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カトリック両王はユダヤ人の国外追放を宣言、コルドバではユダヤ人街が残され、いまは花の小径として人気

2016年11月14日 | 旅行

スペインを行く 34 2016年ツアー8日目 旧ユダヤ人街・花の小径 パティオ パティオ・アンダルシア ローマ橋 /2016.11記

 スペイン8日目、11時50分ごろ、メスキータのオレンジのパティオを出た。雨は上がり、日が射している。
 メスキータ北側のカルデナル・エレロ通りにはホテル、レストランが並ぶ。建物は2~3階で白く仕上げられているが、2車線ほどの広さの通りに運搬用の小型車、乗用車が停車していて、落ち着かない。
 少し西に歩いたところで北の細い道に入った。道幅が狭い。モロッコの旧市街で、ロバがすれ違えるのがやっとの道が曲がりくねり+行き止まりになり、迷子になりそうな緊張感を覚えたが、ここの細い道もかなり錯綜している。
 建物はほとんど2階で、隙間なく続き、外壁は白で統一されているが、1階の窓も2階の出窓も黒の鉄格子が取り付けてあり、そうした防御の構えが緊張感を感じさせる。
 このあたりはかつてユダヤ人街だったので旧ユダヤ人街と呼ばれるが、現在はメスキータともに世界遺産に登録され、観光客を集めている。1994年ツアーでも同じ細道を歩いていて、写真はほぼ同じだった。お定まりの観光コースのようだ。
 
 スペインにおけるユダヤ人について、にわか勉強を留めておく。
 8世紀にイスラム教徒がイベリア半島に侵攻する前からユダヤ人が住んでいたそうで、キリスト教の西ゴート王国はユダヤ教を受け入れていたことになる。
 イベリア半島に侵攻したイスラム教徒もユダヤ教には寛容で、コルドバを首都とした後ウマイヤ朝下では、一定の制限があったものの、ユダヤ人は活発な商業活動を行うことができた。
 ・・略・・北アフリカを本拠とし、マラケッシュを都とするムラービト朝が進出する。イベリア半島のムラービト朝はコルドバを都としてイベリア半島の南にあたるアンダルシアを統治したが、異教徒を認めずユダヤ教徒を迫害した。
 イスラム教に改宗しないユダヤ教徒はトレドなどのムラービト朝の力の及ばない町に逃げ、やがて商業活動で財をなし、知識層が社会に進出して大きな勢力となった。
 対してトレドでは1391年、キリスト教徒による反ユダヤ人暴動が起き、またたく間にスペイン全土に広がっていった。
 1492年、カトリック両王=フェルナンド2世(1452-1516)+イサベル1世(1451-1504)はグラナダを奪回してレコンキスタ国土回復が完了する。
 その年、カトリック両王はキリスト教に改宗しないユダヤ人の国外追放を宣言した・・一説には、度重なる戦費の支出でユダヤ人に多大な借金があったため、財産没収を狙った?とか・・。
 その結果、コルドバのユダヤ人街はキリスト教徒に取って代わられたが、街並みはそのまま残された。だから、旧ユダヤ人街の細い道を歩くときにはユダヤ人・ユダヤ教徒の歴史に思いを馳せなければならない・・略・・。
 スペイン各地、世界各地で、キリスト教徒もユダヤ教徒もイスラム教徒も、人種、宗教にかかわらず仲良く暮らしあう日が来ることを期待したい。
 
 旧ユダヤ人街の一角に花の小径と呼ばれる細道がある。1階の窓、2階の出窓のみならず、白壁にもたくさんの鉢が配置され、赤、ピンク、紫、白・・の花が咲き、目を楽しませてくれる。
 香りの薬用効果で虫除けになるそうだから、花のある小径は一石二鳥の利点がある。
 ・・略・・どの建物も採光、通風のためのパティオ=中庭を設けている。・・略・・採光、通風のみならず憩いの場にしようと工夫を重ねた。
 ・・略・・門扉からパティオをのぞくと、泉・池を中心にして、床を大理石やタイルで舗装したうえで、泉・池回りや白壁に花を配置し、円柱とアーチを組み合わせ、門扉や窓の格子は幾何学模様で組み、白壁に対して窓枠はブルーやオレンジ色で縁取るなど、思い思いのデザインを楽しんでいることが分かる。
 春には、パティオコンクールも実施され、大勢の観光客を集めているそうだ。辛い歴史を抱えていながらも、いまの暮らしを楽しもうとする意気込みを感じる。それが観光客を引きつけているようだ。
 
 ・・略・・12時半、花の小径に近いEl Patio Andaluzでランチを取った。パティオ・アンダルシアといった名前からも想像できるようにパティオのある館をレストランにしていて、2階席から見下ろすと泉・池のあるパティオが花で飾られている様子がよく分かる。
 ・・略・・イベリコ豚の生ハム、キノコ炒め、スペイン風オムレツ、コルドバ名物のサルモレホ=冷たいトマトスープ、酢漬けのムール貝(次頁写真)などのタパス料理を楽しんだ。どれも味が良く、食べやすい。大いに食べ、飲み、おしゃべりをしていると時間の過ぎるのが早い。デザートのアイスクリームを食べ終え、外に出たときは1時半を過ぎていた。

 メスキータの東側を通り、グアダルキビル川にかかるローマ橋に向かった。
 ・・略・・メスキータから見て右=南西が下流で、川はセビリアを経て、大西洋に流れる。
 かつて、大型船はセビリアまで航行できたので、交易品、あるいは植民地からの収奪品を満載した船が大西洋からグアダルキビル川を上り、セビリアに着いた。ここで小さな船に載せ替え、コルドバまで上ってきたから、コルドバも大いに栄えた。
 コルドバを都とした古代ローマも後ウマイヤ朝も、グアダルキビル川の利便性に目をつけたのである。
 ローマ橋あたりの川幅は180mほどである。古代ローマはここに石積みのアーチ橋を架けたが、氾濫や戦乱で壊れ、何度も修復された。
 現在の橋は16世紀の改修だそうで、16の半円アーチの石造で長さは230m?である。
 下流側の柱脚は半円形の石積みでカバーされているが、上流側は三角形の石積みで流れてくる流木などから橋を守るように工夫されている。
 これは人の知恵、技術だが、橋の中ほどにコルドバの守護聖人聖ラファエル像が置かれている。これは橋の守護を願った神頼みであろう。
 渡りきると、14世紀にアラブ人が築いたカラオラ塔・・現在は博物館・・が建っている。この先でバスに乗った。時計は2時、次はミハスだ。

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