネルを潜って第1見学広場へ向かいます。昔はもっと長く薄暗いトンネルが、会社の総合事務所や30号棟アパートの方まで伸びていたそうです。(真ん中の写真)
上陸してまず目に飛び込んで来たのが貯炭コンベヤーの支柱跡です。昔は、私たちが今回上陸したドルフィン桟橋の右の方に、石炭積み出し用の桟橋があり、後述する第2竪坑から積み出し用の桟橋まで、石炭を運ぶ貯炭コンベヤーが伸びていました。
その貯炭コンベヤーの遥か後ろに見えるのが端島小中学校の校舎です。7階建ての校舎で、1階から4階までが小学校、それより上が中学校の教室でした。昭和40年代に入ってからは、体育館や給食室、7階まであるのでエレベーターも設置されました。しかし、今や見る影もありません。体育館は既に崩壊し、校舎の7階もつい最近、台風で崩れ落ちてしまいました。校舎の土台も海水によって浸食され、地盤沈下と建物自体の劣化で、もはや、いつ崩壊してもおかしくない状態だそうです。(右上写真)
第1見学広場など、島内の要所要所には「見学路から外に出るな」との注意書きが立てられていました。今や軍艦島は世界遺産。遺跡保存が厳しく義務付けられるようになりました。それに、閉山して既に40年以上経ち、いつ建物が崩落するか判らないので、住宅街の中には立ち入ることができないのです。その代わりに、ツアーガイドが写真を掲げて当時の様子と今の状態を説明してくれます。
ツアーガイドのほとんどが、軍艦島やその近くの島に住んでいた人たちです。伊王島や高島など軍艦島近隣の島々も、三菱の炭鉱で栄えた島でした。長崎市北方にある池島の炭鉱に至っては、2001年まで稼働していました。現在は「池島さるく」という名のテーマパークとなり、トロッコ電車に乗る事も出来るのですが、あいにく私が長崎を訪れた日は定休日で、場所も離れているので訪問を諦めざるを得ませんでした。ああ、トロッコにも乗りたかったなあ・・・。
続いて第2竪坑の桟橋跡です。左上写真が現代の物で、桟橋の跡だけが、かろうじて残っています。労働者はこの桟橋を上り歩いて、右の竪坑から下に降り、「人車」と呼ばれたトロッコに乗って、海底数百メートル下の石炭採掘現場に向かいました。当時は櫓(やぐら)が組まれ、勤務を終えた労働者と、これから勤務に就く労働者の波で、桟橋の上はごった返していたそうです。
軍艦島案内のリーフレットにも、「海底下千メートル以上もの地底で、気温30℃、湿度95%もの悪条件と闘いながら、ガス爆発と隣り合わせの過酷な業務に従事していた」とあり、労働者が交わす「ご安全に」という挨拶に、「絶対に事故を起こさない」という気持ちが込められていた、と書かれていました。
軍艦島の中央部は岩礁でできた小山になっていて、山麓の炭鉱施設から山上の住宅街に向かって、「山道」とか「山通り」と呼ばれる道が伸びていました。左上写真の山頂にあるのが貯水タンクの跡です。1957年に海底水道が通じるまで、水は船で運ばれ、この貯水タンクに貯められていました。その為、真水は貴重品で、洗濯や浴場、プールの水には海水が使われていました。
貯水タンクとは反対側の崖の上には、端島神社が鎮座していました。島民の信仰を集め、毎年4月3日の山神祭の祭礼では神輿や仮装行列で盛大に盛り上がったそうです。今は神社の拝殿も崩れ落ち、コンクリート造りの祠だけがかろうじて残っている状態です。
その山の崖をぶち抜いて、ボタ(石炭ガラ)運搬用のコンベヤーが、31号棟アパートの中を通り、島の反対側まで伸びていました。石炭を掘ればボタが出ます。それを、島の反対側の海に捨てていたのです。右上写真の遺構は、そのコンベヤーが山をぶち抜くトンネルの入口をふさいだ跡です。
続いて第2見学広場の方に移動します。ここからは三菱炭鉱の会社総合事務所跡が見えます。事務所の建物は既に崩れ落ち、南側の赤レンガの壁だけが残っていました。一般用の共同浴場とは別に、炭鉱夫専用の共同浴場が事務所の中にあり、浴槽はいつも真っ黒に汚れていたそうです。
その赤レンガの壁の後ろから白い灯台が顔をのぞかせています。この灯台は、炭鉱閉山で無人島になった後に造られたものです。炭鉱が24時間フル稼働していた頃は島全体が不夜城で、別に灯台なぞ必要ありませんでしたから。
昔は、石炭と赤土を混ぜた天川(あまかわ)と呼ばれる接着剤で、護岸が作られていたそうですが、右上写真の瓦礫(がれき)が、ひょっとしてその名残でしょうか?
