1992「むらづくりと風土」 建築とまちづくり誌1992.1
1、風土論入門
「風土」のことばは、呪術のように私をとらえる。風土が人間の在りようを決定し、風土が空間の様式を規定する、これは声明(ショウミョウ)の根幹をなす呪文である。すべての存在のしかたに風土の原理が潜む。故に、生活と空間の設計を発想するスタートに風土の題目を唱え、計画が壁にぶつかり、デザインが行き詰まったときはふりだしの風土に戻る。
風土の呪術を最初に解き明かしてくれたのは和辻哲郎『風土 人間学的考察』(岩波文庫)である。15頁、「我々は風土において我々を見、その自己了解において我々自身の自由なる形式に向かったのである」。
フィールドワークに出るたび、その呪力を確かめた。アッサムを原産地とする稲はインドなどの熱帯ではインディカ米、日本などの温帯ではジャポニカ米として普及する、それは気候帯を反映しており、異なった食文化として発展する。照葉樹林帯は東端を日本、西端をネパール、南端を東南アジアとする広がりで、諸民族の風貌、風俗に多くの共通性が見られる。アジアモンスーン気候帯で生まれた仏教は輪廻転生観であるが、砂漠地帯で生まれたキリスト教は天地創造により万物が生まれたとする。・・・・・。
風土の呪術を決定的にしたのは鈴木秀夫『風土の構造』(講談社学術文庫)、『森林の思考・砂漠の思考』(NHKブックス)である。前掲書100頁、「われわれの生理的存在が、まったく、気候に規定されていることは疑いないが、その器に宿る精神の・・・、およそ人が議論することができる程度の深さまでは、気候の違いがかかわっている」。我々人間が生まれる以前にすでに固有の風土が存在し、雲仙普賢岳や台風の災害を引合いに出すまでもなく、厳しさは現在もそこにある。
風土が地域に固有であり、その厳しさが人間を超えている限り、「地域に根ざす建築」とは風土的建築にならざるを得ない。
2、風土的建築
今年(1991年)は雨が多く、農作物への被害はすこぶる大きい。多くの人は異常気象と言ってかたづけようとする。しかし、雨が多いというのは昨年か、せいぜい記憶の確かな数年前と比べただけであり、異常といっても数十年に一度、あるいは気象データを取りはじめてからのことでしかない。関東地方は年間におよそ1400-1600mmの雨が降る。異常といっても半分の700-800mmとか、倍の3000mmになった訳ではない。風土の基本的な構造は変わっていないのである。-風土による規定の第1
その基本的な構造のもとで、建築空間は生命と財産の安全、そして快適性が目指される。そのための技術的対応には、財力と労力が反映されるから、風土の規定要因と財力・労力がパラメーターとなり、答えとしての建築が作られる。埼玉県北川辺町は町全体が利根川、渡良瀬川、谷田川に囲まれ、橋をすべて落とすと陸の孤島になる立地で、洪水の常襲地である。新田開発で移り住んだ住民は-0.5mの水田レベル(毎年水面下)/±0mの道路レベル/+1.0mの作業庭レベル(数年毎水面下)/+2.0mの主屋レベル(10~20年毎洪水被害)/+2.5mの蔵レベル(50~100年に洪水被害)と、敷地を盛り土し、洪水に備えた。しかし、これは全ての住宅で実施されてはいない。一つのモデルとしての構え方である。数十年に一度の洪水にも耐えられるように敷地全体を盛り土することは相当の財力負担となるばかりでなく、日常生活にかなりの支障となる。しかし、もし盛り土をけちり、道路と変わらないレベルにすれば、数年毎に全財産を失い打撃をこうむる。
風土的建築、この場合水塚形式の屋敷構えは、モデルを頂点として、洪水と財力のバランスに応じて形成される複数の解の総称である。言い換えれば、解答として作り出される建築形態に様々なバリュエーションがあっても、建築の規定要因である風土にバリュエーションがあるのではなく、個々の住居の技術的な対応の仕方のレベルによって生じた結果である。風土をパラメーターとする限り、異なって見える建築表現のすべてが、風土的建築の様相を有し、故に、個々の家の個性にかかわらず、景観として調和する。
