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聖徳太子と小野妹子と蘇我氏 No016

2009-08-08 08:28:18 | 日記
聖徳太子と蘇我氏について記載したついでに考えを述べると
聖徳太子と同時代で太子の側近の小野妹子についても
蘇我氏と繋がる可能性がある。
小野妹子は聖徳太子作成の「日出処天子」の
文言で知られる国書を携えて
隋に渡るが、隋で小野妹子は蘇因高と呼ばれたということだ。
蘇因高の蘇は蘇我で因高は妹子のことと思われる。
ところで蘇我馬子の子供は毛人である。
ところが小野妹子の子も毛人という。
また蘇我毛人はなぜか日本書紀では「蝦夷」となっているが
蝦夷も毛人も同義語である。
小野妹子についての年表は607年に隋に行き
裴世清をつれて608年には帰国し、
さらに裴世清の隋への帰国にも同行している。

蘇我馬子については596年飛鳥寺を建立記載の後の記録は
612年の堅塩媛を欽明天皇陵に合葬する儀式の記載となる。
もしかすると蘇我馬子が小野妹子として隋行したのかもしれない。

さて名前に子がつく男性名について馬子 妹子以外に知らない。
蘇我馬子=小野妹子かどうかはなんとも言えないが
小野妹子が蘇我氏系であることは十分考えられる
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1 コメント

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蘇我家と小野家 (禮月)
2016-06-19 00:23:02
とても古いスレッドに書き込む事をお許し頂きたく思います。

蘇我馬子にとって、小野妹子は腹心の部下だったのではないか?と伯母は語っていました。単なる主君と家臣というだけではなく、「同じ一族」というか、「身内」というか、もっと近しい存在だっただろうとの事です。例えば「乳兄弟」とか。古代において乳兄弟とは、主君の子供の忠臣(時には辣言さえも言える様な)となる様育てられます。また、乳母の実子が女の子だった場合は、主君の嫡男の后妃になる事さえあった位あった程です。故にそれなりの家柄の女性が選らばれましたし、時には閔閥政治まがいの事すらありました。(そうした例は古代エジプトにありました)

伯母によれば、小野妹子は秦氏の出身で父方は秦河勝・広国父子と同じという血統だったそうです。(広国という和号が気になりますが)因みに秦河勝は安閑天皇の忘れ形見という説が播磨に残っています。

蘇我氏と秦氏も古くから婚姻関係を結んでいた事は想像に難くないと思います。
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