yoosanよしなしごとを綴る

つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

2002.10中国・青島-南昌-上海を訪ね「水を語り、水を見る」

2015年06月16日 | 旅行

2002.10 中国・青島-南昌-上海を訪ね「水を語り、水を見る」
                             
青島建築工程学院で講義
 2002年10月、中国・青島建築工程学院で講義を行い、続いて中国建築学会・南昌大学・江西省建設局主催の「建築・文化2002国際学術討論会」で論文を発表し、帰路、上海郊外・朱家角を見学した。案内は中国・青島建築工程学院のS副教授である。

 初日、朝9時ごろ家を出て、成田発-上海乗り換えで青島に向かった・・当時、青島-成田の直行便がなかった・・。上海では虹梁旧空港に到着したが、なぜか青島行きは浦東新空港だった。リムジンバスでおよそ1時間ぐらいだそうだが、到着が遅れていたのでタクシー乗り場に行ったところ、長蛇の列でとても間に合いそうもない。やむを得ず、言い寄ってきた白タクと値段を交渉、かなりふっかけられたが仕方ないので、それでも値切って浦東新空港に向かった。
 浦東空港はフランス人の設計だそうで幻想的な雰囲気だが(写真)、鑑賞する時間もなく飛行機に乗り、夜の9時半すぎ、何とか青島空港で迎えのS副教授とJ学科長に会う。13時間余もかかってしまった。

 翌2日目、午前中は講義の準備、午後、両替をし、南昌への航空券を購入したあと、4時から青島建築工程学院建築学科で「水環境共生の考え方と水景観計画」について、スライドを使った講義を行った。
 受講者は3~4年、大学院生を主に、テーマに関心の教授など、80名ほどが受講した(写真)。日本語・中国語の通訳はS副教授が担当してくれた。S副教授は日本で修士号を取得していて日本の事情にも詳しいから、中国の事情にあわせいくつか補足説明をしてくれて助かった。
 中国では沿海部の開発が急速のうえ、北京の次期オリンピックにあわせ青島も会場建設が急ピッチであり、環境への視点が二の次になりやすい。講義を聴き、環境と共生した開発の重要性を改めて再確認したとの意見が多かった。

 講義後の会談で、建築系主任で近く大学が改組になり建築学部長となるJ教授から、青島旧市街の住み方調査に関する共同研究について要請を受けた。青島はドイツによって開発・発展してきた歴史があるが、現在の急速な開発でドイツの都市計画・建築様式の影響を受けた旧市街が再開発される状況にある。歴史的な都市構造や住み方の変化と現代的な住志向を明らかにしたうえで、歴史的な意義を生かした再開発計画を提案したいそうだ。
 昨年度、青島建築工程学院で「住民参加のまちづくり」を講義しており、あわせて、住民参加の計画作りの可能性についても検討したいとの希望もあった。今後、共同研究の詳細について検討を進めることにした。

国際学術討論会で研究報告
 3日目、国際学術討論会の会場がある江西省の省都・南昌にS副教授と向かった。青島から上海浦東新空港、同じ浦東空港から南昌空港へ、ここから車でおよそ2時間走った廬山の国際会議場まで、およそ11時間、中国での移動はともかく時間がかかる。なんでこんなところで国際会議?と思ってしまうが、南昌は中国共産党の革命発祥の地として世界的にも知られているうえ、標高1500mに近い廬山は古くから名山として有名で、著名人の別荘も多いそうだ。ホテルから数分のところに周恩来氏の別荘もあった。
 国際会議参加登録はおよそ200名で、日本からは私と、I芝浦工業大学名誉教授、C鹿児島大学教授、T八戸工業大学教授の4名、ほかにアメリカ、タイ、香港からの参加があった。この日は開会宣言のあと、主題解説4名、学術報告4題があり、終了はなんと夜の10時になった。
 4日目、午前は全体会学術報告7題、午後から分科会で、私は第1分科会The Temporal Architecture Comparison cross Architectural Cultures の第1報告で、「The Traditional Water supplies and Traditional dwellings」を発表した(写真は第1分科会会場、国際学術討論会の赤い垂れ幕)。
 1時間の発表時間を与えられたので、主題解説・学術報告の流れを考え、研究発表を30分で切り上げ、水環境共生の重要性を青島での講義スライドを用いて解説した。
 急速な開発の進む中国では、例えば、この5年間に大学を倍増する計画が実施されており、1年に満たない時間で広大なキャンパスの計画・設計が進められ、しかも新しい建築表現が求められるため、アメリカやヨーロッパ、日本などの現代建築の表現が開発計画に導入される傾向が強い。私の、こうした開発計画の根元的課題である水環境計画の重要性を再認識すべきであるとの報告に少なからず賛同を得た、と自画自賛した。
 最終日は分科会報告と全体討論であるが、飛行機の時間にあわせて途中退場、上海に戻った。

