マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

高樋町春日神社の木鼻紋様色柄

2017年02月18日 09時45分31秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
高樋町の宮総代から電話があった。

今年は造営の年。

この月の29日に一時的に仮住まいされている春日神社の神さんは本殿御遷座祭の夜に戻られる。

それまでは本殿を塗り替えている。

塗替えに、さて、困ったことがある。

あの部分にあった色付けが何色でどういう彩色であったか記録がないから相談にのってほしいというお願いだ。

これまで高樋町の神社行事を取材させてもらったことはあるが、本殿の彩色のすべてを細かく見たことがない。

見たことがないから細部はなおさら撮ってもいない。

さて、困ったのは私だ。

しかも、宮総代が云われる彩色部分がどこだかわからない。

相談に架けてきた電話の声を手さぐりに調べてみた。

それはもしかとすれば本殿前にある支えの柱ではないだろうか。

両端に突き出した部分である。

そこは四角いままのものもあればお寺本堂でよく見る「象」がある。

長いお鼻をもつ象さんの顔である。

細かい彫刻をしたものもあれば断面的にしたものもある。

彫刻はそれぞれ。

彩色もさまざまな形のそれは何という名称であるのか。

ネットを駆使して当てもなく探してみた結果である。

二つ目に神社様式をさがしてみる。

あっちもこっちも出てくる、出てくるありがたい情報に助かる。

本殿前にある建物構造は鳥居である。

垂木は支えである。

頭貫(ぬき)と呼ばれる水平材の両端は柱を突き抜けて飛び出している。

木材そのものの形の場合もあるが、彫刻などを施して彩色した装飾。

これらの形態は別として木の端にあることから木端(きばな)の呼び名がある。

いつしか充てる漢字は「木鼻(きばな)」になった。

それは装飾のなかに象の鼻を象った象鼻や獅子、獏などである。

いずれも動物の鼻が突き出るような恰好から、それを木で造った鼻ということで「木鼻」になったのであろう。

わかりやすく解説してくださるネットに感謝する。

宮総代や今ちょうどに彩色している大工さんに説明するには資料がいる。

そのうちの一部をプリントアウト。

もうひとつは鮮明ではないが、平成27年3月1日に取材した春日神社のハルマツリに撮った写真があった。

シキジが下げる松苗の後方に建つのが本殿。

木鼻部分の映像を拡大して持っていった。

神社に着けば職人さんが作業をしていた。

親方は宮総代と話をして近隣村にある春日神社を探したそうだ。

そこにあった木鼻を拝見して参考にする。

その映像はスマホに撮っていた。

さすがの棟梁である。

春日大社まで出かけて調べたというが・・・。

それはともかく高樋の春日神社の木鼻はそれらの情報とわずかに残っていた木鼻の彩色から想定しながら塗ったという。

私がもってきた昨年の写真と見比べても遜色ない。

間違ってはいなかった棟梁の見立てに拍手する。

念のためというか、後学のために旧五カ谷村にある近隣村の春日神社の状態も見ておこうと云った宮総代とともに車を走らせる。

一カ所は神社行事の取材はできていないが鎮座する神社が春日神社であることを認知している隣村の中畑である。

もう一カ所は五カ谷村でなく天理市になるが岩屋の春日神社である。

両社の状態を実見することで高樋町の在り方が理解できる、ということだ。



この映像は中畑町に鎮座する春日神社である。

様式は高畑とまったく違う。

柱、垂木のすべてが真っ白。

木鼻は象の形でもないような可愛さがある紋様である。

二つ目の映像は天理市岩屋に鎮座する春日神社である。

所在地は存知していないが神社下にある建物は入室したことがある。

その建物は融通念仏宗派の本願寺。

勤めている僧侶は室生下笠間にある春覚寺の住職も務めているSさんだ。

平成17年6月18日に撮らせてもらった虫送りの写真をさしあげようと思って訪ねた。

本堂庫裡で長話になったことを覚えている。

そのS住職とは今年の虫送りにもお会いした。

それはともかく岩屋の春日神社である。



本殿の塗りが真新しい。

近年において造営されたのであろう。

当社にも明確な形の木鼻があった。

なんとなく高樋に似ている雲形渦巻き模様であるが彩色は異なる。

こうして三社を見ればわかるように同じ様式ではなかったわけだ。

奈良県には春日神社が各地にある。

それらのすべてかどうかわからないが春日大社の払い下げ。

つまり今年がそうであるが、20年おきに行われる春日大社の式年造替は社殿を建て替える。

古い社殿は地方に建つ社殿に移築された。

その年代は記録されているのか存知しないが、写真家のKさんはそれを撮り続けていると話していた。

ちなみに春日神社調査に立ち寄った岩屋に旧暦閏年に行われる庚申さんの塔婆があったことに気づく。



これも記録と思って撮っておいた塔婆に願文がある。

ひとつは「奉修南無地蔵尊広大慈思 天下和順日月清明風雨以時災痛不起五穀成就」。

もう一つは「奉修南無青面金剛童子菩提 天下和順日月清明風雨以時災痛不起五穀成就」である。

三つめは「奉修南無愛□権現広大慈思・・・天下和順日月清明風雨以時災痛不起五穀成就」だった。

3本それぞれ慈悲する本尊が異なるが願いは同じである。

奉った日があれば特定できるのだが・・。

追って調べてみたい岩屋の閏庚申行事である。

(H28. 7.21 EOS40D撮影)

