よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

歩いて古賀SAに立ち寄り玄界灘を遠望(福岡県古賀市~福津市)

2020-12-07 13:17:26 | ウォーキング

12/5(土) ふくおかウォーキング協会12月の例会は、「歩いて古賀SAに立ち寄り玄界灘を遠望」でした。

集合場所は、JR古賀駅。参加者52名。今回は、チビッ子会員の小学1年生の蒼汰君、蒼汰君の妹、3歳の葵ちゃんも参加しました。

9:30 スタート。

 

  

古賀竟成館(こがきょうせいかん)高校を通り、国道下の歩道用トンネルを通ります。

 

大根川沿いの筵内校区に入ります。筵内は、毎年3月に菜の花祭りが行われ、これに合わせ、JRウォークなどが行われていましたが、今年はコロナの影響で中止されました。

薬師如来像板碑は、昔、筵内に疫病が流行した際に大根川の岸に建てられていたのが洪水で流され、後にそれぞれが現在地に移されたと伝えられています。

  

弘法大師と大根川・・・平安時代、空海(弘法大師)諸国行脚の途中に筵内に寄った時に「南無阿弥陀仏」と唱えながら金剛杖をついた空海が大根川の上流に差し掛かり、

空腹になったので橋の上から水面を眺めていたら、1人の老婆が大根を洗っていたので、分けて欲しいと頼んだが老婆は空海が偉い僧侶と知らず、またみすぼらしい格好だったので、

怒って川の水を掛けた。空海は吃驚したが、もう1度頼んだ。しかし、老婆は顔を真っ赤にして石を投げ、その石が空海の顔に当たって血が流れた。空海は静かに「人面如夜叉」と唱え、

杖を3度地面についた。空海は見た目だけで相手を判断して応対する態度に激怒し、戒めのために大根川の水を干上がらせてた。この逸話から「大根川」という名前がついた。

それからの毎年大根を洗う季節になると筵内では老婆の戒めのために水が表面を流れなくなるという。(ウィキペディアより)

この話は、県内でもみやま市山川町、朝倉市などにもあります。特徴として、それぞれその川を大根川と呼んでいます。このことは、当時の人々がお大師様の偉大な力にすがりたいという

夢や願いが人としての正しい生き方を教える物語として忘れることのないよう語り継がれています。

 

須賀神社の大楠は、樹齢約400年、幹回り4,18m、高さ18m、枝の広がり20mです。

谿雲寺(けいうんじ)が最初の休憩です。

  

休憩の後、再スタート。県道503号線沿いに歩きます。ここから古賀SAまで緩やかな上りが続きます。

途中、入口に石灰を撒いている所がありました。養鶏場かな?鳥インフルの予防でしょうか? 先日も福岡県宗像市で鳥インフルが発生しました。

 

8年前、個人で唐津街道(若松~唐津)を歩きましたが、あのころは、歩道もなく大型トラックが行き交う道路で歩くのが怖かったですが、今は、道幅も歩道も広くなっています。

 

九州道古賀SAに到着。ここで2回目の休憩。SAで玄界灘を見ていると、相島の右奥に小さな島が見えます。てっきり、世界遺産の「沖ノ島?」かなと思いましたが、

沖ノ島は、宗像市大島から約50kmですのでこんなに近くには見えないと思います。というと、この島は、福岡市の最北端の小呂島ではないでしょうか?

 

 

11:05 古賀SAを再スタート。歩いていると左側に「旦ノ原井戸」と「伊東忠平の碑」がありました。

旦ノ原は、糟谷・宗像二郡の境で筵内、薦野(糟谷)、内殿、上西郷(宗像)の四村に跨る丘陵一帯のことをいいます。ここは、唐津街道といって参勤交代の要路でしたが、丘陵にあるため

水がなくて困っていました。この実情を当地に住んでいた「伊東忠平」が大庄屋の石松林平に訴えて井戸を掘ることをお願いした所、これが許され、伊東忠平の屋敷に文久2年(1862)の秋に

井戸を掘り始め、翌三年秋に出来上がりました。以来、住民にも旅客にも便利になり、この井戸の事を「二郡四ヶ村井戸の一つ」と呼ばれるようになりました。

往時は、唐津街道の峠の茶屋として旅人たちの休憩場所だったそうです。

旦ノ原井戸の先が、古賀市・福津市の市境です。飯盛山には、昔、山城があったそうです。

 

 

歩いていると左側に竹で通行止めにしている所がありました。ここが旧唐津街道の難所「ならの木峠」です。峠付近にはみかんが植えられていますので盗難防止の為通行止めになっているのでは?

旧唐津街道は、ここから内殿橋で合流します。

 

 

最後の休憩場所が福間生産者直売所です。

 

12:25 福間駅にゴール!

今日のGPSです。11kmのウォーキングでした。