上海・新天地
 上海には夕刻に着いたので、荷物を下ろしてから新天地を訪ねた。上海にはかつて里弄住宅と呼ばれる都市住宅地が大量に建設された。それでも中国の爆発的な人口増を受け止めきれず、里弄住宅の一つをさらに分割して複数世帯が住んでいる状況が見られた。
 1986年、初めて上海を訪ねたときに、そのような厳しい住宅事情を見てまわったことがあり、同済大学でC 教授の助手をしていたM 君が案内をしてくれた。M 君はその後、私を頼って日本に留学し、東大大学院に進んでいま博士論文をまとめている。
 今回の南昌大学・国際シンポの話しを連絡したところ、昔の里弄住宅の一部を残し、新天地として再生されたから是非見てほしいとEメイルが来た。
 里弄住宅を再生した新天地訪ねてみて、かつての面影を残しながらもあか抜けた町並みに変貌していてすっかり驚かされてしまった(写真)。
 古いものを取り壊し、新しく建て替えることが得意な中国人というイメージは、新天地を見る限りあてはまらない。巧みな空間構成といい、古い残像と新しい表現の組み合わせといい、実にうまい。外国人ばかりでなく中国人も人並みをつくっており、町並みのデザイン手法が評価されていることを裏付けていた。もっとも、飲食の値が高いように思う。その辺は相変わらずの中国人商法で、ちょっとばかりがっかりであった。

上海郊外・朱家角
 5日目は、地下鉄で体育館前まで行き、ここからバスで、上海郊外の運河を都市構造とした歴史都市・朱家角を訪ねた(写真)。水の汚れが気になるが、一時失われていた運河機能の再利用によって町ににぎわいが戻ってきたそうである。
 運河は自動車交通の効率性にはかなわないが、人間的な交流と水による感性的な刺激に充ちている。いったん、水を汚してしまい、あるいは水のもつ様々な働きを失ってしまうと、水環境を復元するために時間のかかる啓発と膨大なエネルギーを必要とする。
 それでも運河が残っていれば水環境の再生は可能であるが、もし運河を埋め立て水環境そのものを失ってしまえば、水の復元・再生は不可能となろうし、同時に土壌が乾き、緑を失い、急速に環境の悪化が進むことになろう。あとは、人工的な水環境を新たに作り出す開発計画しかない。朱家角の運河保存・活用は目を見張る活動ではないが、たとえ小さな活動でも運河を残すことがいつか本格的な水環境保全につながるという当たり前の重要性を再認識し、帰路についた。

 1986年以来、何度も訪ねている上海はいつも新しい空気がみなぎっている。今回も新天地といい、地下鉄が通った南京路といい、新しい都市景観を作り続ける外灘といい、思い切った斬新さに驚かされた。
 常に新しい時代に突き進んでいく上海人の気質のせいかもしれない。おそらく、次に訪ねたときにはさらに新しい空気が吹いていると思う。その反面、いろいろな場面で遭遇する人と人の結びつきのようなものが変わらず生き続けていることも象徴的だった。
 大げさに大きな声で、何十年ぶりかであった親友か肉親のように、他の人などに目もくれず話しあう様子は、広大な土地に多民族が住みあい、しばしば激変する社会にあっては人と人の結びつきこそが真実を確かなものにするということのあらわれであろうか。上海が飛躍的に発展すればするほど、一方で、自分の存在を確かなものとするために知人を見つけては大げさに大きな声で話そうとする習癖は、これからもなくなりそうもないと思える。わずか1週間の中国であったが、中身の濃い充実した時間だった。 (2002.12)