ならまちの西光院

2017年02月17日 08時31分36秒 | 奈良市へ
防火バケツがどこまであるのか歩いていた。

ふと見上げたらバラの花を象った門が見つかった。

門でもそうだが瓦を積んでいる塀は大和の民家にそこそこあることを知っている。

これまで拝見した形に桃の実やはとぽっぽ。

もちろんといえばアレだが、鍾馗さんだ大黒さんもある。

ならまちの一角におお猿さんもあるが、バラの花びらを見たのは初めてだ。

その寺には先客の客人がおられた。

何かについて尋ねているようだ。

お相手されていたのは婦人の僧侶。

ご朱印を書いていたようだった。

話を終えた婦人の僧侶に瓦製のバラの花のことについて尋ねてみた。

なんでも瓦の職工人が勝手にしやはったという飾り門であった。



ここの寺は紫雲山西光院。

門を潜ったところに立て看板がある。

同寺にある弘法大師座像は裸。

10年に一度は新しく作られた衣で着せ替える。

全身裸形像は鎌倉時代の中期から後期にかけての作。

珍しい木造裸形坐像は昭和63年に奈良市の文化財に指定されていると書いてあった。

僧侶の話しによれば十年に一度は衣替えをするらしい。

かつては5年おきであったが、現在は10年サイクル。

昨年の平成27年にされたので次回は平成37年。

とはいっても作り替える費用は高額。

そのときの賄い費用はべらぼうになるようだから直前に訪ねなければならないだろう。

そのときがくれば、であるが、衣替えは4月20日(大師入定前夜の逮夜)に法要、厳行すると話すが、撮影は一切許可されていない。

なお、毎年の4月20日から月までは、廿日大師の名で呼ばれている本尊弘法大師座像をご開帳されているようだ。

この月、23日の地蔵まつりに同寺本堂で近所寄合の人たちによって数珠繰りをしているという。

この場合の撮影は申し出があれば特別に許可しているが、弘法大師座像など一切の仏像が写り込まないようにということだった。

(H28. 7.21 EOS40D撮影)

