マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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下山田のうる十九夜講

2012年07月30日 02時18分13秒 | 天理市へ
天理市の下山田には広出、清水、東村のそれぞれの垣内ごとに十九夜講がある。

如意輪菩薩を祀って和讃を唱える婦人の集まりの講中だ。

正月、5月、9月の三回に営んでいる清水、東村垣内。

十五夜の満月の四日後が十九夜だったというから、旧暦の九月にしていたのだろうか。

それはともかく、十九夜講を営む日は新暦の19日であったが、平日はなにかと忙しい主婦だけに夜に集まることが難しくなり、現在は19日に近い日曜日としている。

この日は旧暦の閏年。

三つの講中が揃って広出の地蔵寺に集まってくる。

清水、東村垣内は寄りあう前の昼食にイロゴハン(若しくはアジゴハン)をよばれてやってきた。

東村でもかつてはアブラゲゴハンをよばれていたが、現在はお茶菓子で済ませている。

ちなみに広出は正月の十九夜にイロゴハンを作って食べたと話す。

東村の人たちは会食をすることなく集会所に集まった。

会所の前には既に作った葉付き杉の木の塔婆と竹の花立てが準備されている。

先週に行われたうる庚申講のときに作られたという。

上がらせてもらった会所には上棟祭で授かった槌が置かれていた。

それには左右にごーさん(牛玉宝印)の文様があった。

こういう形態はあちこちで見られる代物だ。

今年は東村に鎮座する春日神社の造宮。

同じように祭典されるのであろう。

そろそろ参りましょうと云って当番の人が塔婆と花立てを持つ。

一行はお渡りのように広出の地蔵寺に向けて歩いていく。

およそ10分で到着する高台にある地蔵寺。

そこには既に広出の婦人たちがお堂に上がっていた。

待ちうける二人の婦人は広出講中のドウゲ。

年番にあたる当番の二人をそう呼ぶが、充てる漢字は「當家」だという。

そのころには清水垣内の講中もやってきた。

ドウゲは塔婆と花立てを受け取る。

花立ては如意輪菩薩の石仏の祠に立て掛ける。

塔婆と云えばトーバツキ。

うる庚申講と同じように中山田の蔵輪寺の住職に願文を書いていただく。

梵字は五文字。「地、水、火、風、空」であるが判読できない梵字。

「キャ、カ、ラ、バ、ア」と詠んでいる文字は「すべて万物から成り立っている」と住職が話す。

願文は「奉高顕供養者為 如意輪観音十九夜講中 家内安全五穀成就祈攸」である。

三つの講中とも同じ願文である。

ちなみに塔婆の裏側に書かれた矢印のような文字。

文字といえないような記号に見える。

それは「バン」というもので、大日如来の種字。

すべては根本の大日如来であるという。

すべてが揃って塔婆も如意輪観音に立て掛ける。



ローソクに火を灯して始まった住職の法要。

およそ40人の婦人たちが並んで手を合わせる10分間であった。

法要を終えれば一同は地蔵寺に座る。

これから始まるのが三講揃っての十九夜和讃だ。

この日唱えるのは広出の和讃本だと話す講中。

本堂の座敷いっぱいに広がって席に着く。



手元にはそれぞれの垣内の和讃本や先代から継承してきた本などを席前に広げる。

本尊の地蔵仏に向かって和讃を唱和する。

一曲は短くて数分で終えた。

下山田のうる十九夜講はこうして終えて、再び集まるのは数年後になる旧暦閏年である。

一行はそれぞれの垣内に戻っていくが、広出垣内はその場で解散となった。

<平成10年の清水の十九夜和讃本>
「きみよう ちょうらい 十九夜の
ゆらいを くわしく たずぬれば
にょいりん ぼさつの ごせいがん
あめのふる夜も ふらぬよも
いかなるしんの くらき夜も
いとはづ たがはず けだいなし
十九夜おどうへ まいるべし
なむあみだぶつ なむあみだ
とらの 二月十九日
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九夜ねんぶつ もうすなら
ずいぶん あらため しょうじんせ
おうじょう しゅうしの ふだをうけ
なむあみだぶつ なむあみだ
死して じょうどへ ゆく人は
みょうほうれんげの 花さげて
ふきくるかぜも おだやかに
しょうほうはるかに しづまりて
天より にょいりん かんぜおん
たまのてんがい さしあげて
八まんよじょうの ちのいけも
かるさのいけと 見てとおる
六がんおんの そのうちに
にょいりんぼさつの おしびしん
あまねく しゅじょうをすくわんと
六どうのしじょうに おたちあり
かなしき 女人の あわれさは
けさまですみしも はやにごる
ばんしの したの いけのみず
すすいでこぼす たつときは
てんもじしんも すいじんも
ゆるさせたまえや かんぜおん
十九夜おどうへ まいるなら
ながくさんずの くをのがれ
ごくらくじょうどへ いちらいす
まんだがいけの ななしゅうご
いつかは こころ うつりけり
きょう十九夜も しきとくに
にわのめいども ありがたや
じしんの親たち ありありと
すくわせたまえや かんぜおん
そくしんじょうぶつ なむあみだ
なむあみだぶつ なむあみだ」