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斜め読み「北ドイツ=海の街の物語」

2015年06月14日 | 斜読

b397 北ドイツ=海の街の物語 沖島博美 東京書籍 2001  <斜読・日本の作家index
 2015年5月に北ドイツツアーに参加した。旅の狙いの一つはハンザ都市で、ツアーではロストク、ヴィスマル、リューベック、リューネブルク、ハンブルク、ブレーメン、ハーメルン、ヒルデスハイムなどを訪ねた。
 ハンザ都市については教科書で習ったがいつの間にか忘れてしまい、2008年、ストックホルムを歩いていてドイツ教会やドイツ風の建物を見てもハンザ同盟は思い出さなかった。
 2009年のバルト三国の旅の途中、ラトビアの首都リガの大聖堂の横に「ブレーメンの音楽隊」のブロンズ像を発見し、町なかのハンザ商人の建物を見て、ようやくハンザ同盟による交易の拠点がバルト海であったことに気づいた。
 当然、関心は本家本元のリューベック、ハンブルクなど、北ドイツのハンザ都市に向く。
 2012年には中世ハンザ都市を副題とする谷克二ほか「北ドイツ」(b295参照)も読んだ。ところがハンザ都市を巡るツアーがなかなか見つからない。個人旅行で行こうかと計画を立て予算を組んだらとんでもない料金になった。ようやく「ドイツ北東部・世界遺産」を巡るツアーを見つけ今回の旅になった。

 すでに「北ドイツ」は読んだので新たな本を探して、同じ北ドイツを冠しているが海の街の物語と銘打ったこの本を見つけた。
 旅の直前に読み始めたら、p12洗練された町を散歩する・・パリやロンドンに匹敵する・・ウィーンよりは都会・・洒落た建物、洒落た店・・男も女も着飾って足早に歩く・・スーツ姿の男女がビジネスをする町・・とあったので、準備したスーツケースを開け直し、スーツを入れ直した。
 実際の北ドイツではリラックスした身なりも多かったが、ピシッと着こなしてさっそうと歩く人も多かった。私も旅の2/3はスーツで押し通し、スーツの似合う町を実感した。

 旅の前に読んだのはその辺までで、あとは旅のまにまに、飛行機やバスの移動時間を利用して読み終えた。さらりと書き流していて気楽に読めるし、食事やちょっとした見どころの紹介も参考になった。目次で中身を紹介する。
 今も昔もハンザの要 ハンブルク
  ここもハンザの主要都市 ブレーメン
 塩はここから運ばれた リューネブルク
 ティル・オイレンシュピーゲルは実在したか メルン
 市民に還元されたハンザの富 リューベック
 コッゲ船が最初に寄港した街 ヴィスマール
 ハンザの船を造った港町 ロストック
 ドイツ最北東のハンザ都市 シュトラールズンド
 海賊と白亜崖の島 リューゲン島
 最北の島のエレガンス ズュルト島
 紅茶の香るオストフリースラント ノルデン~グレートズィール~ノルダナイ島
 シュテルテベッカーの正体 マリーエンハーフェ
 シュテルテベッカーを追って ヘルゴランド島~ハンブルク

 内容のすべてが私の関心事ではないが、旅日記風に綴られていて著者の人となりが行間にあふれている。おおむね前半が主要なハンザ都市の紹介で、後半がハンザの商船を狙った海賊シュテルテベッカーの正体を見極めようという著者の個人的な旅物語だが、これも著者の人柄がにじみ出ていて楽しめた。

