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住吉川(細江川)の源流を探る旅

2021年09月26日 10時12分24秒 | 身辺雑記・ちょいまじ鉄ネタ

コロナでどこにも行けないので休日は近場の散策で気を紛らわしています。前回の「加賀屋緑地」に続いて今回は「住吉川」を取り上げます。西成区から住之江区に越してきて、地元のニトリで家具を購入した帰りに、住吉川にかかる住之江大橋を渡っていた時に、橋の上流と下流で川の趣が余りにも違う事に驚きました。そこで、一度河口から源流をたどってみようと思い立ち、昨日自転車で散策して来ました。

住吉川の河口部は工場地帯です。平林の貯木場が横にあり、昔は住吉川から貯木場にかけて多くの材木が貯蔵されていました。今も河口部には材木を係留していた杭が川面に立ち並んでいます。河口付近は川幅も広く、船も係留されています。住之江大橋付近では、川底を掘り下げ護岸を耐震化する工事が行われていました。

住之江大橋から上流をさかのぼると、それまでの工場地帯とは一転して、マンション横の緑地帯を流れるようになります。川の名称は依然として住吉川のままですが、川幅は心なしか狭まったように感じます。散策したのは朝だったので、満ち潮で川面一杯に水が広がっていますが、夕方の引き潮時には真ん中の水路にしか水が流れなくなります。川の隣には住之江公園の池もあり、野鳥が飛び立ち、池の周囲には彼岸花が咲き誇っていました。

住吉川は阪神高速のガード下で大きく湾曲しています。このガード下を昔は十三間堀川が流れていました。大和川から十三間堀川、木津川を経由して大阪市内に船で荷物を運んでいました。今は十三間堀川は埋め立てられて親水公園になっています。住吉川もガード下の湾曲部を過ぎると、更に川幅が狭まり、細江川と名前を変えます。同時に川の格も、一級河川から準用河川に、一気に二階級も降格となります(一級河川は国、二級河川は都道府県、準用河川は市町村が管理します)。そして、府道堺・阪南線の橋を越え、住吉公園の脇をかすめ、南海本線の高架下から更に上流を目指します。

住吉川から細江川と名前を変えた川は、川幅がさらに狭まる一方で、深さは逆に増して、ちょっとした渓谷美を楽しめます。川の上を阪堺線のチンチン電車が通り過ぎます。川のたもとにある駅の名前は「細井川」。一方で川の正式名称は「細江川」。何故こんな違いが生まれたのでしょうか?

阪堺線の 細井川駅から更に細江川をさかのぼると、川をはさんで右に大歳社(おおとししゃ)、左に浅沢社(あさざわしゃ)が見えて来ます。どちらも住吉大社の末社です。浅沢社の周囲は小さな湿地になっていて、杜若(かきつばた)が生えています。「細江川」の名前は、昔ここが入り江であった事から来ています。平安時代の頃は、人々はここまで船に乗って来て、住吉大社に参拝していたのです。では「細井川」の名前は、一体どこから来たのでしょうか?はっきりした事はまだ分かりません。一説には「細江」がなまったものだと言われています。しかし、私が思うには、この浅沢社と関係があるのかも知れません。神社の周りの小さな湿地は、今は水が枯れていますが昔は湧水地でした。それを井戸になぞらえて「細井川」と呼ぶようになったとも考えられないでしょうか?そう考えると、なかなか面白いですね。

浅沢社も大歳社も「初辰(はったつ)まいり」の参拝コースに組み込まれています。月の初めの辰の日に、住吉大社の末社を巡り、五穀豊穣を祝うのが「初辰まいり」です。参拝者は、まず種貸社(たねかししゃ)で稲の穂を受け取り、楠君社(なんくんしゃ)で稲穂と交換してもらいます。そして、浅沢社で諸芸上達を祈願してから、大歳社で神米(住吉大社の中にある田んぼで取れたお米)を授かります。その際に、大歳社の境内にある「おもかる石」で願い事がかなうかどうか占います。おもかる石が持ち上がれば願いがかない、持ち上がらなければ更に努力しなければなりません。私も試してみましたが、重くて全然持ち上げる事が出来ませんでした。(´;ω;`)

浅沢社と大歳社にはさまれた「一ツ橋」から更に上流に向かうと、やがて緑地帯が途切れて、細江川はただのドブ川に変わってしまいます。南海高野線の鉄橋の下をくぐり、あべの筋の千躰(せんたい)交差点の下で遂に暗渠に変わります。

住吉川(細江川)は、河口部ではあれだけ川幅が広かったのに、10キロもさかのぼらないうちに暗渠に変わってしまうのです。わずか10キロの間に二度も名前を変え、様々な顔を見せてくれた住吉川(細江川)に感謝して、千躰の交差点を後にしようとしたその時、バス停に表示された地図を見ると、何とその先にも川筋がたどれるではないですか!一体どこが源流なのか?

実はここから先は人工河川なのです。大阪市が「細江川親水河川」として整備した遊歩道でした。流れている水も下水を一次処理したものに過ぎません。市営団地の中を流れる親水河川をたどれば、やがて防水ポンプ場が現れ、そこで流れが途切れます。「いざやここ若菜つみてん~浅沢小野は里遠きとも」と和歌に詠まれた由緒ある川の流れも、始まりはただの防水ポンプ場だったのか…。( ゚Д゚)

後で調べたら、住吉川(細江川)の源流は、元々は依網池(よさみいけ)という名の池でした。依網池から流れ出た水が川となり、住吉大社の先で入り江に注いでいたのです。ところが、江戸時代中期に、それまで大阪城の方に流れていた大和川が、洪水対策で堺の方に流れを付け変えられる事になりました。依網池も大和川の一部となり、川は主水源を失う事になりました。それでも、防水ポンプ場から流れ出た水が、歴史の小道の中を流れ、10キロも行かないうちに、船をも浮かべるような大河に変身するのです。これほど変化に富んだ川が他にあるでしょうか。大河も一滴のしたたりから。それを身近で体験できた探索の旅でした。\(^o^)/


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