第50代桓武天皇には35人の子供がいたそうですが、その第12皇子である仲野親王(ナカノシンノウ)(792~867)と言われても、ピンときませんし今まで聞いたこともなかったです。
でも墓は、嵐電帷子ノ辻(カタビラノツジ)駅とJR山陰線太秦(ウズマサ)駅の間にあって、結構目立つ大きな墓でした。
藤原四家の中で一番目立たず人材も少なかった藤原京家の出の藤原大従(フジワラノオオツグ)の娘藤原河子(カワコ)が、桓武天皇の宮人(キュウジン)となり、5人の親王・内親王を産みましたが、その内の一人が仲野親王です。
住宅街の中にある高い丘に木々が生い茂り、森のようになった高畠墓(タカバタケノハカ)、参道も非常階段のように細く伸びていました。
仲野親王は歴史の中で特に何かしたと言うわけではないようですが、垂箕山古墳(タルミヤマコフン)と言われるこの大きな前方後円墳に葬られているのは、少し不思議です。
まあ、治定されたのが明治になってからですから・・・・。
空濠のなってるような墓外周の道を、丁度聡恍?フ職員に咎められないように一周巡りました。
仲野親王にも17人の子供がいましたし、75歳と長生きです。
仲野親王の沢山の子供のうちの一人班子女王(ハンシジョオウ)が、親王時代からの第55代光孝天皇の妃となっていて、源定省(ミナモトノサダミ)を産んでいます。
この一時は臣籍降下していた定省が、第56代宇多天皇になってしまったので、仲野親王は死後20年経ってから、天皇の外祖父として一品太政大臣を追贈されています。
返事
花水木さん:今や私のブログは、
半分は花水木さんのコメントを期待してる読者で成立っていますので、
面唐ナすが一行でもコメントお願いいたします。
京都は大文字がすむと、秋になりました。
今年も半分以上が過ぎ、月日は巡りますが、
目標無く生きるのはしんどいです。