吉田一氣の熊本霊ライン 神霊界の世界とその源流

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酒列磯前神社の調査 No277

2011-06-29 23:45:55 | 神霊界考察
前回より酒列磯前神社について何回か記載している。
2011/03/28『茨城県ひたちなか沖の藻塩 No244』
2011/01/21『酒列磯前神社で戴いた藻塩 No206』
2010/10/22『弓梓弓と水の女神 断片集④ No175』
ところで熊本霊ラインは道君首名公が少彦名神と大國主命を祭祀しているが
この当時は夏至のラインと中央構造線を意識して道君首名公はこの地に勧請したものと思われる。
道君首名公の時代の8世紀初頭には中央構造線の東の端の酒列磯前神社の場所には
まだ酒列磯前神社は存在していない。
では何があったかというと白亜紀の地層が露頭しているこの地には豪族の古墳が立ち並んでいた。
それは磯崎東古墳群といわれている。
江戸になって水戸黄門で知られる徳川光圀がこの古墳群を調査している。
そして西暦1702年元禄15年に隣接する西方の台地の椿山から酒列磯前神社を移動させている。
どうでもいいことだが元禄十五年十二月十四日といえば赤穂浪士の討ち入りがあった年である。
光圀は元禄13年に亡くなっているが、遷宮の経緯は元禄3年に本社を参拝した水戸光圀が遷宮を命じたらしいが
なぜか遅れてしまい実際に完了したのが亡くなって2年後の水戸城主源綱條の時ということになる。
ではなぜこの古墳群のある地に遷宮させたかというと何らかの祟りの封印ではないかと考えている。
この光圀が遷宮を命じた元禄三年は光圀が隠居した年に当たる。
光圀の隠居はいろいろな噂があるが隠居後の元禄7年には重臣の藤井紋太夫を光圀は自からの手で刺殺している。
また隠居の前年の元禄二年に光國から光圀に名前を変えている。
この改名も奇妙である。
この圀という字は則天武后という女皇帝が創った新しい漢字であるが
光圀以外に使用例が無い漢字である。
問題は則天武后が造ったとうことにある。
これは則天武后を光圀がどう評価していたかということに繋がるが
則天武后は皇帝である睿宗を皇太子に格下して690年に自ら帝位に就いている。
国号を「周」とし、自らを聖神皇帝と称し年号は天授と改元した。
簒奪を計画し失敗した韋后と並べ武韋の禍と呼ばれているが
このいわくある圀という字を用いる改名は
光圀には将軍の地位を狙う野心があったと考える根拠となるし
時の将軍にとっては面白いものではなかろう。


さて遷宮した酒列磯前神社の祭神の少彦名神には祟り封じの神力が備わっている。
特に疫病除けの神力は絶大で三輪山はじめ各地に祀られた経緯がある。
光圀は古墳の調査として岡岩屋古墳や前方後円墳の上侍塚古墳と下侍塚古墳なども調査しているが
この磯崎東古墳群36基はすべて円墳である。
『1663年の磯崎古墳発掘の発端と堀出神社の由来』
『堀出神社の由来』
『磯崎東古墳群分布図と酒列磯前神社の位置』
上記配置図を見ると酒列磯前神社の本殿背後が古墳の中にあることがわかる。
堀出神社の由来をみれば分かるように古墳の出土品を
わざわざ神社を造って祭祀しているくらいだから
偶然に酒列磯前神社を遷宮した場所が古墳の中という訳ではないことは明らかだ。
堀出神社では話にならない呪詛の問題が発生したと思われ
それを鎮める為に少彦名神を祭祀している。
酒列磯前神社に参拝された方は分かると思うが参道は常緑広葉樹林で覆われている。
本殿背後の古墳部分の樹叢は江戸時代から禁足地とされていたようで
自然林となっているが水戸家が恐れてかなり手厚く保護してきたものと思われる。
ヤブツバキの古木は樹齢300年となっているがこれは光圀時代のものである。
これらは酒列磯前神社の樹叢として県の天然記念物に指定されている。
この問題というのが中央構造線東端の白亜エネルギーに絡む祟りであると感じている。

さて長々と酒列磯前神社の来歴等を説明したが
これからが本題である。
熊本霊ラインである西の端の万日山の環状列石が荒らされたり
あるいは天社宮の御神木が切られた昨年末から今年春までの間に
酒列磯前神社で何があったのか気になり友人に調査してもらった。
地震の影響では灯篭が倒れたりしたらしいが拝殿や本殿は無事だったそうだ。
ところが気になる写真を送ってきた。