左上の写真が第3見学広場から撮った30号棟アパートです。この30号棟アパートは、1916年に建てられた日本最古の鉄筋コンクリート造りの高層アパートです。右上写真はその隣の31号棟。前述のボタ運搬用コンベヤーの出口も、この31号棟の中に見えていますが、遠くから撮った写真なので分かりずらいかも。南北480メートル、東西160メートルしかない端島に、5千人余りの人が住む為には、このような高層アパートを次々と造らなければならなかったのでしょう。当時の人口密度は東京の9倍にもなる、世界で最も人口過密な地域だったそうです。
真ん中の写真で、ツアーガイドが掲げているのが、当時の汲み取り式の便所の仕組みです。高層アパートという響きからは、戦後の団地を想像しがちですが、この30号棟アパートが造られた当時は、もっと狭く粗末な住まいだったようです。一世帯には、食べ物を煮炊きする竈(かまど)と6畳一間があてがわれただけで、浴場も炊事場もトイレも共同でした。水道も、もちろん共同水道です。建物の端に汲み取り式の共同便所があり、各階から1階に糞便を落とす仕組みになっていたのですが、雨風の強い日は下から吹き上げてくる風で、用を足したつもりが逆に糞まみれになる事も珍しくなかったそうです。
この30号棟が、軍艦島で現存する建物の中で最も古い物です。軍艦島は、別名「コンクリート風化の実験場」とも呼ばれ、潮風や荒波、台風などによって年々浸食されています。今でも、コンクリートの劣化を食い止める根本的な対処法はなく、割れ目を補修するなどの対症療法でしのぐしかないそうですが、ここまで古くなると、もはや手の施しようがなく、朽ちるに任せる他ないそうです。
第3見学広場の横に、床にラインが引かれたくぼ地があったので、何かと思って調べたらプールでした。端島では昼夜三交代で石炭が掘られ、ボタ投棄場所の浜辺(ボタの浜)付近の海は真っ黒に汚れていました。それに、離島で波が高かった事もあり、島の周囲では泳いではいけないと決められていました。但し、実際には、ボタの浜から離れた水のきれいな所では、子どもたちが一杯泳いでいる写真も目にしましたが。
プールはその代替措置として建設された物でした。このプールは1958年に完成し、25メートルプールに幼児用プールが併設されていたようです。
後は見学路からは撮影できない所ばかりなので、ツアーガイドや軍艦島資料館の写真やビデオを基に、説明して行きたいと思います。
左上写真が、島の東側にある65号棟アパートです。1945年から1958年にかけて造られた高層10階建てのコの字型のアパートで、アパートの中でも最大の317戸もの収容数を誇っていました。その次に多かったのが前述の30号棟の140戸で、後は皆、10戸から60戸ぐらいまでの中小アパートでした。
この65号棟は、単に規模が大きいだけでなく、居住性も他のアパートよりは優れていました。コの字型の空間には児童公園が、屋上には保育所が作られ、階段の傾斜も緩やかに設計されていました。もはや30号棟のような汲み取り式の共同便所ではなく、各戸にトイレがあり、一部には水洗トイレまで導入されていました。外の非常階段もエックス字型の粋なデザインで、住民の間でも人気が高かったようです。
この65号棟とその向かいの59棟から67棟アパート周辺は、外洋に面しているので、台風や時化(しけ)の時には高波がまともに建物にぶち当たります。その波が、右上の写真のように、建物を越えて街路にまで押し寄せて来て、通行人がびしょ濡れになるので、通称「潮降り街」と呼ばれました。でも、そんな物を怖がっているようでは軍艦島には住めません。軍艦島では「大波見物」と称して、屋上から花火見物でもするように高波を観賞していたようです。
次の写真は通称「地獄段」と呼ばれた階段です(左上写真)。65号棟から「潮降り街」を左に曲がって、16・17棟と56・57棟の間から端島神社の前に抜ける長い階段です。中学校のマラソンコースになっていて、一番心臓破りの難関だったので、そのような名前がつけられたらしいです。名前こそ仰々しいものの、道行く買い物客の顔からは、どことなく庶民生活の余裕みたいなものが感じられます。
階段や通常の道以外にも、各棟の間に渡り廊下が造られ、住民は頻繁に他のアパートと行き来していたようです(右上写真)。同じ高層アパートでも、現代の無機質なオートロックの高層マンションとは全く趣が異なるようですね。