思考した「住」テーマに選んだ消防がある町

2017年02月16日 09時41分10秒 | 民俗あれこれ(消防編)
前日は長時間に亘る6回目になる「私がとらえた大和の民俗」写真展の打合せ。

テーマの“住”に難儀しているカメラマンが半数。

この日は2回目になる打合せ。

自分自身のテーマに写真を明確に示したのは私の他にSさん、Nさん、Mさん、Mさん。

2テーマから絞り込みをかけるのはUさんやNさん。

テーマが決まらないから、まだ写真は提示できない。

松井さんは欠席だが絞り込んできた。

写真3点は決まったがテーマタイトルがまだなMさん。

3点を選んでテーマタイトルを決めようとするMさん。

欠席されたSさんも苦しんでいるようだ。

みなは生みの苦しみに悩まされているようだ。

人それぞれ、さまざまな思いでテーマをどうするかに悩まれている。

私と云えば紆余曲折。

今回のテーマは「火廼要慎(ひのようじん)」に決めたが、ここまでくるにはそうとう悩んだものである。

前年の12月打ち上げに決まった6回目のテーマ。

どこへも行けない身体だった自宅療養中は考える時間がたっぷりあった。

たぶんに“住”が決定されることだろうと家で吉報を待っていたら、その通りになった。

そのころに描いていたテーマは神さまが住まいするオカリヤを揚げていた。

式年造替で建替え工事される期間は別のところでお住まいになる。

仮屋である。

造替だけでなくマツリにおいて一時的にお旅所に向かわれる場合もある。

そのときは一時的に作ったオカリヤに移られる。

また、神さんを収めたヤカタの場合もある。

ヤカタは次のトウヤ家に移るような場合もある。

廻り地蔵さんはそういう形態である。

神さんは神棚に納められる場合もある。

一時的であろうが、神さんが住まいする処に違いはない。

神さまがあれば、仏さまの事例もある。

とはいっても仏像ではなく、先祖さんだ。亡くなられたら墓に移る。

移る場合にチョーローソクの道しるべというような風習がある。

仏さんの草鞋や指標ともなる卒塔婆もあれば迎えの六地蔵もある。

被写体はさまざま。

仏さんは動く。

盆ともなればオショウライサンとなって下りて来る。

迎えは線香とか藁松明。

先祖さんを迎えたら仏壇におられるということになる。

では、そのときの先祖さんは墓地にいないのか・・・、である。

迎えた家は仏壇の前にそれこそ先祖さんを示した位牌を並べる。

県内でよくみられるお盆の在り方に仏さんの住まいを・・と考えてみた。

それとは別にオクドサンとも呼ばれている竃もどうかと考えてみた。

住まいに火がなければ食事はできない。

そう思って揚げてみたこれまで撮った写真。

田原の里の現役のオクドサンに室生下笠間で撮らせてもらったこれまた現役のオクドサン。

旧月ヶ瀬村の動態保存されている菊家茅葺家も考えてみたが、どうもしっくりいかない。

写真を並べてみてもインパクトを感じないのだ。

ふっと頭をよぎったのは「火」である。

山間などで度々目にした旧家の茅葺民家。

茅葺でなくとも屋根の下あたりにある「水」の文字装飾。

火事にならないような祈りの建造物。

取材した宇陀の佐倉にあったコイノボリ柱跡撮影のときに話してくれた堂辻の婦人。

棟上げの際に納めた棟木の材料はミズキの木だったという。

火事にならないように「水」に願いをかけたミズキの木だそうだ。

重伝建に揚げられていなくとも県内各地の家々にみられる「うだつ」がある。

類焼を避けるためにも煙が隣家にいかないように構造化された「うだつ」を充てる漢字に「卯建」とか「宇立」がある。

これらを紹介した写真を並べてみてもこれまたインパクトがない。

ないというより上手く表現ができないのが断念の理由だ。

住まいする建物の構造的なものを民俗的主観からどのような映像を描くか・・。

「火」で思い起こすのは火事そのもの。

起こしてもならないし、類焼被害もかなわん。

もしもの万が一に少しでもタシになるのが損害保険の火災保険。

おふくろは長年に亘って販売していた外務員だった。

我が家も借家の場合は家財保険に加入していた。

自宅を建てたときになって初めて掛けた保険金は火災保険。

保険なんて必要ないという声を聞くことはあるが・・・起こしてしまえばたいへんなことになると思った私は絶対に必要である決断して掛けていた。

保険を掛けることによって戒めていたのである。

火災保険で思いだした生まれ故郷の住まい。

市営住宅は戦後に建った戦時被災者用の住宅地。

一階建ての木造住宅で暮らしていた。

一段上がったコンクリートの土間。

右手に居間。

左手が炊事場だった。

そこに貼ってあった「火の用心」。

大阪市消防署が発行したと思っている火と避けのお札は自治会が各戸に配っていた。

開け閉めする玄関の真上には逆さまに書いた「十二月十二日」のお札があった。

おばあちゃんが書いて貼っていたお札は泥棒避け。

どちらも家を守ってくれる護符である。

そうだ、これがある。

県内の伝統行事の取材に家の在り方と云うか、風習といえようかの祈りのお札がある。

このような家を守るお札は建屋の内部。

たいがいのモノは玄関の真上。

尤も「十二月十二日」のお札は窓やドアのすべてに貼って泥棒が入ってこないようにおく。

そこには米寿祝いのテガタ(手形版)もある家がある。

そういう家は表玄関に飾っているのは同じく米寿祝いの飯杓子。

どちらも祝いの印の飾り物家を守るものでもない。

泥棒除けではないが、悪魔というか鬼が入ってこないように挿しておく鬼(災)避けヒイラギイワシも形態もある。

守り、祈るお札などは他にもありそうだが「火の用心」に着目した。

「水」の飾りや「うだつ」も火の用心。

「うだつ」から思いだした土蔵。

火事になっても土蔵に置いてあったものは焼けずに済んだという話は度々耳にする火防の土蔵である。

外から開けることしかできない厚み密閉性のある扉で入室するがこれもまた写真にし難い。

火災保険も写真で表現するには難しいから外す。

考えてみれば愛宕さんのお札があった。

愛宕さんは京都の愛宕神社。

愛宕さんに参って拝受してきた護符がある。

村の行事に愛宕さんなど神社や寺に代参をしてお札をもらって帰って村に配る地域は多い。

火伏の神さんのお札が家々どころか集落全体を守る祈りの札。

場合によっては村の辻に愛宕さんの石塔を立ててオヒカリを灯す廻り当番を設けている村もある。

愛宕さんの行事で名高い橿原市八木町の愛宕祭がある。

かつて町内で火事が発生した。

それからは愛宕さんを地区38カ所に亘って祭っている。

八木町では祠(神社)に提灯を掲げ、神饌などを供えて「阿太古祀符火迺要慎」と書かれたお札や愛宕大神の掛け軸を祀っている。

中世以来、戦火に巻き込まれてきた八木は、火事に見舞われないように火防(ひぶせ)の神さんとして崇められてきた京都の愛宕さんを信仰してきた。

近世江戸時代は火事が多くなり、町家・庶民に信仰が広まった。

奈良県下には愛宕さんを信仰する愛宕講がある。

それは数軒規模ではなく地域ぐるみとして行われている。

1軒の家から発生した火事は風に煽られて類焼、そして大火となれば町を焼き尽くす。

そんな被害を受けたくないから愛宕さんにすがった、ということである。

県内の行事に出かける町や村には消防団がある。

火消しの人たちが活躍することもない地域でありたいが・・・。

消防団の倉庫には必ずといっていいほど火の用心のお札に火消し道具がある。

ついつい拝見してしまう消防団の倉庫。

お札に示された文字は何であるか、である。

奈良市消防署もあれば愛宕さん発行の護符もある。

それらは村の代参がもらってきたものもあれば自治会経由で配られたものがある。

