アフガン・イラク・北朝鮮と日本

黙って野垂れ死ぬな やられたらやり返せ 万国のプレカリアート団結せよ!

私達こそ政治的中立を口実とした違法な言論弾圧を許しません。

2015年12月20日 10時10分46秒 | 監視カメラよりも自由な社会に

 
 「放送法遵守(じゅんしゅ)を求める視聴者の会」なる団体による上記の意見広告が産経・読売の2紙に掲載されたのが今年の11月14日から15日にかけてでした。
 そして、私がその事を知ったのは、11月30日に回ってきた下記のネット署名を読んでからでした。

私達は、政治家に対し「放送法」の遵守を求めます!!(報道への介入をやめて下さい)
【BPOは政治家の駆け込み寺じゃない、放送法はテレビ局を黙らせる道具じゃない】
https://www.change.org/organizations/政治家に放送法の遵守を求める視聴者の会

 「どうやら、意見広告の名を騙って、政府・自民党や右翼が、TBSの安保報道に対して、不当な圧力を加えているらしい」という事で、そのネット署名にはサインしたものの、「放送法」や「BPO」がどうたらこうたら書かれていて、詳しい事情がよく分からなかったので、もうそのままにしておきました。
 その後、社員登用試験の面接を受けたり、色々ありましたが、それも落ち着いたので、改めて、最初のきっかけになったくだんの意見広告を改めて読んでみました。そうしたら、そこにはとんでもない内容が書かれていました。(参考資料
 遅くなりましたが、今回は上記の意見広告について取り上げてみたいと思います。

―2015年9月16日放送のTBS報道番組「NEWS23」で、メインキャスター(司会者)の岸井成格(しげただ)氏が、「メディアとしても安保法制の廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」と言ったのは、政治的偏向に基づく個人の主観を公共の電波を使って垂れ流すものであり、放送法第4条に定める政治的公平に反してる。我々「放送法遵守を求める視聴者の会」は、決してこのような偏向番組を容認しない。岸井氏やTBSに断固抗議すると共に、今後もこのような偏向番組には監視の目を光らせていく―というのが、この意見広告の趣旨であるようです。

 しかし、私に言わせれば、「政治的に偏っているのは、むしろ、放送法何ちゃらの会の方ではないか?」と思います。

 その理由は、第一に、この「放送法遵守を求める視聴者の会」(以下、「会」と略す)呼びかけ人の経歴です。
 すぎやまこういち/代表(作曲家)、渡部昇一(上智大学名誉教授)、渡辺利夫(拓殖大学総長)、鍵山秀三郎(株式会社イエローハット創業者)、ケント・ギルバート(カリフォルニア州弁護士・タレント)、上念司(経済評論家)、小川榮太郎(文芸評論家)の、以上6名が呼びかけ人との事ですが、いずれも安倍政権・自民党の応援団みたいな人たちばかりじゃないですか。
 例えば、「会」の事務局長を務める小川榮太郎氏の著書には、「国体の回復に『勝機』はあるか」(「Voice」1月号)、「保守的理念実現の基盤としてのアベノミクス」(「言志」Vol.4)、「「日本は大国であることを引き受けよ」(「祖国と青年」7月号)などの右翼的なタイトルのものが一杯並んでいます。そして、ご自身も「美しい日本の憲法を作る国民の会」代表発起人や「平和安全法制の早期成立を求める国民フォーラム」呼びかけ人を務めておられます。そりゃあ、こんな人から見たら、そうでない普通の人は、全て「左に偏っている」と見えるでしょう。こんな人たちに、他人様のことを「政治的に偏っている」だの何だのと非難する資格はないと思います。