私が参加した軍艦島ツアーのガイドさんもそうでしたが、戦後の炭鉱住宅の暮らしを皆、懐かしがっていました。当時「三種の神器」と呼ばれた白黒テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫は、他の地域では普及率がまだ20%ぐらいだった昭和30年代初めでも、既に100%を数え、まだ共同アンテナが開発される前だったので、アパートの屋上にはテレビアンテナが林立していました。資料によると、各家庭には「ダルマ」と呼ばれるプロパンガスが無料で配られ、水道や共同浴場の入浴料も無料で、アパートの家賃も昭和30年代までは無料、それ以降も月額10円とか、当時の物価を考慮してもタダ同然の値段でした。(以上、前回記事で紹介した長崎文献社・刊「長崎游学」シリーズ4「軍艦島は生きている!」の記述より)
確かに、炭鉱労働は危険と隣り合わせの重労働で、住居は狭く風呂も共同浴場で、その点では不便でしたが、ガイドさんの話や写真に写っている人々の顔を見ても、今のワーキングプアのような悲愴感は全然感じられないのです。これが三菱に直接雇われた本工の炭鉱夫だけに限った話なのか、それとも当時、日給社員とか下請け社員とか呼ばれた人も含めてそうだったのか、そこまでは調べられませんでしたが。
春闘要求を掲げた組合掲示板の下でたむろする人たち(左上写真)と、会社の朝礼か何かの全体集会と思しき風景(右上写真)
端島メーデー(左上写真)と、端島労働組合定期大会(右上写真)の様子
その一方で、端島炭鉱では大きな労災事故がたびたび起こっています。1955年(昭和30年)以降の落盤事故だけに限っても、1955年(死者3名・負傷者1名)、1956年(死者3名)、1963年(負傷者10名)、1964年(死者1名・火傷30名)、1973年(死者1名)と、立て続けに大きな事故が起こっています。特に1964年8月に起こった坑内火災では、消火の為に坑道を広範囲に水没させなければならない破目に陥っています。この事故がきっかけで、2千人余りも離職者が出ました。そして、過去84年間では215名もの方が事故でなくなっています。
しかも、ガイドの話によると、朝鮮人などの外国人労働者の数は、これらの統計からも漏れているそうです。前述の長崎文献社の資料によると、朝鮮人の間では端島(軍艦島)は「地獄島」と呼ばれ、1925年から45年の20年間に、少なくとも63名の外国人が事故で亡くなっているそうです。
このように、ツアーガイドの言う「豊かな生活」と、朝鮮人の間で噂された「地獄島」との間には、大きな落差があります。この落差は一体どこから来るのか。それがずっと謎でした。その謎はいまだに解明された訳ではありませんが、どうやら、大正時代に造られた30号棟アパートと、終戦直後から戦後に渡って造られた65号棟アパートの暮らしぶりの違いに、その謎を解く鍵があるようです。30号棟が、6畳一間で汲み取り式の共同便所しか無いタコ部屋同然の造りだったのに対し、65号棟では、6畳と4畳半の二間に増え、狭いながらも児童公園や緩やかな階段も設けられ、水道代・ガス代・家賃もタダの企業福祉社会が築かれました。
その間に何があったのか。戦後の民主化で労働組合が合法化されたからではなかったのか(1946年に組合結成)。確かに、企業福祉に「おんぶにだっこ」で、下請け工も巻き込んでの運動だったかどうかは定かではないものの、組合が一定そこで果たした役割は無視できないと思います。この端島もそうでしたが、近隣の伊王島や香焼など、炭鉱や造船所のあった島は、保守県の長崎の中では、共産党が比較的強い地域として知られています。国政選挙でも約1割の得票率を保持し、地方選挙では定数2や3の選挙区でも当選を果たしたりしています。
安倍政権は、軍艦島などの世界遺産登録に際して、「明治の栄光」という事を念頭に置いたと言われています。あくまで「明治の産業革命遺産」が登録申請の対象なのに、産業革命とは直接関係のない松下村塾などが申請リストに加えられている事からも、その事は明らかです。でも、地元が思い描く軍艦島は、あくまでも戦後の民主化によって一定豊かな生活が送れるようになった時代に限られています。ツアーガイドが、戦後の歴史については、自身の歴史も含めて生き生きと語っていたのに対し、戦前については、外国人強制労働の話はしても、「明治の栄光」については「マニュアルに載っているから言っているだけ」にしか感じられませんでした。