お札はいつまでも貼っておくことはない。

神社や寺で拝受したお札は年に一度のトンドで燃やして焼納める。

貼ったままにしておく家は圧倒的に多いが、祈祷札を含めて纏めて保管する箱がある。

玄関などに設置した災避け札もあれば、そういったお札を纏めて入れる箱がある。

事例的には極端に少ない。

トンドで焼くまでのお札の行方を紹介するのも面白いが事例が少なくて会話が発展しないと判断してお蔵入り。

お札は祈り。

次の行為は警告である。

つまりは火の用心カチカチで拍子木を打って地区を廻る自衛である。

暗くなってから拍子木をもった子供たちが地区を巡って火の用心をする。

「マッチ一本火事のもと」大声をかけてふれまわる。

大阪の市営住宅に住んでいた時も年末にみられた自治会の自衛的行為。

全国的な光景であるが、子供ではなく男性が古い太鼓を打ってふれ廻る地域があった。

橿原市の古川町で行われている夜警の様相はインパクトがあると思って決まりの一枚。

警告をしても火事は発生する可能性はゼロとはならない。

万が一、発生したときは何が有効的といえば初期消火である。

街道筋や旧家で見たことがある石造りかコンクリート製の防火用水。

村々では防火用水の池がある。

これらを挙げるのも良いが、ふと思いだしたのが斑鳩町の西里にあった民家一軒ごとに置かれていた火防の防火用水バケツ。

色はもちろん消防車と同じ赤色。

注意を引く色である。

2月4日に訪れたならまちの一角。

奈良市の高御門町にある家の門扉前に置いてあったバケツである。

色はくすんでいたが、元々は目立つ赤色の「消火用」バケツである。

バケツには満々と水を溜めている。

その情景に遭遇して斑鳩町の西里集落の映像が蘇った。

西里の各家では高御門町と同じように門屋前や門扉辺りに消火用バケツが置いてあった。

西里集落の中央には火伏せの神さんである愛宕さんの石塔がある。

同地区の総会に決まった人は正月明けに京都の愛宕神社に参ってお札をもらってくる代参の仕組みがある。

門屋に置いてあった消防バケツは火事を起こしてはならないという地域全体を守る防火活動の一貫である。

どの家も防火バケツを置くようにしたのは愛宕さんとは関係なく、集落の火の用心の決議事項。

バケツ一つで火事を消すのではなく、火事は起こさないという防火の心構えは高御門町にもあった。

住民の話しによればあるお家が起こしたボヤ騒ぎ。

自治会が決議した事項が消防用水バケツの各戸設置である。

ならまちの一角にある高御門町には町歩きをする観光客が多い。

消防バケツはまったく意識もせずに闊歩する。

足元にこういうモノがあると訴えたい写真を撮っていた。

上手くは撮れなかったが前回に数枚を提示したが、カメラマンの目をとらえることはなかった。

そこで思いだしたのが安政五年(1858)の龍吐水

160年前の消防道具はまさに時代を語る民俗でもある。

もう一つは城下町旧家に遺されていた火消しの道具だ。

旧家は甲府から殿さんともに郡山に越してきた武家。

紹介したい写真はどれにするか、である。

龍吐水をとらえた写真は大晦日に家の廻りにぐるりと架ける注連縄張りが主役。

うだつもある家だが脇役になった龍吐水は判り難いので却下。

旧家の火消しの道具がお気に入りだったが、博物館的写真だと指摘されてこれもまた却下。

そんなあれやこれやで撮りなおしに再訪した高御門町。

狙いは雨が止んだ街道をとらえてみたいと思っていたが、梅雨は明けた。

曇り空でもない日なら行くしかない。

とにかく時間がないから打合せの翌朝に走った。

行き交う人々の姿を入れて撮る場所はどこにするか。

初めて訪れたときの印象は強烈だった。

どちらかといえばバケツ中心。

でっかく取り上げて、町を闊歩する観光客狙い。

地元住民の生活感もだしたいと思うが、そんな計算通りに出没するどおりはない。

しかもこの日はごみ収集日。

景観的には悪条件。

そこは避けてバケツが三つも配置できる場所で人を待つ。



ご婦人が歩く。

坂道に自転車を押す男性も行く。

車や単車など荷物を運ぶ様相も撮る。

生活感があれば民俗になる。

消防用水バケツだけの斜視なら生活感は感じない写真になる。

ねばっていかねばと思っていたら日除けパラソルをさしていたご婦人二人が下ってきた。

何枚か、シャッターを切った。

撮った写真はシルエット風。

目の前に歩んできた婦人が着ていた服装は花柄。

さしていたパラソルも花柄。

おそろいですねと声をかけたら若い女性が応えてくれるが、もう一人の女性はわれ関せず。

若い女性曰く、母親なんですという。

お国は中国。

カメラを手にしていた父親とともに奈良の観光。

案内役になったのが娘さん。

なんでも神奈川県の大学で「民俗」を学んでいたそうだ。

消防バケツの話しが判る女性は日本語が堪能。

その都度に両親へ通訳をされる。

いい出会いは寺の前。

そこにあった瓦製のバラの花。

もしかとして牡丹かもと云ったのは日本暦が十数年の娘さん。

ここで別れて撮影位置を換える。

百メートルぐらいしか行き来しなかった街道の民俗を撮っていたが、これといった収穫はなかったがバラの花を象った門が目に入った。

(H28. 7.21 EOS40D撮影)

矢部のカンピョウ干し

2017年02月15日 08時59分24秒 | 民俗あれこれ(干す編)
6月26日に訪れたときはあんばい撮れなかったカンピョウ干し。

壊れた一眼レフカメラも中古品に品替え。

それから晴れ間になかなか遭遇しなかった。

晴れ間になったとしてもカンピョウ干しをするかどうかはわからない。

なぜか急に思い立って矢部に向かって走った。

着いた時間は朝の7時半。

丁度、揚げたばかりの時間だった。



こうして竿を持ち上げていたと見せてくれる当主。

気になっていたのは竿の藁束だ。

滑らないようにと云っていた藁束の効能はもう一つある。

聞いたにも関わらず失念していた。

それを確かめたくなって再訪した。

当主はもう一度話してくれた。



この藁束は干したカンピョウがくっつかないようにする。

竿が竿のままであればへばりついたカンピョウガ剥がれない。

ぺちゃっとくっついて切れてしまう。

乾くとそうなるのである。

藁束を巻いておけば取りやすくなるという優れもの。

巻き寿司を作って里帰りするお嫁さんのお土産にすると話す当主は他家も覗いたらどうだと教えてくださる。

もう一軒は飛鳥川の近く。

堤防の向こうの南側。

U家は今でも滑車でカンピョウを揚げていると話していた。

場所だけでも、と思って探してみる。

白い簾は見つからない。

それが目印。

あればすぐにわかるが・・。

見つかったのは木製の支柱である。



これまで拝見したカンピョウ干しの支柱は3本立て。

ここは珍しく2本立て。

風に煽られて回転はしないタイプである。

上の方には2本とも滑車があった。

そうであればと思って納屋を拝見したら藁束で包んだ竿があった。

崩れないように細い紐で縛っている。

間違いなくここであるが田主は不在。

家がどこにあるのか近隣の人に尋ねて集落に向かう。

表札をみて呼び鈴を押す。

マイク越しに事情を伝えて撮らせてもらったことを事後承諾。

今年は実成りが悪くて準備はしたものの干すに至らないと話す。

たぶんにいつかは干すであろうと思って時期を待つことにした。

その家からすぐ近く。

玄関に掲げてあったお守りは伊勢志摩地方で見られるお守り。



その証拠に「蘇民将来子孫家」の文字がある。

「門」の紋に右が七難即滅で左に七福即生がある「門符」は真新しい綺麗な太めの注連縄に飾っていた。

(H28. 7.20 EOS40D撮影)

