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つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

スペイン・ムルシアは農業で栄え、大聖堂は流行のゴシック・ルネサンス・バロック・新古典を採用

2017年03月16日 | 旅行

スペインを行く44 2015年ツアー11日目 ムルシア セグラ川 ウエルタ 大聖堂博物館 セマナ・サンタ カルデナル・ベルーガ広場 大聖堂 塔 写真はホームページ参照。
 2015年10月30日・金曜、・・略・・ 8時半にバスに乗り込む。
 目指すは、グラナダの北東300kmのムルシアMurciaである。走り出してまもなく、郊外に出る。彼方のシエラ・ネバダ山脈は山頂あたりが白い。光が何かで反射しているだけかな?。sierraはのこぎりのような山脈、nebadaは降雪のことで、最高峰は3478mだからもう雪が降ってもおかしくない。やはり雪かもしれない。
 走り始めの外気温は16℃だったが日差しが強く、すぐに18℃を超えた。周りはなだらか~急傾斜の起伏で、茶色が優勢な荒れ地~果樹園~緑が優勢な畑地が繰り返す。
・・略・・
 外気温は20℃を超えた。畑地~果樹園が続く。露地野菜、キウイ、オレンジ、レモン、オリーブなどが広がっている(写真)。ときどきため池が見える。このあたりは農業が盛んなようだ。
 12時ごろ、ムルシアMurcia市街を流れるセグラ川沿いの市庁舎前広場に着いた。セグラ川Rio Segura一帯はもともと肥沃だったらしい。イベリア半島に侵攻したイスラム勢力はこの地域を支配下に置き、825年、後ウマイヤ朝時代にムルシヤ(後のムルシア)と呼ぶ町を建設した。
 間もなく灌漑用水路ネットワークを構築し、灌漑農業地帯ウエルタhuertaが形成された。以来、ムルシアの主産業は農業になった。バスから見えた畑地~果樹園はウエルタの一部だったようだ。

 1243年、カステーリャ王アルフォンソ10世(1221-1284)によるレコンキスタでムルシアはカステーリャ王国領となった。間もなくカルタヘナに置かれていた司教座がムルシアに移され、聖週間の祭礼セマナ・サンタ・・復活祭イースターに先立つ1週間・・では盛大な行列が出るようになった。産業は、農業に加え絹織物も盛んになり、18世紀には大いに栄えた。
 市庁舎(上写真)前の広場で現地ガイドが待っていた。ガイドは、広場の右手の大聖堂博物館Museo de la Catedralを指さし(下写真)、午後は閉館になるので?先に案内するという。・・略・・館内には聖週間セマナ・サンタの行進で山車に乗せられて運ばれる等身大の人形が所狭しと展示されていた。キリストの受難像、聖母子像、12使徒像などで、それぞれ著名な芸術家の作らしい。
 かなりリアルで十字架のイエスや受難のイエスは見るからに痛々しい。衣類も金糸銀糸を用いた手作りだそうだ。・・略・・
 市庁舎と博物館のあいだの細道を抜けるとカルデナル・ベルーガ広場Plaza del Cardenal Bellugaに出る。cardenalは枢機卿の意味だそうで、広場の南側に司教館が建っている。・・略・・ 赤みを帯びた司教館はルネサンス様式で、赤みの壁には絵は描かれているが、風化していて題材はよく分からない。
 広場の西の奇抜なデザインの建物は新市庁舎だそうだ。・・略・・ 歴史的な大聖堂と現代的なデザインの新市庁舎が広場を挟んで向かい合っているとは、ムルシア人は進取の精神に富んでいそうだ。

 新市庁舎に向かい合う大聖堂Catedralは1394年に着工され、1465年に主要部分が完成したらしい。ゴシック様式で工事が進められたが、17世紀にルネサンス様式、18世紀にはバロック様式、新古典主義で工事が加えられたそうだ。
 カルデナル・ベルーガ広場に面した正面ファサードは、新古典様式の円柱が立ち並んでいる(前頁写真)。壁面は曲面で縁取られ、上部の聖母被昇天、中段の聖母子を始めとする立体的な彫像で埋められている。これは典型的なバロック様式である。
 ムルシアは農産業、絹織物業で18世紀に大いに栄え、セマナ・サンタは17~19世紀に盛り上がったという記録からも裏付けられるように、資金が潤沢だったため時代時代の先端の様式を取り入れて大聖堂を仕上げていったのであろう。

 =鐘楼も下層部はゴシック様式だから大聖堂と同じ時期に作られ、中層部はルネサンス様式だから16世紀に増築され、上層部はバロック様式で18世紀に完成した(写真)。92mの高さを誇る。
 カルデナル・ベルーガ広場は周りを建物で囲み閉鎖的な空間を作ったうえで、大聖堂に向かってやや広がった形になっている。その正面に白亜の大聖堂が配置されている。
 低層部だけの塔=鐘楼と装飾の無いゴシック様式の大聖堂はおとなしすぎたのであろう。塔をかさ上げし、ルネサンス様式で飾ったがまだ物足りない。さらに塔を高くし、バロック様式の華やかな飾り付けを施すと、広場に入った瞬間、目を奪われる構成になった。ムルシアの人々の造形力に頭が下がる。

 ・・略・・
 大聖堂は南側の門から入る。カルデナル・ベルーガ広場からは見えないためか、ゴシック様式のままで、アーチヴォルタ飾り迫り縁が採用されているが、アーチ型の壁ティンパノ=仏語タンパンはない(写真)。迫り縁下部の左右4人の聖人像は、カルタヘナの守護聖人らしい。
 ムルシアは、もともと後ウマイア朝時代に建設された町だから、レコンキスタまでカトリック教は認められていないので守護聖人もいなかったのであろう。レコンキスタが成功し、カトリックの司教座をカルタヘナから移すとき、カルタヘナの守護聖人を借用した?のかも知れない。

 堂内の天井は高く、石積みの角柱、尖塔アーチ、交叉リブヴォールト天井など、ゴシック様式を基調としていた(写真)。
 堂内のほぼ中央、身廊と内陣のあいだに、スペインの聖堂に共通する高位聖職者席=聖歌隊席coroが配置されていて、堂内を見通すことはできない。
 内陣のベレスの礼拝堂Capilla de los Velezは、14~15世紀の有力者だったベレス家の礼拝堂で、ゴシック様式にルネサンス様式を融合させた豪華な装飾だった。聖具室の扉は銀細工=プラテレスコ様式で装飾されていた。堂内もゴシック様式を基調にしながら、先端の様式を取り入れた装飾が加えられていた。

 ・・略・・ 2時半ごろ、ランチを終えて、大聖堂の北、トラペリア通りCalle Toraperiaを散策する。人通りの多い商店街で、少し北に歩くとカジノがあった(写真)。19世紀末?20世紀初頭?、農業で財をなした人たちの社交クラブとして作られ、いまはカジノになっている。
 農業者の社交クラブというのが、主産業が農業のムルシアらしい。財があったから、いろいろな様式を融合させた豪華な作りにできたのであろう。確かに外観は新古典+バロック、入口ホールはムデハル+新古典のデザインで、金箔の縁取りをした大鏡が多用され、きらびやかだった(写真)。

 そのまま広い通りまで歩き、サン・アンドレス教会の近くでバスに乗った。ムルシア見学はこれで終了、次は今日の宿泊地、およそ240km北のバレンシアである。

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