yoosanよしなしごとを綴る

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斜め読み「ヒトラーの防具」

2015年06月12日 | 斜読

b396 ヒトラーの防具 上・下 帚木逢生 新潮文庫 1999   <斜読・日本の作家index
 帚木氏のカタリ派をテーマにした「聖灰の暗号」は内容も深く、劇的な展開も私好みであった。
 近くベルリンを始めとした北ドイツを訪ねるので、予習を兼ね、気持ちの準備に帚木氏のベルリンを舞台にしたこの本を読んだ。「聖灰の暗号」のような推理の展開はないが、ヒトラーと手を結ぼうとする日本を時代背景にして、戦争の狂気と狂気に押しつぶされそうになりながらも信念を貫こうとする生き方を描き出していて、帚木氏の正義感がよく伝わってきた。

 主人公は、ドイツ人の父と日本人の母のあいだに生まれ、東京で育ったドイツ語に堪能な香田光彦で、物語はベルリンの武官事務所に補佐官として勤務しているあいだの手記の形を取っている。
 光彦には兄雅彦がいて、雅彦は帝大医学部を出て医師になったが、顔立ちが父に似たため患者が受診を断ることが多かったので日本での医師をあきらめ、ドイツ・ミュンヘンの病院で精神科医として勤務している。著者帚木氏は東大仏文科卒後、九大医学部を出て精神科医となっていて、その経験が兄雅彦に反映されているようだ。
 雅彦は、ナチスがユダヤ人とともに精神病者も抹殺しようとする狂気に立ち向かおうとし、射殺されてしまう。
 光彦と雅彦の会話や雅彦からの手紙で、ナチスの非人道性が暴かれていく。しかし、上巻p16で・・戦争を起こす前から人々は狂気に染まってしまう。知らず知らずに狂気という病原菌に感染させられ、周囲のだれもがその病に冒されているので病識はなかなか生じにくい・・と述べているように、よほど強固に正しく生きることを信念としない限り、病原菌に冒されても病識を生じないか、自分の身を守るために見て見ぬふりをするか、正道を主張したがために囚われ、拷問され、雅彦のように殺されてしまう。
 ナチスの狂気はいつでも起こりうる、しっかりした信念がその感染を食い止めることができる、これが帚木氏からの読者への強いメッセージであろう。

 帚木氏はまた剣道にも秀でていて、それは光彦に反映されている。光彦の手記は、大日本連合青年団会頭と副会頭に同道し、ヒトラー総統の49才の誕生記念に剣道の防具一式を贈呈する際の通訳としてヒトラーと話を交わすところから始まる。このとき光彦はヒトラーのカリスマ性に引かれてしまう。しかし、その後、雅彦との会話やベルリンにおけるユダヤ人の迫害などの現実から次第にナチスの正体に気づいていく。
 剣道防具の贈呈後、会頭、副会頭は帰国するが、光彦はそのままベルリン武官事務所勤務となる。武官補佐官は正式には駐ドイツ日本大使附きなので、光彦は東郷大使に挨拶に出かける。
 東郷大使は、良識派で国際感覚にも長け、独との連携よりも英米との協調が日本の取るべき道と考えているが、後に日独連携をすすめる勢力によって露に転勤させられる。
 代わって後に駐独の大使になるのが光彦の直属の上司である大島武官である。大島武官はヒトラー、ナチスに傾倒していて、日独の提携工作を、外相となったリッペントロップと秘密裏に進めようとする。光彦には直属の上司でありながら、次第に日独連携に違和感を感じ始める。