 巻頭に大ざっぱな地図があるので位置関係は把握しやすいし、写真が豊富で理解を助けてくれる。なにより一志敦子氏のイラストが随所の挿入されていて、イラストのほのぼのとした表現が旅の気持ちを高めてくれる。
 ただし、ハンザに関する科学的、理論的な整理はされていない。歴史年表もないし、交易品リストも、発生や変遷、消滅の理由、そのころのヨーロッパ情勢との関係、バルト海を囲む各都市の相互関係なども不明である。それらを理解したい方は「北ドイツ」などを読んだ方がいい。

 この本は著者・沖島博美の旅日記、旅物語であり、沖島氏に誘われ、連れ立って旅している気分になる本である。もちろん、著者はドイツ語学科卒、ドイツ民俗学専攻のトラベル・ジャーナリストであるから、要所はしっかりと押さえてある。
 たとえば、p34ベッチャー通り、p37シュヌア地区はいまや有名観光地でツアーでも案内されたが、p96~のホーフとガングはハンザ商人による福祉事業が元になった家並みにもかかわらずややマイナーなようでツアーでは行かなかった。
 自由時間にこの本を頼りに訪ねたが、この本を読まなかったらハンザ商人の隠れた功績に気づけなかったに違いない。
 また、「北ドイツ」では交易品リストからハンザ都市の交易を理解できるが、この本は北ドイツではブドウの栽培に向かないことや粗悪な水の代わりにビールが愛用されたことなどを紹介しながら、往路にビールやリューネブルクの塩を載せ、復路で塩漬けニシンなどを運んできたことや、フランスの復路で運んだワインがp90ロートシュポンと呼ばれて愛飲されたことなど、ハンザ商人の活躍を沖島流に教えてくれる。

 ハンザ同盟は個別の商船では海賊に襲われたり、異国での交易が不利になるため生まれたのだが、そのハンザ商船を狙った海賊の一人がシュテルテベッカーである。彼らは交易で裕福になったハンザ商船を襲い、恵まれない人たちに施しをしたことで・・日本のねずみ小僧のような義賊として・・人望を集めたそうだ。
 ハンザ同盟の研究者なら取り上げないであろうハンザを狙う海賊の正体を追いかけていったのは著者のジャーナリスト魂であろうか。私のドイツの旅の最後のころに楽しく読み終えた。 (2015.5)


 

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斜め読み「ヒトラーの防具」

2015年06月12日 | 斜読

b396 ヒトラーの防具 上・下 帚木逢生 新潮文庫 1999   <斜読・日本の作家index
 帚木氏のカタリ派をテーマにした「聖灰の暗号」は内容も深く、劇的な展開も私好みであった。
 近くベルリンを始めとした北ドイツを訪ねるので、予習を兼ね、気持ちの準備に帚木氏のベルリンを舞台にしたこの本を読んだ。「聖灰の暗号」のような推理の展開はないが、ヒトラーと手を結ぼうとする日本を時代背景にして、戦争の狂気と狂気に押しつぶされそうになりながらも信念を貫こうとする生き方を描き出していて、帚木氏の正義感がよく伝わってきた。

 主人公は、ドイツ人の父と日本人の母のあいだに生まれ、東京で育ったドイツ語に堪能な香田光彦で、物語はベルリンの武官事務所に補佐官として勤務しているあいだの手記の形を取っている。
 光彦には兄雅彦がいて、雅彦は帝大医学部を出て医師になったが、顔立ちが父に似たため患者が受診を断ることが多かったので日本での医師をあきらめ、ドイツ・ミュンヘンの病院で精神科医として勤務している。著者帚木氏は東大仏文科卒後、九大医学部を出て精神科医となっていて、その経験が兄雅彦に反映されているようだ。
 雅彦は、ナチスがユダヤ人とともに精神病者も抹殺しようとする狂気に立ち向かおうとし、射殺されてしまう。
 光彦と雅彦の会話や雅彦からの手紙で、ナチスの非人道性が暴かれていく。しかし、上巻p16で・・戦争を起こす前から人々は狂気に染まってしまう。知らず知らずに狂気という病原菌に感染させられ、周囲のだれもがその病に冒されているので病識はなかなか生じにくい・・と述べているように、よほど強固に正しく生きることを信念としない限り、病原菌に冒されても病識を生じないか、自分の身を守るために見て見ぬふりをするか、正道を主張したがために囚われ、拷問され、雅彦のように殺されてしまう。
 ナチスの狂気はいつでも起こりうる、しっかりした信念がその感染を食い止めることができる、これが帚木氏からの読者への強いメッセージであろう。