土用入りの土用餅

2017年02月14日 09時14分00秒 | 民俗あれこれ(売る編)
四つ辻の処に昔ながらの風情をもつ店屋があることは知っていた。

十日ほど前に通りがかった桜井市箸中から芝へ抜ける旧街道に、である。

そのお店のガラス張り「七月19日 土用入 土用餅」の文字で書いてあった貼り紙があった。

「土用餅」についてはついこの前に聞いた「ハラワタモチ」の名もある。

地域によってはそう呼ぶようで、2カ所、2行事にその名のモチが登場する地域が判った。

ひとつは平成23年7月9日に取材した田原本町多の観音堂行事。

観音講の人たちが朝から作る御供にアンツケモチがあった。

このモチは別名にハラワタモチの名がある。

かつてはシオアンのモチだったというのが興味を惹く。

もう一つは未だ取材ができてない大和高田市の天道御供。

旧町名の元町二丁目・太神宮で行われる行事は土用入りの日。

そこで供えられるモチがハラワタモチとも呼んでいる土用餅であるが、どのようなモチなのか判らないが、やはりシオアンで包んだモチのようだ。

多の観音講が作って食べるハラワタモチは「ハラモチが良くて、腹痛を起こさない予防の意味がある」と話していた。

今年の土用の入りの日は7月19日。

例年であれば7月20日である。

ハゲッショの日もそうだったが、今年は暦の関係で一日早い。

特定の固定日ではなく暦の土用の入りの日に「土用餅」を食べる風習に和菓子屋さんがその餅を販売するのである。

前述したように多の観音講が作って食べるハラワタモチは自家製。

昔はどの地域でも家で作って食べるモチであったようやに、聞く。

ハラワタモチの名ではないが、どうしても食べたくなって街道沿いにあった和菓子屋さんの「北橋清月堂」のドアを開けた。

奥から店主が出てこられたので「どうしても食べたくなった」と告げた。



土用餅は1個が税込の130円。

かーさんと二人で食べる量は数個。

10個入りでは食べきれんと思って5個入りを買った。

店主が云うには、「昔から箸中の住民が買っていく」そうだ。

買っていくといっても毎年注文される予約販売。

予め注文があった個数の土用餅を作って販売している。

注文する家は和菓子屋さんがある下垣内の他、JR桜井線の線路を越えた東側の中垣内や車谷垣内の人たちになるそうだ。

作る餅はそれ以上に作って残りをお店で店頭販売。

売り切れはザラにあるようようやに話すから胸をなでおろす。

土用餅は仕入れたモチゴメで作る。

餡は小豆のこしあん。

しっとりした舌触りで、滑らかに喉を通る。

大きさは手ごろというか、やや小さ目。

波を打っているような感じの作りは味も同じようにと思ったお伊勢さんで有名な赤福餅。

そのような味とよく似ています、と店主は云った。

まさにその通りであった。



家に持ち帰ったらあっというまになくなった。

食べやすくて美味しいと云ったかーさん。

店主が作る土用餅は日持ちしない。

スーパーや最近はコンビニでも売っている土用餅はどちらかといえば数日間の日持ちがする。

後日の土用の丑の日にも通りがかったら「土用餅」の貼り紙がなかった。

まさにその日限りの販売の土用(入りの)餅である。

お盆の8月14日には「どさくさもち」を作って売っているという店主。

お盆に帰省する家族に墓参りをともにする親族らでごったがえす箸中のお盆。

家人はそれほどに忙しい。

忙しい合間をぬって食べることから「どさくさもち」の名がついたのか・・・。

お爺さんの代に和歌山から奈良に移った。

そのときからお店を構えている和菓子屋さんは親父さんの後を継いで云十年。

三代目になるという。

土用餅は食べる「民俗」。

かつて箸中で聞いていたダイジングサン行事を教えてもらう。

和菓子屋と行事の関係はお供えである。

もしかとすればダイジングサンに供える御供にモチがあるのでは、と思ったからだ。

箸中は大きく分けて下垣内、中垣内に車谷垣内の地区に別れている。

和菓子屋さんが建つ地区は下垣内。

その下垣内にダイジングさんがある。

光背に三輪山を配した処に建つ石塔の一つが大神宮。

そこでは7月16日にダイジングサンが行われている。

同月の24日は地蔵さんがある。

忌竹を二本立てて、そこに水平にした竹をもう一本。

時間ともなれば会所に保管していた提灯をぶら下げる。

北橋清月堂が作った餅などの御供を供えてお参りをする。

設営などは当番の班がこれらを担う。

下垣内の組は5班。

5年に一度の廻りになる。

そう話してくれた店主。

地蔵盆は下垣内よりも軒数が多い班、大字芝の方が賑やかになるらしい。

ちなみに箸中は和菓子屋さんがある通り付近、JR桜井線より西側が下垣内。

線路から東側が中垣内。

そこより山麓寄りが車谷垣内になるそうだ。

(H28. 7.19 EOS40D撮影)