もちろん、そこには「当時は生まれていなかったから」という理由もあると思いますが、それ以上に、「明治の栄光」と「戦後の家電ブーム」の、どちらにより親近感が感じられるか、という問題があると思います。
「三種の神器」の家電ブームも、農地改革や今の平和憲法、労働基準法などが施行され、特高警察がなくなり労働組合の活動が合法化されたからこそ起こったものです。戦前の貧しい小作農や「蟹工船」「女工哀史」のような状態では、消費ブームなぞ起こりようもなかったでしょう。もちろん、当時の庶民全てがそこまで考えていたとは私も思いませんが、「明治の栄光」なぞ、しょせん我々とは別世界の出来事なのだという事は、庶民も薄々は感づいているのではないでしょうか。同じ軍艦島ブームに沸く場合でも、安倍と地元の一般庶民との間には、「同床異夢」の関係が厳然と存在しています。安倍がいくらその点を曖昧にして、「昔は良かった」と、戦後も戦前もごちゃ混ぜにして「明治の栄光」を強調しても、一般庶民との間には、埋められない落差が厳然として存在し、安倍が「明治の栄光」を強調すればするほど、その落差もますます大きくなっていく事でしょう。
軍艦島は生きている!―「廃墟」が語る人々の喜怒哀楽 (長崎游学マップ 4) | |
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暑い日が続いていますが、読者の皆さんはいかがお過ごしでしょうか。私も夏バテで、なかなかブログを更新する気になれませんでした。これからぼちぼち更新していく事にします。まずは旅行の告知から。既にツイッターでは告知しましたが、この8月5日、6日と一泊二日で長崎に旅行に行きます。行き先は世界遺産登録を巡る騒動で話題になった軍艦島です。そのついでに長崎市内も回ってきます。
軍艦島というのは、九州・長崎半島の沖に浮かぶ炭鉱で栄えた小島です。端島(はしま)と言うのが島の正式名称ですが、横から見ると軍艦のように見えるので軍艦島と呼ばれました。幅数百メートルしかない小島に最盛期には5千人余もの人々が住んでいました。現在は炭鉱も閉山して無人島になり当時の廃墟だけが残されています。その廃墟群の世界産業遺産登録を巡り、日韓両国の間で対立が起こった事は皆さんもニュース等でご存知でしょう。
私も最初は、なぜ韓国政府が軍艦島の世界遺産登録にまでケチをつけてくるのか、いぶかしく思っていました。たとえ、朝鮮人強制労働などの負の遺産があったとしても、それをきちんと後世に伝える為にも世界遺産登録は必要だと思っていましたから。
でも本当は、ケチをつけていたのは韓国よりもむしろ日本政府の方だったようです。「前述の私のような趣旨であれば、韓国政府としても登録申請に協力する」と言う事で両国間で合意していたのに、そこに安倍政権の方から急に、「登録対象とするのは1905年までの産業遺産だけだ。1905年までが対象なので、1910年の日韓併合以降に本格化した朝鮮人強制連行などには触れなくても良いのだ」と横槍を入れてきた為に、問題がこじれてしまったようなのです。
・世界遺産をめぐって露わになった、安倍政権ニッポンの時代錯誤に歪んだ歴史観と、事実・現実の認識から逃避する精神構造 by 藤原敏史・監督(FRANCE10)
http://www.france10.tv/international/5147/
・世界遺産「韓国の裏切り」報道は大嘘! 難癖をつけたのは日本政府と安倍首相だった(リテラ)
http://lite-ra.com/2015/07/post-1256.html
・韓国反発「明治産業遺産」は安倍首相のゴリ押し! 仕掛人の女性に「俺がやらせてあげる」(同上)
http://lite-ra.com/2015/07/post-1250.html