<昭和54年の広出の十九夜和讃本>
「きみよう ちよらい 十九夜の
ゆらいを くわしく たづぬれバ
によいりんぼさつの ごせいがん
あめのふる夜も ふらぬよも
いかなるしんの くらき夜も
いとはづ たがはず けだいなし
十九夜おとうへ まへるべし
なむあみだぶつ なむあみだ
寅の 二月十九日
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九夜ねんぶつ もうすなら
ずいぶん あらため しょうじん也
おうじやう 志ゆふしの ふだをうけ
なむあみだぶつ なむあみだ
死して 志ようどへ ゆく人は
みやうほうれんげの 花さげて
ふきくるかぜも おだやかに
志ゆほうはるかに しずまりて
てんより によいりん くわんぜおん
たまのてんがい さしあげて
八まんよじうの ちのいけも
かるきのいけと 見てとうる
六ぐわんおんの そのうちに
によいりんぼさつの おしびしん
あまねく しゆじゆうをすくわんと
六とうの志じゆうに おたちあり
かなしき 女人の あはれさを
けさまですみしも はやにごる
ばんしのしたの いけのみず
すすいでこぼす たつときは
天もぢしんも すいじんも
ゆるさせたまへや くわんぜおん
十九夜おどうへ まいるなら
ながくさんずの くをのがれ
ごくらくじようどへ いちらいす
まんだかいけの ななしゆご
いつかは こころ うつりけり
きようこの十九夜も 志きとくに
にはのめいども ありがたや
志しんの親たち ありありと
すくはせたまへや くわんぜおん
そくしん志ようぶつ なむあみだ
なむあみだぶつ なむあみだ」

戻ってきた東村の講中が話すには、どうやら和讃の文言が異なるそうだ。

唱えていたときに、おやっと思ったという。

和讃本は先代から継承したものであるとか、書き写された本である。

三つの垣内の講中の和讃本を見る限り大きな違いはみられない。

ただ、一部においては言い回しが少しずつ異なっている部分がある。

おそらく書き写された際に言い回しが替ったように思えるのであった。

<昭和33年の東村の十九夜和讃本>
「きみょう ちょうらい 十九夜乃
由来を くわしく たづぬれば
如意輪 ぼさつの ごせいがん
雨め乃降る夜も ふらぬよも
如何なる 真の くらき夜も
いとわぞ たがはず けだいなし
十九夜 おどうへ まいるべし
なむあみだぶつ なむあみだ
寅の 二月十九日
十九夜念佛 はじまりて
十九やねんぶつ 申すなら
ずいぶんあらため しょうじんせ
往生 しゅじょうの 札を受け
なむあみだぶつ なむあみだ
死して浄土へ 行く人も
妙法蓮げの 花さげて
吹きくる かぜも おだやかに
十方 はるかに しづまりて
天より 如意りん くわんぜおん
玉乃てんがい さしあげて
八まんよじようの ちのいけも
かるさの池と 見て通る
六ぐわん音の そのうちに
如意輪ぼさつの おしびしん
あまねく衆生を すくわんと
六ど乃しゅじょうに おたちあり
かなしき 女人の あはれさを
けさまですみしも はやにごる
ばんし乃下の 池のみづ
すすいでこぼす たつときは
天も地神も 水神も
ゆるさせたまへや くわんぜおん
十九夜 お堂へ まいるなら
長くさんずの くをのがれ
ごくらくじょうどへ いちらいす
まんだがいけの ななしゅうご
何時かが心 うつりけり
きゅう十九夜も しきとくに
にわか めいども ありがたや
自身乃親たち ありありと
すくわせ給へや くわんぜおん
即身成佛 なむあみだ
なむあみだぶつ なむあみだ」

東村垣内で継承されてきた和讃本を格納する「十九夜」箱がある。

箱の蓋裏には「命日 正月十九日、五月十九日、九月十九日」が記されていた。

(H24. 5.20 EOS40D撮影)