南庄町・腰痛地蔵の奉納ツチノコ

2017年02月13日 08時38分14秒 | 奈良市(東部)へ
奈良市南庄町に地蔵尊がある。

そこにはたくさんの木製の槌がある。

形の大きさ、長さ、太さがさまざま。

材もカシやヒノキのようだ。

ざっと数えただけでも215本。

地蔵堂には棚もあるからそこにも多数の木槌がある。

所狭しに並べた木槌は願掛けのお礼に奉納されたもの。

腰痛が治れば奉納する。

そういう言い伝えがあるから腰痛地蔵の名がある。

そのことを知ったのはずいぶん前のことだ。

南庄町の行事を始めて取材した日は平成16年の12月31日

大晦日の日に村総出で結った勧請縄を神社下の鳥居付近にある大杉にかける。

取材した日は特になんでもなかった日だった。

午前中いっぱいかけて結った勧請縄は見事な形になった。

そうこうしているうちに雪が降りだした。

降り積もった雪はまたたく間に風景を真っ白にした。

道路はとてもじゃないが走れそうにない。

半端な量に積もった雪は道路を塞ぐ。

しばらく待ってもやみそうにもない。

仕方なく村に滞在した。

雪はやんだが解けることもない。

焦った。

車のタイヤはノーマルタイヤ。

とてもじゃないが走れない。

夕方になろうとする時間までには動きたい。

道路はなんとか走っていったタイヤの重みで轍が解けている。

なんとかなるだろうと車を走らせた。

実際は走るという感覚でなくトロトロ坂道の道路はカーブもある。

周りが樹木のところは解けが少ない。

何カ所かで見た放置の車。

一旦、止まれば再び動くことのない車は崖側に放置。

そんな様子を見ながらトロトロ。

川上町辺りに来たときはほっとしたもんだ。

その年以降はいつ降るやもしれない雪にスタッドレスタイヤを入れ替えることになった自然の恐怖日だった。

それはともかく久しぶりに目にする南庄町の腰痛地蔵。

もしや、この日であるかもと思ってやってきた。

村の人たちは清掃を終えて腰痛地蔵を祭っている地蔵堂の付属建物内で寛いでいた。

取材したい旨を伝えて撮らせてもらう。

本来は7月24日であった腰痛地蔵の地蔵祭り。

祭りと云っても行事にはそもそも名前がないから敢えてこう呼ばしてもらう。

南庄町は上、中、下の3垣内。

かつて24戸の村であったが、現在は22戸。

それぞれの垣内が毎年交替されて地蔵尊に奉納されている木槌は一本、一本取り出して清掃する。

午後のある時間にすべての木槌を取り出して埃を取り去る。

汚れは水道水にシャワー刷毛で洗う。

その場は膝裏に延久四年(1072)奉始造・佛師越前國僧定法などの墨書銘がある県指定有形文化財の木造阿弥陀如来坐像を安置する公民館。

かつてお寺があったというから調べてみればおそらく廃寺となった常福寺であるかも知れない。

回収した木槌はすべてを戻すのではなく、申しわけないが撤去するものもある。

と、いうのも奉納、奉納とくれば場をとることになる。

溢れてしまうことになる。

一年間も経てばそうなる。

とにかく増え続ける奉納の木槌は古いものは選別されて撤去しているという。

そういうわけがあって木槌は元の位置には戻らない。



実は木槌の形を形成していないものもある。

それは亜流の木槌になるそうだ。

本来の木槌はヨコツチ。

木槌はワラウチ(藁打ち)に使われるヨコツチの形である。

ちなみにお話を伺った南庄町の人たちは木槌と呼ばずにツチノコと称していた。

これらは南庄町の人たちが奉納されたものでなく、奈良市内、生駒市、大和高田市の人たちである。

7、8年前に寄進された紺地の幕を見ればわかるが、寄進者の名の他に「高田市」の糸文字があることや、奉納したツチノコにもどこそこの地名が書かれていた。

洗っていれば目につく在所の地名でわかったそうだ。

ローソクや線香に火を点けて参拝者を迎える。

私が訪問した時間帯は午後5時を過ぎていた。

それより1時間前ぐらいから参拝者を待っている。

もう1時間もすれば終えるという。



そのころにやってきた参拝者は村の女性。

時間の都合がとれなくて遅れたと云う。

お参りを済ませば当番垣内の人がお下がりのお菓子を手渡す。

丁重なお礼に頭を下げた婦人が走り去ったあともお参りがあった。

保育園に通っている我が子を迎えに出かけた母親が戻ってきた。



車から降りてすぐさま地蔵さんに駆け寄る二人の女児は手を合わせて拝む。

お菓子がもらえるから拝んでいるようには見えない女児の参拝。

たぶんにいつもそうしている自然体の参拝に感動する。

昔の昔は地蔵さんに呼び名はなかっただろう。

いつしか慣例が発生したことによって呼び名がついたと思われる腰痛地蔵。

腰痛になった人がいた。

この地蔵尊にあった1本のツチノコ(木槌)を家に持ち帰った。

持って帰った木槌を痛みがあった腰をトントンと打って叩いた。

すぐに効果がでるものではなかったが、何日も続けていた身内のおばあさんが治ったという。

こりゃご利益があったのだと新しいツチノコを作って地蔵さんに奉納した。

どれぐらいの間があるのかわからないが、何べんもそうしていると若い女性がお参りに来た。

そういう効果があると聞いて同じように持ち帰って腰をトントンと叩いていたら治った。

そういうことから始まった願満のお礼。

時代は不明であるが、願掛けで治ったというありがたい地蔵さん。

ご利益があったと伝わって広まったものと考えられる民間信仰。

洗うのも処分するのもたいへんであるが、信心する人たちのご利益に貢献できるのが嬉しいと当番垣内の人が話す。

この日の行事を終えた当番垣内の人は幕や地蔵さんに着せた涎掛けは次の垣内に廻すという。

なお、前述した勧請縄掛けの行事日は大晦日ではなくなったという。

4、5年前になにかと忙しい大晦日を外してその直前の日曜。

つまり12月の最終日曜日に移したという。

(H28. 7.18 EOS40D撮影)