これは誰が見てもおかしな理屈です。1810年に炭鉱が発見され、1890年に三菱の手に渡って本格操業が始まり、1916年以降は島内に鉄筋コンクリート造りの高層アパートが建設され、軍艦島(端島炭鉱)は最盛期を迎えます。炭鉱の石炭は優良品質の瀝青炭(れきせいたん)だったので、戦後にエネルギー源が石炭から石油に代わってもしばらくは操業を続ける事ができましたが、それでも時代の流れには逆らえず、1974年の閉山で無人島になってしまいました。その軍艦島の歴史からすれば、最盛期はむしろ1905年以降です。少なくとも産業遺産として登録するなら、1810年の発見から1974年の閉山までを一体として捉えなければならないのに、なぜ1905年なぞという中途半端な年代で、その後の歴史を切り捨てなければならないのか。
それでも時代区分で観るというのであれば、私はむしろ、1945年を境とした戦前と戦後で区分すべきだと思います。軍艦島の案内サイトには、「テレビや洗濯機がいち早く普及した」なぞと、戦後高度成長期における炭鉱夫の豊かな暮らしぶりが紹介されていますが、これも戦後の民主化で労働組合の活動が認められるようになったからでしょう。それ以前の、労働組合も労働基準法も無かった戦前の時代には、朝鮮人だけでなく日本人労働者の間でも、タコ部屋労働や「蟹工船」「女工哀史」的な搾取がまかり通っていたはずです。
だから、本当に分けて考えるならば、1905年なんかではなく、1945年を境としたの戦前と戦後に分けて考えなければならないはずです。その上で、戦前の悲惨な暮らしも、戦後の比較的余裕のある暮らしも、その余裕(高賃金)も落盤事故の危険と隣り合わせのはかないものであった事も、きちんと見た上で、過去の光と影の部分を公平に紹介するものでなければならないはずです。そうしてこそ初めて、軍艦島を世界産業遺産として登録申請する価値もあると思います。それが、安倍政権のような「光の部分のみにスポットを当て、影の部分は闇に葬り去る」ような姿勢では、韓国政府の反発を呼ぶのも当然でしょう。
もしも他国が同じような事をしたらどうなるでしょう?たとえば、米国が、1940年前後で歴史を適当に区切って、原爆開発におけるアインシュタイン博士の功績のみを伝え、広島・長崎の惨禍については評価の対象外だとして全然伝えなかったとしたら、我々はそんな「功績」の世界遺産登録に賛成できるのでしょうか?軍艦島の問題もそれと同じではないでしょうか。
『日本残酷物語』を読む (平凡社新書) | |
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今、長崎では、軍艦島観光がちょっとしたブームになっているそうです。世界産業遺産への登録申請を機に、島への上陸ツアーが企画され、島内の一部には見学路も整備されました。その中で、どこまで島の「影の部分」の歴史についても、きちんと紹介がされているか。それをまず観てこようと思っています。そして長崎(野母)半島先端近くにある軍艦島資料館にも是非行ってみたい。年末年始以外は年中無休で、長崎市内から約30分おきに出る市バスで比較的容易にたどり着く事ができ、入場料も無料との事。
そのついでに、せっかく長崎まで行くのですから、グラバー邸や坂本龍馬、シーボルトの史跡や、オランダ坂、眼鏡橋や、原爆資料館なども観てこようと、有休を取って一泊二日の日程で、オリジナルの旅行計画を立てました。
交通費を浮かせるために、行きは夜行バス、帰りは格安航空便で、宿泊も長崎市内のビジネスホテルを使う事にしました。8月4日の夜に大阪を立ち、5日はまるまる長崎市内観光に当てます。午前中に、軍艦島資料館の他にオランダ坂、大浦天主堂、グラバー邸などを巡った後、午後からは平和公園や原爆資料館の方に行く予定です。その中でも特に、原爆の爆風で残された山王神社の一本足鳥居や、中国革命の父・孫文と交流のあった実業家・梅屋庄吉の史跡(旧香港上海銀行記念館)は是非観てみたい。その上で、坂本龍馬やシーボルトの史跡にも行けたらもう御(おん)の字です。
その夜、前述のホテルに泊まった後、6日の午前中に軍艦島に上陸します。長崎市内に帰ってきて昼食を食べたら、もう13時過ぎには遠郊の大村市沖の空港に向かわなければ、大阪に帰る格安航空便の搭乗手続きには間に合いません。そう考えると、ちょっとハードスケジュールかも知れません。念の為に、効率良く回れるように、下記のオリジナル観光マップも作りましたが、さて、どれだけ回れる事やら。この調子では旅先も酷暑だろうし、軍艦島ツアーでは船に長く揺られたりもするので、日射病対策や船酔い対策も欠かせません。では、旅の報告については、次回のお楽しみと言う事で。