 帚木氏はまた剣道にも秀でていて、それは光彦に反映されている。光彦の手記は、大日本連合青年団会頭と副会頭に同道し、ヒトラー総統の49才の誕生記念に剣道の防具一式を贈呈する際の通訳としてヒトラーと話を交わすところから始まる。このとき光彦はヒトラーのカリスマ性に引かれてしまう。しかし、その後、雅彦との会話やベルリンにおけるユダヤ人の迫害などの現実から次第にナチスの正体に気づいていく。
 剣道防具の贈呈後、会頭、副会頭は帰国するが、光彦はそのままベルリン武官事務所勤務となる。武官補佐官は正式には駐ドイツ日本大使附きなので、光彦は東郷大使に挨拶に出かける。
 東郷大使は、良識派で国際感覚にも長け、独との連携よりも英米との協調が日本の取るべき道と考えているが、後に日独連携をすすめる勢力によって露に転勤させられる。
 代わって後に駐独の大使になるのが光彦の直属の上司である大島武官である。大島武官はヒトラー、ナチスに傾倒していて、日独の提携工作を、外相となったリッペントロップと秘密裏に進めようとする。光彦には直属の上司でありながら、次第に日独連携に違和感を感じ始める。

 光彦は、大使館守衛のハンスとドイツ語で話したことからハンスの口利きでベルリン交響楽団のオーボエ奏者ルントシュテット氏夫妻が住む5階建ての石造りの住居の1階に間借りすることになった。ルントシュテット夫妻は2階に住んでいて、上階にはほかの間借り人が住んでいる。隣にはユダヤ人の礼拝所シナゴーグが建っていた。
 住まいに落ち着いてから、光彦は庭に出て剣道の練習をする。そのとき閉鎖されているはずのシナゴーグから女性の話声を聞く。後に、この女性はユダヤ人の母娘であることが分かる。母娘は、それまでドイツ人として暮らしてきたのだからとベルリンに踏みとどまっていたが、ナチスの迫害を逃れるため、ルントシュテット夫人の好意でかくまってもらっていた。
 ところがゲシュタポの捜索で母がとらわれてしまう。ゲシュタポが引き上げた後、光彦の部屋の物置から娘が現れた。この物置はルントシュテット氏の部屋につながっていて、娘は天井裏に隠れ、難を逃れたようだ。光彦はユダヤ人の娘ヒルデかくまおうと決心する。
 日独連携を画策する上司大島、ユダヤ人ヒルデとの生活、兄雅彦の厳しい状況がからみながら物語は展開していく。

 ヒトラーは破竹の勢いで周辺国に進撃していく。しかし、やがてロシアが独露条約を破棄してドイツに攻撃を仕掛け、イギリス軍の空爆がベルリンに迫ってきた。ついに、ルントシュテット氏の住まいも空爆で破壊され、ヒルデが命を落とす。ヒルデの存在が分かってしまうと光彦始めルントシュテット家に住む人々は検挙されてしまうので、密かに庭の菩提樹の根元にヒルデを埋葬する。
 さらにルントシュテット氏も空爆で命を落とす。とことん破壊されたベルリンは、まさにヒトラー、ナチスが仕掛けた悲惨な破壊のしっぺ返しでもあった。
 ヒルデとお腹の赤子、兄雅彦、オーボエ奏者ルントシュテット氏を次々に亡くした光彦は絶望しながらも、下巻p434・・いくらベルリンが空爆でなくなろうと、人々の記憶の中にあるベルリンは破壊できないものです。・・戦争が終わったとき昔通りに、記憶通りに復興するときの証人になって下さい・・は、光彦に生きる目標を与えることになり、ヒルデの思い出とともにベルリンで生き続けようと決意する。