 光彦は、大使館守衛のハンスとドイツ語で話したことからハンスの口利きでベルリン交響楽団のオーボエ奏者ルントシュテット氏夫妻が住む5階建ての石造りの住居の1階に間借りすることになった。ルントシュテット夫妻は2階に住んでいて、上階にはほかの間借り人が住んでいる。隣にはユダヤ人の礼拝所シナゴーグが建っていた。
 住まいに落ち着いてから、光彦は庭に出て剣道の練習をする。そのとき閉鎖されているはずのシナゴーグから女性の話声を聞く。後に、この女性はユダヤ人の母娘であることが分かる。母娘は、それまでドイツ人として暮らしてきたのだからとベルリンに踏みとどまっていたが、ナチスの迫害を逃れるため、ルントシュテット夫人の好意でかくまってもらっていた。
 ところがゲシュタポの捜索で母がとらわれてしまう。ゲシュタポが引き上げた後、光彦の部屋の物置から娘が現れた。この物置はルントシュテット氏の部屋につながっていて、娘は天井裏に隠れ、難を逃れたようだ。光彦はユダヤ人の娘ヒルデかくまおうと決心する。
 日独連携を画策する上司大島、ユダヤ人ヒルデとの生活、兄雅彦の厳しい状況がからみながら物語は展開していく。

 ヒトラーは破竹の勢いで周辺国に進撃していく。しかし、やがてロシアが独露条約を破棄してドイツに攻撃を仕掛け、イギリス軍の空爆がベルリンに迫ってきた。ついに、ルントシュテット氏の住まいも空爆で破壊され、ヒルデが命を落とす。ヒルデの存在が分かってしまうと光彦始めルントシュテット家に住む人々は検挙されてしまうので、密かに庭の菩提樹の根元にヒルデを埋葬する。
 さらにルントシュテット氏も空爆で命を落とす。とことん破壊されたベルリンは、まさにヒトラー、ナチスが仕掛けた悲惨な破壊のしっぺ返しでもあった。
 ヒルデとお腹の赤子、兄雅彦、オーボエ奏者ルントシュテット氏を次々に亡くした光彦は絶望しながらも、下巻p434・・いくらベルリンが空爆でなくなろうと、人々の記憶の中にあるベルリンは破壊できないものです。・・戦争が終わったとき昔通りに、記憶通りに復興するときの証人になって下さい・・は、光彦に生きる目標を与えることになり、ヒルデの思い出とともにベルリンで生き続けようと決意する。

 タイトルの「ヒトラーの防具」は、読み始めたときはヒトラーに贈呈した剣道の防具と思っていた・・実際にヒトラーに贈呈された防具が実在したそうだ。
 しかし帚木氏は、敗局が濃厚になったとき、光彦にヒトラーを身をもって守る役目が与えられる話を挿入している。つまり光彦自身が生身の防具となる設定である。ヒトラー、ナチスが狂気の病原菌であるから、ヒトラーの防具を引き受けた光彦は土壇場でナチスという病原菌を駆逐し、ドイツ人の思いを果たそうとする。そして、病原菌を駆逐した光彦が傷つきながらもヒルデの眠る菩提樹の元に戻ってきたところで手記は終わる。

 この本は、ベルリンの壁崩壊後のプロローグとエピローグが付いていて、プロローグで光彦の手記と剣道の防具が発見され、本編が光彦の手記、エピローグでは光彦の住まい跡に菩提樹が茂っている様子が紹介されている。
 たぶん、光彦はなんとか生きのびたのであろう。下巻p414~で、間借り人のヒャルマー爺さんが亡くなる直前、光彦に願いごとをする・・ベルリンが昔のように復興したときわしのことを少し思い出しておくれ。そうすればコウダの眼を通してわしも昔通りのベルリンを眺められる・・音楽会に行ったときもわしを思い出してくれ。わしはコウダの耳を通じて音楽が聴ける・・。
 光彦は生きのび、復興したベルリンを歩きながらヒルデや兄雅彦やルントシュテット氏やヒャルマー爺さんの眼となり、音楽会に出かけ、ヒルデと雅彦とルントシュテット氏とヒャルマー爺さんの耳になったのではないだろうか。 (2015.5)

・・ベルリンツアーでベルリンの壁を見てきた。戦争体験がなくても、このような本を読み、ベルリンの壁のような戦争の痕跡に対峙することで歴史を直視することができる。・・気分は重くなるが、ヒルデや雅彦やルントシュテットと同じように犠牲になられた大勢の思いを背負わなければいけない、と思う。

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