 第二に、番組の取り上げ方が余りにも恣意(しい)的です。この意見広告では、TBSの「NEWS23」が「反政府、反権力に偏っている」と攻撃されていますが、この程度の報道で「偏っている」なぞと攻撃するのであれば、昨日12月18日に橋下徹・大阪市長の引退会見を、どのテレビ局も「橋下ヨイショ」一色で報道した事については、一体どう思っているのでしょうか。実際、この引退会見のニュースをテレビで見た知人も、「どの局も橋下ヨイショ一色で薄気味悪かった」と、私へのメールの中でぼやいていました。一番組、一キャスターの一発言よりも、こちらのメディアジャック状況の方が、よっぽど「偏っている」じゃないですか。
 また、毎週日曜日午後1時半から、読売テレビが関西中心に流している「そこまで言って委員会」という番組がありますが、その番組では、毎回、辛坊治郎や金美齢などが、安倍・橋下ヨイショ一色の発言を、公共の電波を使って垂れ流していますが、それは無視するのですか?
 他にも、NHK会長・籾井勝人の「政府が右と言うものを左と言う訳にはいかない」発言や、作家・百田尚樹の自民党懇話会での「沖縄の新聞を懲らしめる」発言等々、枚挙に暇(いとま)がありません。これらを全て黙認・容認しておいて、なぜTBSでの岸田氏の発言ばかりを攻撃するのか?

 第三に、この意見広告の中で、岸田氏について、「一コメンテーター、一個人としてではなく、番組司会者として発言したから問題なのだ」という箇所がありますが、これも私に言わせると全く的外れです。なぜなら、いくら司会者を何も知らない無色中立の人物にさせても、周囲のコメンテーターを右寄りや左寄りの人物で固めてしまえば、それで番組の流れが決まってしまいます。
 また、「会」主催の説明記者会見では、「購読者が金を出して買う新聞や雑誌ではなく、公共の電波を使って一方的な情報を垂れ流すから問題なのだ」と言う事も言っていますが、これも見当違いです。なぜなら、今や日本のメディアは、大新聞がそのまま放送局を傘下に収めるクロスオーナーシップ制度の下にあります。読売新聞―日本テレビ、毎日新聞―TBS、産経新聞―フジテレビ、朝日新聞―テレビ朝日、日経新聞―テレビ東京という形で、他の先進国には見られないほど、マスコミの系列化が完成しています。このマスコミの系列化による情報独占こそが問題なのに、それを問題にせずに無条件に肯定したまま、「公共の電波を使って」なぞと言われても、「問題のすり替え」にしかならないでしょう。

 第四に、放送法第4条も、あくまでその前段の第1条を前提としたものであるのに、なぜ、この意見広告は、放送法第1条や放送法全体からこの問題を取り上げずに、第4条違反だけを言い募るのか?
 
 放送法第1条(目的) 
 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
 一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
 二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
 三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。

 第3条(放送番組編成の自由) 
 放送番組は、法律に定める権限に基づく場合でなければ、何人からも干渉され、又は規律されることがない。

 第4条(国内放送等の放送番組の編集等) 
 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
 一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
 二 政治的に公平であること。
 三 報道は事実をまげないですること。
 四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
 http://www.houko.com/00/01/S25/132.HTM#s1


 放送法は上記の体系になっています。治安維持法や検閲で言論が抑圧され、大本営発表や御用報道しか許されなかった為に、侵略戦争の実態や軍部の暴走が国民の目から覆い隠された戦前の教訓から、もう二度と戦前の轍を踏まない為に、放送法が制定されたのです。「放送の不偏不党」や「政治的公平」も、放送法第1条に掲げる「表現の自由」確保や「健全な民主主義」発達に資する為のものです。「政府や権力を批判する自由」、「監視する活動」が保障されてこそ、初めて「政治的公平」や「事実を曲げない報道」「多角的な論点」も実現できるのです。
 もちろん、そこには一定の節度があってしかるべきですが、一キャスターの政府批判にまで一々目くじら立てられては、政府批判なぞ一切できなくなってしまいます。

 日本国憲法第12条にある「国民は、これ(憲法が保障する基本的人権)を濫用してはならないのであって、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負う」という規定も、例えばマンション住民の日照権と居住権や、個人のプライバシー権と「知る権利」が対立した時に、お互いの権利や自由が侵害されないようにする為に、それぞれがどう折り合いをつけるべきかを定めたものであって、国が一方的に「あれはダメだ、これもダメだ」と指図できるものではないでしょう。