 タイトルの「ヒトラーの防具」は、読み始めたときはヒトラーに贈呈した剣道の防具と思っていた・・実際にヒトラーに贈呈された防具が実在したそうだ。
 しかし帚木氏は、敗局が濃厚になったとき、光彦にヒトラーを身をもって守る役目が与えられる話を挿入している。つまり光彦自身が生身の防具となる設定である。ヒトラー、ナチスが狂気の病原菌であるから、ヒトラーの防具を引き受けた光彦は土壇場でナチスという病原菌を駆逐し、ドイツ人の思いを果たそうとする。そして、病原菌を駆逐した光彦が傷つきながらもヒルデの眠る菩提樹の元に戻ってきたところで手記は終わる。

 この本は、ベルリンの壁崩壊後のプロローグとエピローグが付いていて、プロローグで光彦の手記と剣道の防具が発見され、本編が光彦の手記、エピローグでは光彦の住まい跡に菩提樹が茂っている様子が紹介されている。
 たぶん、光彦はなんとか生きのびたのであろう。下巻p414~で、間借り人のヒャルマー爺さんが亡くなる直前、光彦に願いごとをする・・ベルリンが昔のように復興したときわしのことを少し思い出しておくれ。そうすればコウダの眼を通してわしも昔通りのベルリンを眺められる・・音楽会に行ったときもわしを思い出してくれ。わしはコウダの耳を通じて音楽が聴ける・・。
 光彦は生きのび、復興したベルリンを歩きながらヒルデや兄雅彦やルントシュテット氏やヒャルマー爺さんの眼となり、音楽会に出かけ、ヒルデと雅彦とルントシュテット氏とヒャルマー爺さんの耳になったのではないだろうか。 (2015.5)

・・ベルリンツアーでベルリンの壁を見てきた。戦争体験がなくても、このような本を読み、ベルリンの壁のような戦争の痕跡に対峙することで歴史を直視することができる。・・気分は重くなるが、ヒルデや雅彦やルントシュテットと同じように犠牲になられた大勢の思いを背負わなければいけない、と思う。

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台湾・集集地震・邵族は協力造屋でコミュニティを再生

2015年06月09日 | studywork

 日本は地震が多いが、台湾でも大地震が起きている。その一つの1999年に起きた集集地震は、マグニチュード7.3(兵庫県南部地震M7.2とほぼ同じエネルギー、東日本大震災はM9.0)、震源の深さ1.1km(兵庫県南部地震は16kmだったので集集では相当な激震になった)である。さっそく国際交流宮あじ会に呼びかけ、義援金を送致した。
 その後、復興の話を聞いた。とりわけ少数民族である邵族の復興では協力造屋と呼ばれる方式で復興とともにコミュニティを再生したそうだ。しかし、協力造屋がよく分からない。
 そこで、2007年11月、集集を訪ね、協力造屋の発案者である謝英俊氏に聞き取りをし、復興住宅を取材した。その結果を2008年度の日本建築学会関東支部研究発表会に報告したので、転載する。

