奈良時代末のおさらいになります。
藤原乙牟漏(フジワラノオトムロ)(760~790)の父親は、藤原四兄弟の式家の宇合(ウマカイ)の次男である良継(ヨシツグ)【宿奈麻呂スクナマロ】です。
宇合の長男であった兄の広嗣(ヒロツグ)が、聖武天皇時代の740年に九州で広嗣の乱を起こし、遠い値嘉島(五島列島北の宇久島)で捕えられ斬刑なった時、弟の良継も連座して伊豆国へ流罪となりました。
良継はその後許されましたが、当時は南家藤原仲麻呂の絶頂期であり、乙牟漏が産まれた頃は不遇の日々をおくらざるを得ませんでした。
一時は仲麻呂暗殺計画(763年)まで起こしましたが、失敗して姓も剥奪された時もありました。
しかしこの藤原仲麻呂が764年に恵美押勝の乱を起こすと、父良継はその討伐軍に加わて、再び中央政界に復帰しました。
770年称徳天皇が崩御すると、良継は弟の藤原百川(モモカワ)や従兄弟で藤原北家の藤原永手(ナガテ)と組んで、白壁王(第49代光仁天皇)の擁立に尽力しましたが、、天智系の白壁王をあえて推した理由は、白壁王の息子に自分の娘乙牟漏が嫁いでいることもあったんだと思われます。
白壁王の長男でしたが、母親は身分の低い百済系渡来人の娘高野新笠だったので、まさか天皇に成れるとは思ってなかった頃の山部親王(ヤマベシンノウ)と結婚したので、まだまだ無位だった乙牟漏は、14歳で774年に安殿親王(アテシンノウ)(後の第51代平城天皇)を産み、781年には夫がまさかまさかの第50代桓武天皇として即位したので、無位→正三位→夫人→皇后と位が上がりました。
785年には息子安殿親王が立太子し、786年には神野親王(カミノシンノウ)(後の第52代嵯峨天皇)を産みましたが、789年高志内親王(コシナイシンノウ)を産んだ翌年に31歳で亡くなり、考古学的には4世紀代の古墳であるこの高畠陵(タカバタケノミササギ)(京都府向日市)に葬られました。
天之高藤廣宗照姫之尊(アマカツタカフジヒロムネテルヒメノミコト)
返事
花水木さん:当リを跨ごうとして跨ぎきれず、
前方に唐黷アみました。
頭では出来そうなことが出来なくなってます。
当時の奈良仏教界が平安京に遷都したくなかったので、
「ナクヨ坊さん」の方が、理屈にあった憶え方だと思っています。
大雪男さん:自転車通勤の時は帽子を被るようになりました。
京都の夏は死ぬほど暑いですので、気力も萎えます。