酒列磯前神社の裏の古墳群から南方向に続く古墳集合地帯の一部を整備して公園にしているのだ。
これがいつの工事かはすぐには分からなかったが
ある方のブログで(http://www.zen-sonobe.com/blog/index.php?c=6-)
今年の3月1日までの工事であることが分かった。
 

中央構造線の西の端と東の端の両方で聖なる場所が荒らされていたという訳である。


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2 コメント

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青嵐 (はいせ)
2021-05-28 00:59:18
5月に入ってこちらの記事と『石川県「かほく」の浜の海難事故の霊的背景 No293』も気になってぞわぞわしていました。

酒列磯前神社は以前参拝していますが、ご本殿の後ろが妙に怖い感じがして良く覚えています。

身狭と武蔵大臣を調べたりしてましたが、さっぱりよくわからず。武蔵大臣って蘇我蝦夷(毛人)なんですね。蝦夷は蘇我の父と物部の母で和合が図れていますね。
身狭は身狭村主青が生雷神を祀っていたそうですが、青は少子部蜾蠃と同じく雄略天皇の時代の人で雷繋がりとなりますね。雄略天皇は葛城の一言主神(迦毛大御神?)との説話もありますし、このとき歴史は動いたのでしょうか?
やっぱり三輪が出てきますねぇ。
雄略天皇の宮は泊瀬朝倉宮で斯鬼宮(磯城宮)。麻氐良布神社の朝倉宮とも関係するのでしょうか??

そんなこんなでご参拝に行って来ました。
白亜海岸で道路拡張工事がおこなわれていました。3月からはじまって8/18までのようです。遺跡も台風の影響で露出が激しいとの情報がありましたが、結構崩されていました。
まぁ、嘆いてばかりいても仕方がないので、「1500年くらい前にもここに古墳を作って祈った人たちがいたんだなぁ」と思いを馳せて慰霊してきました。
最後は蝶が舞い、いろんな鳥がさえずり、薄雲から光もさして、なぜか下半身が虹と同化した金髪ねーさんが海から来るイメージがきたのでよしとしましょう。
古墳脇の覆屋に刀に波切不動とかかれた石碑を見つけて終了です。どうも波切不動にご縁があります。
8月までにもう一回、今度は装飾古墳をセットで行こうと思っています。

そういえば、太平洋側だと太陽って海から昇って山に沈むイメージですが、日本海側だと山から昇って海に沈むイメージですね。
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黒潮の神様 (はいせ)
2021-08-30 17:17:57
約束したので、酒列磯前神社に行ってきました。
8/18を予定していましたが、朝まで嵐だったので、予定変更して8/22の満月の日に御参拝です。前回は月蝕の日だったので月繋がりで。
ひたちなか市埋蔵文化財調査センターは資料がスゴくよく纏められており感心しました。装飾古墳のレプリカも実物を見たい力作です。熊本の装飾古墳との類似性が挙げられていましたが、彩色古墳は福岡の方が多いみたいですが…謎…。旧石器時代は瑪瑙と黒曜石が目を引きますね。翡翠はひたちなか市では弥生時代から出てきます。ひたちなか市は住み分けがきちんとできていたそうで、遺跡は時代で被らないそうです。後からきた人は灌漑技術で沼地などの水捌けの悪い土地を改良して暮らしており、穏やかな融合だったようです。
その日は地震があり、白亜海岸は歩かず戻ってきたのですが、なんかゾワゾワするので、8/29に再訪です。白亜海岸を歩いて慰霊です。ここの海は北には天津甕星の海に飛んだ欠片があり、南には大洗、鹿島があり、黒潮を中心に海流が入り乱れ、白亜紀の地層露出してと地球の歴史が凝縮しているようです。
しかし、地元の焼津の海によく似ています。水は綺麗ですり鉢状に急に深くなるようです。富士山と伊豆半島は見えないのですが、なんだか、縄文の竜宮の乙姫=ハミト大神は黒潮海神族でもあるんじゃないかと思ってしまいました。
因みに工事は今年いっぱいになるようで、まだ何回か行くのかな?う~ん、微妙な距離なので、ご縁結ばせていただいて大丈夫かしら?まぁ、黒潮なら太平洋側で海行けばお会いできるからいいのかな~。

中大兄皇子ってなか国の皇太子って意味で、ひたちなかと関係があったのでは?と勘ぐっています。製鉄遺跡があり東大寺の釘を作ったりしていたようですが…、重要拠点ですよね。
中大兄皇子が天智天皇にそのまま即位したかはわかりませんが…。同じ名前の国が九州や関東や北陸にあってそこで成り変わりが起こったのかと感じています。

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