 2008.3 調査報告「集集地震を契機とした台湾原住民邵族のコミュニティ再生」 日本建築学会関東支部
 集集は台湾の景勝地・日月湖に近い。邵族はこのあたりに住んでいた。漢民族の移住とともに生活は厳しくなったが、それまでは半農半漁で生計を立てていた。住まいは、木軸に竹を補助に使った簡素なつくりで、屋根は草葺きだった。
 集集地震でほとんどの家は全半壊したが、簡潔な構造だったため人災は少なかった。しかし、畑地が崩れ、湖の水位が下がり農業、漁業ができなくなった。都会に出て働こうと考える人も多く、政府は分散した移転先を提示した。
 謝英俊氏たちは、日月湖の近くにコミュニティを再生して暮らす画期的な案を提示した。
 通常の復興住宅は、被災者は仮設住宅で暮らし、建設業者が建てる復興住宅の完成を待つことになるが、謝氏たちはさらに画期的なセルビルドのアイデアを提案した。セルビルドとは、被災者が建設工事を請け負う方式である。こうすれば工事費が被災者の収入になる。セルフビルドだから、これまでの住まいの住みやすさを取り入れることができる。
 これが協力造屋である。
 復興住宅地が完成し、伝統的な祭礼が復活した。日月湖に訪れる観光客も復活したうえ、邵族の伝統的な祭礼も人気となり、さらに大勢が観光で訪れるようになったそうだ。そのため、農業、漁業に加え、観光業の仕事も増え、生活も安定してきた。
 協力造屋のアイデアがなかったら、コミュニティは崩壊し、伝統的な祭礼も消滅したかも知れない。
 協力造屋は災害復興に集落再建に示唆深い方法である。 

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ヴェネツィアの紋章の獅子は新約聖書の福音書を著した聖マルコのシンボル

2015年06月08日 | 旅行

 イタリア紀行2004-30 イタリア5日目 聖マルコ=獅子 ため息橋  ドゥカーレ宮殿 巨人の階段 黄金階段 四つ扉の間
 2004年3月13日、朝食前にサン・マルコ広場を歩く。ホテルの地の利の良さは旅の楽しみを倍増してくれる。ヴェネツィアに泊まるなら、本島がおすすめ。少々狭かったり、設備が古かったり、シャワーしかなくても、部屋から運河の流れ、行きかうゴンドラ、運河に並ぶ家並みを楽しめるし、足をちょっと伸ばせば、サン・マルコ広場、大運河、リアルト橋などの名所を鑑賞し、そこここの店をのぞいたり、カフェから道行く人々を眺めることができる。
 早朝のサン・マルコ広場は、イタリア人は夜遅くまで生活を楽しむためか誰も歩いていない。広場には観光客が数組いるぐらいで、ヴェネツィアのハトもイタリア人並みにまだ休んでいるらしく一羽もいない。
 ドゥカーレ宮殿を見上げる。正面中ほどの窓の上には聖マルコと獅子のレリーフが飾られている。
 話が飛ぶ。旧約聖書の一つエゼキエル書に4つの生き物が火の中から現れたと記されている。4つとは、人、雄牛、鷲、獅子で、新約聖書では、福音書を著したヨハネのシンボルが鷲、マタイが人の顔をした天使、ルカが雄牛、マルコが獅子とされている。聖マルコを守護聖人として崇めるヴェネツィアでは、聖マルコと聖書を持った獅子がシンボル化されて用いられていて、ヴェネツィア共和国の国旗は聖書を持った金色の獅子が描かれている。ドゥカーレ宮殿の獅子のレリーフも守護聖人を表しているのである。
 いったん朝食に戻り、朝食後、ガイドの案内でドゥカーレ宮殿に入場した。
 ドゥカーレ宮殿は中庭を囲んで3階~4階の部屋が並んでいる。中庭の最奥に巨人の階段がある。15世紀に総督就任式のために設けられた階段で、階段を上りきった手すりの上に、ローマ神話のマルス、ネプトゥーヌスの彫像が飾られている。マルスは勇敢な戦士、ネプトゥーヌスは水の神でだから海の都ヴェネツィアらしい飾りである。
 一般見学者の階段を上がると、黄金階段と呼ばれた、ルネサンス様式のアーチ天井を金箔の縁取り+しっくいの植物紋様と女神のレリーフで飾った階段が見える。この華やかさこそ、ヴェネツィアの黄金期を象徴している。この先は、当時、撮影禁止だった・・最近はストロボなしの撮影が認められたらしい。写真は見学当時の感動を呼び戻してくれる手がかりになる。
 この先は見学メモと、インターネットに公開された写真をもとに紀行文が続く。
 
 
 

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