佐保庄朝日観音堂の七月大祭観音講

2017年02月12日 07時46分43秒 | 天理市へ
2年ぶりに訪れた。

天理市佐保庄にある朝日観音堂では毎月の17日がお勤め。

7月は大祭で住職が法要された次に西国三十三番のご詠歌唱える。

この日であれば間違いなく講中が営みをされていると思って訪れた。

着いたときはご詠歌の真っ最中。

お声をかけずに本堂の前で佇んでいた。

すべての楽曲を終えるまで待っていた。

本尊の木造の聖観世音立像を安置しているお厨子の扉に貼り紙があった。

それに書いてある文字は「大和西国三十三ヶ所 観世音 第七番 朝日寺 聖観世音菩薩立像 ひさかたの 空に照りそふ 朝日寺 くもらぬ法の 光なるらむ 平成十三年十一月十七日 落慶法要」とあった。

番外に朝日寺のご詠歌も唱えていたに違いない。

ほっとされた講中にお声をかけたら、私のことを覚えていると云う。

2年前の講中は8人だった。

その後にお一人が亡くなられて、二人は施設で療養しているという。

若干の欠席があるものの、今でもこうしてお勤めをしていると話してくれたのは隣家のKさん。

顔を覚えておられた婦人だ。

北垣内に住むTさんが云う。

8月24日は在所にある地蔵さんの祭りがあるという。

もしかとしたら7月かもしれないという地蔵さんは後日に訪ねても祭りは巡りあわせなかった。

どうやら在所の地蔵講によるお祭りのようである。

ちなみに前回に訪れた七月大祭観音講大祭のときに導師を務められたSさんは欠席。

2年前に務められた写真をさしあげた息子さんが喜んでくれた。

見舞いのときにこの写真を見たら感動するだろうなと云っていた。

(H28. 7.17 EOS40D撮影)

春日のゴウシンサン

2017年02月11日 07時06分52秒 | 天理市へ
法貴寺のゴウシンさんを見届けて再び訪れた天理市の庵治町。

昼頃は木之本や出垣内のゴウシンサンを拝見していた。

日暮れの頃に家から持ってきた提灯を吊ってローソクを灯すと聞いていた春日のゴウシンサン。

ここもまた平成26年の7月16日に訪れていたが、行事の在り方は拝見できずじまいだった。

今年こそをと思って再訪した春日は庵治町七垣内のうちの一つ。

この地に氏神さんを祭っている春日大明神がある。

そういう意味もあってか知らないが在所の名が春日なのだ。

「春日安全」の刻印があった大神宮の石塔。

建之したと思われる年代記銘があるものの、刻印が弱く読み取れなかった。

在所の春日は13戸。

それぞれのお家ごとに提灯がある。

それには家紋がある。



一軒、一軒ごとに異なる家紋をずらりと吊られたら壮観に見える。

丸に木の字の紋がある提灯を持つ婦人は大和郡山市の池之内町に嫁入りしたという。

池之内町の行事の幾つかは取材させてもらったことがあるから話は弾む。

その紋様の持ち主は生駒出身のMさん。

この日の「オヤ」を務めるMさんとともに行事のあれこれを話してくださる。

かつては男性もきていたとされる春日のゴウシンサン。

今は婦人たちでいっぱいになる。

老人乳母車でやってくる老婦人は80歳から半ばまで。

元気な声で話される。

提灯に火を灯してお供えを並べた大神宮の石塔にもローソクを灯して導師は前に立つ。

導師は「オヤ」の務め。



雨天の場合は吊るすことなく「オヤ」家で心経をあげる。

この日は雨も降らずに般若心経を一巻唱えた。



「せーら せーら」を三回唱和して終えた春日のゴウシンサンを充てる漢字は郷神さん。

昨年に聞いていた漢字は御申さんだったと思うが・・・。

ちなみに春日に鎮座する春日大明神に毎月の1日は境内を清掃している。

9月に行事があるという。

何年か前までは夕刻のその時間に参っていた。

真夏は終わったが、9月の半ばはやぶ蚊が多い。

境内に蚊が多くお参りどころか、境内でごっつぉを食べるのも難しくなったといって参らんようになった。

お参りはしなくなったが、村の人が集まる場は「オヤ」の家になった。

一同が揃えば「オヤ」の家から春日大明神の方角に向かって拝むという。

それを済ませば「オヤ」家で会食の団欒の場になるという。

そのときにも使っているという祭壇組みは春日大明神の什物だった。

(H28. 7.16 EOS40D撮影)

15回目のテーマは-ハダがある景観に-

2017年02月10日 19時11分44秒 | しゃしん(カメラのキタムラ展示編)
平成14年から始まったカメラのキタムラ奈良南店(奈良県奈良市杏町153)の写真展は今回で15回目になる。

昨年のテーマは「食を干す」だった。

今年も同じく、“食を干す”であるが、“干す”作業に重きを置いた。

奈良県に多段型のハダ架けがあることを知って訪れた十津川村の滝川、内原、谷瀬と旧西吉野村の永谷。

作業をされている方々のお話を伺って、これは是非とも大勢の方々に知ってもらいたく、また、残さねばならないと思った。

風景的景観に見惚れつつ、「暮らしの民俗」を伝えたい。

そう、思って8枚の組み写真で展示することにした。

前半は風景写真的な4枚。後半の4枚は作業をされている人たちの姿を・・。

天候具合を気にかけながらもハダ架けをする苦労話しなどを綴った。

今回もエクセルで作った解説シートを展示場に置いている。



シートは両面印刷。

裏面にプロフィールも載せた。



展示期間は来月の2月10日ころまで。

今回も店長にしてもらった裏張り加工。

感謝の気持ちでいっぱいです。

(H29. 1. 6 SB932SH撮影)

