コンピューターの世界ではハードディスクをコピーすれば
全く同じ機能が実現できる。
同様にして仮にクローン人間を作り上げて
記憶をコピー出来るような科学が発達したら
同じ記憶と個性を持つ人間を作り上げることが出来るかもしれない。
しかしそれで出来るのは過去の共通化だけであって
未来は別々の物になる。
またその二つが共通の意識を持つわけでもなく
自分のコピーが出来たからといって
じゃあ本来の自分は消去されてもいいという気分にはなれないだろう。
そこに自分のコピーが居てもそれはやはり自分では無い(同じ自我では無い)と
感じるのが普通の反応だろう。
個を認識しているのが自我である。
仮に生まれ変わりがあるとしても、この自我は死ねば消滅するのか?
継続させる手段は無いのか?
古来からこのことについては、
瑜伽行唯識学派や龍樹が唱えた中論=中観派など、
色と無我についていろんな考えが展開されている。
釈迦の理論は阿頼耶識界に形成されようとしている蔵識に対する絶望に
端を発していると考察しているが、
近代では西洋神智学において人は死後アストラル界に
自我を持ち込んでいることが看破されている。
しかしその自我もメンタル界以降の次元においては共有化された意識となる。
つまりこの世で作り上げた自我は死後は共有化するシステムがある。
しかしながら今生きている自分が持っている自我は
共有化されていないと断言出来るのかという疑問を呈したい。
行動を起こしたいという思いも自我より発するとした場合に
守護霊などの別の存在では無く直接自らを操り行動を起こさせようとする
特殊なシステムがあることに気づいている。
大本教の出口なお 天理教の中山みきなどは、
龍神界から別のパーソナリティが降りてその神命に従ったことが分かるが
現在の教祖と呼ばれる存在の幾人かは、
自我を共有化してそこに神霊がアクセスしている。
本人にとっての苦悩は少ないが、
いずれの場合も結界を強固にしないと別の存在に乗っ取られやすいという
問題をはらんでいる。
神人合一を肉体上で果たすことはかなりの困難があるといえよう。
現実界の我々の意識は潜在意識を通して集合的無意識に繋がるが
この共通意識界に自我をもたらすことが、我々人類の存亡に掛かっている。
全く同じ機能が実現できる。
同様にして仮にクローン人間を作り上げて
記憶をコピー出来るような科学が発達したら
同じ記憶と個性を持つ人間を作り上げることが出来るかもしれない。
しかしそれで出来るのは過去の共通化だけであって
未来は別々の物になる。
またその二つが共通の意識を持つわけでもなく
自分のコピーが出来たからといって
じゃあ本来の自分は消去されてもいいという気分にはなれないだろう。
そこに自分のコピーが居てもそれはやはり自分では無い(同じ自我では無い)と
感じるのが普通の反応だろう。
個を認識しているのが自我である。
仮に生まれ変わりがあるとしても、この自我は死ねば消滅するのか?
継続させる手段は無いのか?
古来からこのことについては、
瑜伽行唯識学派や龍樹が唱えた中論=中観派など、
色と無我についていろんな考えが展開されている。
釈迦の理論は阿頼耶識界に形成されようとしている蔵識に対する絶望に
端を発していると考察しているが、
近代では西洋神智学において人は死後アストラル界に
自我を持ち込んでいることが看破されている。
しかしその自我もメンタル界以降の次元においては共有化された意識となる。
つまりこの世で作り上げた自我は死後は共有化するシステムがある。
しかしながら今生きている自分が持っている自我は
共有化されていないと断言出来るのかという疑問を呈したい。
行動を起こしたいという思いも自我より発するとした場合に
守護霊などの別の存在では無く直接自らを操り行動を起こさせようとする
特殊なシステムがあることに気づいている。
大本教の出口なお 天理教の中山みきなどは、
龍神界から別のパーソナリティが降りてその神命に従ったことが分かるが
現在の教祖と呼ばれる存在の幾人かは、
自我を共有化してそこに神霊がアクセスしている。
本人にとっての苦悩は少ないが、
いずれの場合も結界を強固にしないと別の存在に乗っ取られやすいという
問題をはらんでいる。
神人合一を肉体上で果たすことはかなりの困難があるといえよう。
現実界の我々の意識は潜在意識を通して集合的無意識に繋がるが
この共通意識界に自我をもたらすことが、我々人類の存亡に掛かっている。