 ところが実際は、国が一方的に「あれはダメだ、これもダメだ」と指図できるようになりつつあるようです。本来なら、この憲法12条の精神で、放送への意見や苦情、放送倫理上の問題に対して自主的に独立した立場で活動している第三者機関のBRO(放送倫理・番組向上機構)に対して、主に与党政治家の方から「名誉を傷つけられた」との苦情が殺到し、まるで「与党政治家の駆け込み寺」のような状況になっているそうです。
 「どこまでが政治批判で、どこからが名誉毀損か」については、具体的な例に即して考えなければなりませんが、明らかな恐喝や虚偽の告発でない限り、政治家への批判は許容されるべきです。政治家なんて批判されて何ぼなのですから。
 それが、私が第二で上げたようなメディアジャック、情報独占や、「政府が右と言うものを左と言う訳にはいかない」「沖縄の新聞を懲らしめる」発言に見られるような政治家によるマスコミ支配の状況には頬かむりしたまま、逆に正当な批判まで名誉毀損として封殺されるなら、この国にはもはや民主主義なぞ存在しないと言わなければなりません。

 第五に、この意見広告の中ではこんな事も言っています。総務大臣ですら「一つの番組だけ見て政治的に偏っていると断ずるのは早計だ」と言っているにも関わらず、「視聴者は全部の番組なんて見れないのだから、一つの番組の中においても公平性確保や多様な意見紹介が為されるべき」だと。つまり「どんな番組も両論併記の形にしろ」と言っているのです。
 しかし、もしそんな番組ばかりになったら、一体どうなります?ある企業の公害や過労死問題を取り上げようとしても、そこに必ず企業側の言い分も織り込まなければならなくなってしまいます。それも「偏るな」と言うのですから8対2ぐらいでは不十分でしょう。5対5か6対4の割合で、企業側の言い分も入れなければならなくなってしまいます。しかし、それでは、この番組の主題がぼやけてしまいます。一体何を言いたいのか、皆目分からない腑抜けみたいな番組になってしまいます。現に、第一次安倍政権の時に、従軍慰安婦の事を取り上げた番組が、政権側の圧力によって、当初の内容とは正反対の、まるで「従軍慰安婦なぞいなかった」かのような内容に改ざんされてしまいました。
 それでは、報道番組はただの政府広報に成り下がってしまいます。何か伝えようとしても、一々偏っているかどうか気にしなければならなくなれば、もはや新聞の首相動静記事のような、政府にとって無害な都合の良い事実しか、伝えられなくなってしまいます。既に今でも、ニュースキャスターが政治家にインタビューする際に、キャスターが自分の言葉で語らず、政治家の発言をそのまま垂れ流す場面ばかりになってしまっているじゃないですか。これでは戦前の大本営発表と同じです。

 「公平」や「中立」を御用報道の言い訳にしてはなりません。番組で何かを伝えようとする限り、そこには必ず番組編集者の主観、意見が混ざるのは避けられません。何か問題だと思うから報道するのである以上、それは当然の事です。それが「偏っている」かどうかを判断するのは視聴者であって政治家ではありません。そもそも、「そのニュースが真実であるかどうか」が問題なのであって、「偏っているかどうか」なんて二の次です。それが真実であれば、たとえ今の政府からすれば「偏っていよう」とも、それを伝えるのがマスコミの使命です。それを見て、真実であるか虚偽であるか、正当な批判であるか行き過ぎであるかを判断するのも、視聴者であって政府ではありません。
 「偏っている?」、大いに結構じゃありませんか。それに文句があるなら、自分も「偏った」意見を発表すれば良いだけです。その成否を判断するのは国民であって政府ではありません。今、当然のように思われている主権在民や民主主義の考え方も、戦前の日本では非国民の異端思想でした。それが今のようになるには、多くの犠牲がありました。腑抜けのような報道や大本営発表ばかりの世の中よりも、多少偏っていようとも、自由に意見が言える世の中の方がはるかに健全です。
 何が「私達は違法な報道を見逃しません」か。私達こそ、政治的中立を口実とした違法な言論弾圧を絶対に許しません。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 犬鳴山ハイキングコースの安... | トップ | 参考資料:「放送法遵守を求... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

監視カメラよりも自由な社会に」カテゴリの最新記事