法貴寺のゴウシンさんの御湯

2017年02月09日 08時51分43秒 | 田原本町へ
7月16日は県内各地でゴウシンサン行事がある。

天理市庵治町の在り方を拝見して急いだ田原本町。

これまでにも取材した処に大字の法貴寺がある。

田原本町の大字法貴寺のゴウシンさんは2カ所で行われている。

前回の取材は3年前の平成25年7月16日。

同然ながらの同一日である。

法貴寺の「ゴウシンさん」行事は神事。

斎主される宮司は法貴寺の池坐朝霧黄幡比賣神社の藤本宮司。

幾度となく行事などの取材にいつもお世話になっている。

ゴウシンさんの行事に湯祓いがある。

御湯の作法をするのは法貴寺在住の小学生の巫女さんである。

宮司さん、巫女さんは一度に揃って2カ所の行事をすることはできない。

若干の時間を遅らせることによって成り立っている。

始めに行われる場は川西講中のゴウシンさんであるが、先に着いた場は川東惣講大神宮のゴウシンさんだった。

宮司さんと巫女さんが来られる前にしておく祭りの設営。

四方に忌竹を立てて細い竹を架ける。

そこに「宮ノ前 寺内 南垣内 市場講中」の文字がある提灯を掲げる。

垣内は四つ。

提灯も四つあるのは垣内の数である。

古くもなく、新しくもない湯釜も設えて湯を沸かしておく。

ここでは雑木ではなく不要になった構造物の木片をばらして燃やしていた。

川東惣講大神宮は現在の大和川西岸に建つ。

寄進年代は不明であるが、「川東惣講中」の刻印が見られる。

西岸に建っている大神宮を「川東惣講中」と呼ぶのは不思議な感じがするが、かつての大和川は法貴寺集落の中央を南北に流れていた。

そこを境に川西、川東に分かれていたのである。

昭和57年8月に発生した台風10号によって激しい豪雨によって、流れていた大和川(初瀬川)左岸にあった堤防が決壊した。

田原本町北部の大部分は甚大な浸水被害が発生したのである。

その後、5年間にかけておこなわれた大和川改修工事によって川筋を大きく変えた。

その工事によって川東垣内は東西に分断されたのである。

かつての大和川(初瀬川)は細い水路を中心に公園化されて、当時の面影を僅かに残している。

そのような作業を見届けて始めに行われる川西講中のゴウシンさんに向かう。

歩いた距離は遠くでもなく近くでもない200mの距離にある寛政八年(1796)六月に川西講中が寄進された大神宮の石塔がある。

宮司さんが来られる前に設える。

湯釜も火を焚いて湯を沸かしていた人たちは5人の婦人。

以前に取材したときも婦人だった。

いつもそうなのか判らないが、毎年交替する前田、西南、西口、北、観音寺の五垣内の人たちが川西講中のゴウシンさんを世話している。

準備が調ったころに出仕された宮司を迎えて神事が行われる。

祓え、祝詞奏上など神事を斎主する宮司。

法貴寺集落を東西に通り抜ける街道は車の往来が激しい。



身を寄せながら神事に臨まれる。

数年前に行われた川西のゴウシンさんには御簾や提灯もあったが、平成25年と同様にこの年も見られない。

10年前の行事のときは忌竹を設えたそうだ。

どうやら当番をする組によってあり方が違うのかも知れない。

今年は西から東へと繋げるゴウシンさんであるが、いつか思い出せないが、東から西へと移動する場合もあったという。

宮司さんが神事を終えるころにやってくる里の女児巫女。

民家前に設えた湯釜に向かって御湯の作法をする。

始めに幣を振る。

その次に幣を湯に浸けてかき混ぜるような感じで湯釜の縁回りを回す。

笹束を受け取った巫女は鈴を持ってシャンシャンと鳴らしながら左に一周、次に右へ、そして左に一周するように回る。

次に洗い米を湯釜に投入して、湯釜に塩、酒を注いで清める。

御湯の禊祓いである。



大神宮に向かって正面、左方、後方、右方への左回りに三度の一礼をする四方の神寄せのあとに笹を釜湯に浸けて前方に五回、側方に五回、後方に五回の湯飛ばしをする。

鈴・笹を持って左、右、左に舞って神楽舞をする。

参拝者に向かって鈴を大きく左右に振って祓いを終える。

巫女さんが湯祓いをしている最中に宮司さんは川東へ移動する。

追っかけるにはまだ早い。

神事や湯祓いを済ませて後片付け。

釜の湯を捨てて通路を清掃する。

湯釜は蔵に収納する。

それから始まった湯祓いの笹付け。



御幣も笹も束にして大神宮の石塔に括り付ける。

この作業を経て一連のゴウシンさん行事を終えるのである。

川西講中のゴウシンさんを見届けて大急ぎで向かった東の大神宮は、宮司さんによる神事は終わっていた。

今まさに始まろうとしていた御湯作法には間にあったが、里の女児巫女が作法する御湯は川西講中の場合と同じである。



こうして神事を終えたら巫女さんも戻っていった。

ここ川東も後片付けをするが川西がしていたような御湯の御幣と笹はそのままだ。

川東惣講大神宮の石塔に括ることなく解散された。

(H28. 7.16 EOS40D撮影)