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2008.12 伊豆下田を歩く/寝姿山・黒船サスケハナ・ペリー日米和親条約

2020年04月14日 | 旅行

2008.12 伊豆下田を歩く  

 伊豆半島は景勝に優れ、温泉も多いことから何度も来ているが、交通が難点で先端の下田まで足を伸ばすことはほとんど無かった。下田は、日米和親条約で1854年、日本で最初に開港した港町である・・翌1855年、箱館=函館が開港する・・。
 2008年12月、下田を歩こうと、東京駅発のスーパービュー踊り子号に乗った・・現在はスーパービュー踊り子は終了し、代わりにサフィール踊り子が運転されているらしい・・。
 スーパービューというだけあって眺めが期待できる。小田原を過ぎたあたりから左手に相模湾が見え出す。熱海、伊東、伊豆高原、伊豆熱川、伊豆稲取のあいだ、海の眺めを楽しみ、やがて高原の風景に変わり、やがて伊豆急下田駅に着いた。
 南伊豆とはいえ、年末なので風は冷たく、風景は枯れ葉色が優勢である。

寝姿山展望台
 駅近の下田ロープウエイに乗って、寝姿山の展望台に向かう。名前は女性の寝姿に見えることに由来するらしいが、ロープウエイに乗ってしまうと寝姿を確かめられない。
 あとでwebを調べたら、確かに女性の寝姿に見えた(写真、web転載)。・・観音様に見えたら観音山になったと思うが、顔、喉、胸の形から女性の寝姿を連想したようだ。

 海底火山が伊豆と本州の衝突で隆起し、その後の浸食で寝姿になったらしい。展望台散策路には樹木や草花が植栽されているが、もともとはマグマだから褐色の岩場がむき出していて、海底火山だったことをうかがわせる。

 展望台から下田港を見下ろす(写真)。寝姿山から海までの落差は200mほどである。下田港、その先の相模湾、太平洋がよく見える。はるかに広がる海は雄大である。

 散策路に幕末の見張り小屋が復元されていた。当時の役人は黒船から蒸気が噴き出すのを見て、海の彼方の未知の世界に興奮したのではないだろうか。
 
 伊豆急下田駅に戻り、予約しておいたホテル伊豆急の送迎バスに乗る。ホテル伊豆急は相模湾に面していて、露天風呂の先は遮るものがない。風呂が海につながっているような錯覚をおぼえ、気分も雄大になる。温泉でほてった体を海風で冷まし、また湯につかり、たっぷり湯を楽しんだ。

黒船 サスケハナ
 翌朝、送迎バスで駅前に送ってもらい、下田港内めぐりの遊覧船に乗船する。船名はサスケハナSusquehannaで、ペリー(1794-1858)が搭乗していたフリゲート艦の名前にちなんでいる(写真)。
 ペリー搭乗のサスケハナを始め当時の西洋船は木造船で、防水、防蝕のための黒色の樹脂であるピッチを塗っていたため黒船とも呼ばれた。
 遊覧船サスケハナも、黒船をイメージさせる黒で仕上げられている。ただし、遊覧船サスケハナは127㌧、長さ35mと小さく、対してペリー搭乗のサスケハナは大海を航行するだけの性能を備えるため、総トン数2450㌧、長さ78mと桁違いに大きい。

 それでも、ペリー搭乗のサスケハナが蒸気機関を備えた帆船だったことにちなみ、ディーゼルエンジンの遊覧船サスケハナにもマストを装備している。
 マスト付きの黒船でペリーの気分になり、波の穏やかな下田港を一周した(写真)。
 下田港は入り江が深く風待ちに適していたようで、徳川が江戸を開府して以降、下田港を利用する船が増えた。幕府は1616年に下田港に番所を置き、江戸に出入りする船を下田港で調べるようにしたそうだ。そうした港の特性と歴史がペリー来航後の下田開港につながったのであろう。

ペリー・日米和親条約
 1853年、浦賀にアメリカ東インド艦隊司令長官兼米使提督マシュー・ペリーが搭乗した蒸気外輪フリゲートfrigate=軍艦サスケハナと同ミシシッピ、帆装スループsloop=小型艦サラトガ、同プリマスが来航し、開国を迫る。幕府は回答を翌年に延期する。
 1854年、浦賀に帆装輸送艦サザンプトン、続いてペリーの搭乗する蒸気外輪フリゲート・サスケハナ(当初の旗艦)、同ポーハタン、同ミシシッピ、帆走スループ・マセドニア、同ヴァンダリア、同レキシントンが来航する。開国交渉は横浜に移り、帆装スループ・サラトガ、帆装輸送艦サプライが続いて来航し、9隻の艦隊が江戸湾に集結する。
 同年、横浜で日米和親条約(神奈川条約)が締結された。
 1 アメリカ船に燃料や食料等、欠乏品を供給する
 2下田、箱館の2港を開き(下田は即時、箱館は1年の後)、下田への領事の駐在を認める
 3アメリカに一方的な最恵国待遇を与えるなど、12条である。
 サスケハナは中国へ、サラトガは条約を運び本国へ、ポーハタンを旗艦として7隻が下田港に移る。
 ペリーが箱館の調査を終えたあと、下田・了仙寺日米和親条約付録・下田条約が締結され、アメリカ人休息所として玉泉寺と了仙寺が指定された。同年、ペリーは帰国する。 続く

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