3、原風景の共有
(屋敷構え)=(洪水)×(財力)の式は、規定要因である洪水を台風、山間、吹雪などに置き換えることで、それぞれの地域に固有の構え方が形作られることを理解されよう。同時に構え方にとどまらない建築の作り方、生活の全般が、風土を背景として様式化されていることに気づかれよう。
稲作は、温暖湿潤と水利を成立条件とする。それは、樹木の生育適地であることも意味する。一方、稲作には過酷な労働がついてまわる。そのため人々の協同と、農耕馬の補助を必要とする。前者は建築生産における講や結の互助組織、後者は、厩の成立を意味する。これらの関係を素材の視点から整理すれば、木造軸組や、板材の多用は樹木の生育適地の反映、畳やござ、草屋根は農業生産物、基礎や土留めの玉石は川そばの立地と、稲作適地の故の身近な風景素材によって、建築が構成されていることがわかる。-風土による規定の弟2
作り方から見ると、例えば白川村の合掌茅屋根は、村人の協同方式によることがよく知られている。これは、茅と労力の相互互助であるが、結果として技術レベルと屋根形態の共通性を生み出す。-風土による規定の第3
住み方ではどうだろうか。埼玉平地農村では整形四間~六間と、床面積の二分の一~三分の一を占める土間の矩形平面が一般的であった。農耕馬は、土間の中ほどにしつらえられた厩で飼われる。財力がなく馬を飼えないものも、本家から馬を借りるために厩は欠かせなかった。朝は馬の飼料づくりに始まり、夕は馬の体を洗って仕事おさめとなる。人馬一体の住み方とそのための空間構成は、馬の重要度、一般的に言えば、生業や生産形式の必要から作り出された結果である。-風土による規定の第4
舞台背景としての風景、舞台に配される家屋敷、舞台でくり広げられる日々の暮し、子どもは体全身で風土に規定された舞台と背景を受け止め、原風景を心象に刻み込む。風土は、変わらずそこにある。すなわち年代をこえて、そこに生きる人々に、原風景は共通となる。村づくりとは、原風景の理解であり、原風景を共有する人々とともに発想することである。
4、むらの空間秩序
国土面積のおよそ80%近くが農山漁村である。一方の市街地に住む人口は、三分の二をはるかに越え、上昇カーブは止まない。総人口の中に占める高齢者率は、農山漁村でより顕著であり、後継者不在をあわせれば、国土の保全は重点課題としてあげられる。分かりやすく言えば、村の優れた風景は、都市民に憩いを送り届けるだけではなく、我々が食する米野菜、肉、魚から水、空気までもが生産される場であり、今その存続が危ういのである。村で暮し、農山漁村空間を守り続ける村人の生活をひっくるめた村の活性化を考えねばならない。近年各地で話題となっている、農山漁村の経済的活性化と都市民が渇望する豊かな自然環境を短絡的につないだ企業資本によるリソート開発は、計算式の組み立て方が間違っていることに気づかれよう。都市の活力をどのように導入するかについては実践論に譲るとして、一般論としての結論を急ごう。
都市民が真に求めているもの、それは、村の原風景のもつ安らぎであろう。村人が真に望んでいるものは、経済も含めた快適な暮しである。雪国であれば、雪との暮しの中で工夫された合掌屋根や、雁木の風景が一つの答であった。風の強いところでは、築地松やシーサーをのせた赤瓦の風景が答として導かれた。それらは風土に向かうなかで蓄積された英知である故に空間の秩序を支配し、村人に共有された技術である故に作法として次代に受け継がれていく。村に固有の文化は、風土の呪力の結果である。
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