島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

71-1後三条天皇

2020-09-28 | 天皇陵巡り
 
 1034年に産まれた尊仁親王(タカヒトシンノウ)は、第69代後朱雀天皇の第2皇子で、母は第67代三条天皇第3皇女禎子内親王(テイシ)(1013~1094)(母は藤原妍子)です。
 異母兄第70代後冷泉天皇の皇太子に12歳で成れましたが、藤原北家の関白頼通・教通は娘を後宮に入れてる後冷泉天皇に皇子が産まれて、出来るなら外祖父に成りたかったので、尊仁親王には冷たかったようです。
  写真は、龍安寺の裏にあった薄くなって読みにくい立札ですが、ここから山へあがると、六つの御陵と一つの火葬塚に行けるとあります
 
 道長と倫子の間に産まれた、当腹(ムカイバラ)(正妻の子)の頼通などの子供は関白になったり皇后になったりしていますが、同じ兄弟でも母が違う道長と明子(メイシ・アキラケイコ)との間の外腹(ソトバラ)の子は、なかなか出世できませんでした。
 外腹の一人藤原能信(ヨシノブ)(995~1065)が強力に推したので、尊仁親王は皇太子に成れたようです。
  先ほどの立札をもう少し進むと、母の禎子内親王(後朱雀天皇皇后)の御陵の向こうに見える山際に、三人の天皇陵が並んでいます。
 
 尊仁親王の東宮妃として18歳の時に、23歳の第68代後一条天皇皇女で母は藤原威子の馨子内親王(ケイシ・カオルコ)(1029~1093)を入内させましたが、出来た二人の子供はいずれも夭折しています。
 能信の養女となった藤原茂子(モシ・シゲコ)(?~1062)も入内し、第1皇子貞仁親王(サダヒト)(1053~1129)(後の第72代白河天皇)など1男4女をもうけました。
 又女御としては源基子(キシ・モトコ)(1049~1134)を寵愛して、第2・3皇子が産まれています。
  三つ並んだ鳥居に向かって左側が、この後三条天皇陵です。
 
 後見人となっていた藤原能信はもう亡くなっていましたが、異母兄後冷泉天皇は後継者が産まれることなく亡くなったので、尊仁親王が即位し、第71代後三条天皇(ゴサンジョウ)(1034~1073)(在位1068~1073)が産まれました。
 これで第61代朱雀天皇からちょうど10代、130年以上続いた藤原北家の娘を母親にした天皇の時代は終わりました。
 まあそれでも、後三条天皇の母禎子内親王の母親は、道長の娘妍子ですので、藤原北家の血がまだまだ濃く入ってると言えばそうです。
  写真の天皇陵印も三つの陵名がまとめて入っています。
 
 娘を天皇に嫁がせ、出来た幼い孫を次の天皇にして、自分は外祖父として政治の実権を握る摂関政治はここでほぼ終わりました。
 その最後として、頼通・教通兄弟は摂政・関白として政治の実権をまだ握っていましたが、後三条天皇は1069年延久の荘園整理令を発布したり、1072年延久宣時e(エンキュウノセンジマス)の制定など、天皇親政も開始しています。
  写真のように、三つの陵共に高台にあるので、近くまで行けませんでした
 
 後三条天皇は即位後わずか4年で第1皇子貞仁親王に譲位し、院政を開こうとしていますが、次の年には40歳でもう亡くなってしまい、父と異母兄の横で母の陵も見える圓宗寺陵(エンソウジノミササギ)(右京区竜安寺朱山)に葬られました。
 火葬塚は京都岡崎の平安神宮の中にあって、見せてもらえたというブログもありましたが、私は番人や若い宮司に「そんなものは知らん」とけんもほろろに断われてしまいました。
 写真の平安神宮の案内看板の現在地の少し右に、後三条天皇火葬塚は有るはずなのですが、偉そうにして入れてくれませんでした。
五島や長崎など他の地方でも道を尋ねると、こちらが恐縮してしまうぐらい親切丁寧に教えてもらえることが多いですが、京都の名所に居る私ぐらいの年の番人はいつも高圧的な態度で接してくるので、気分が悪くなることが多いです。
 私も他山の石として、京都のいじわるお爺さんにならないように気を付けます。

        返事
花水木さん:今年は彼岸花の開花が1週間ほど遅れてる、
    とニュースで知りました。
    彼岸花の生活リズムを狂わすほどの異常気候になってるんですかね。
    私は開花せずに、枯れ果てる人間のようです。
     草間彌生さんの作品は、色が明るいから気持ち良いです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする