よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

酒田さんぽ「山居倉庫」(山形県酒田市)

2017-09-06 15:38:17 | 旅行

9/1(金) 山形県遊佐(ゆざ)町で行われる「第25回奥の細道鳥海山ツーデーマーチ」に参加するため、山形県酒田市に行ってきました。

福岡から山形には飛行機の直行便がなく、福岡空港から新潟空港へ行き、新潟から羽越本線で酒田に入るルートです。

    

2年ぐらい前、新潟・長岡に行ったとき初めて食べた「へぎそば」の味が忘れられなく、新潟駅で「へぎそば」をいただきました。

へぎそばとは、新潟県魚沼地方発祥のつなぎに布海苔という海藻を使った蕎麦をヘギといわれる器に盛り付けた切そばです。

    

新潟駅からは、12:33発「いなほ5号」で酒田に向かいました。(ウオーキング大会は、遊佐町で行われますが、ホテルは、酒田に予約していて、また、「山居倉庫」にもいってみたいので)

新潟・山形県境を超えるあたりから、電車は、日本海沿いを走ります。この海岸線を見ようと思ってましたが、いつの間にか眠ってしまいました。

電車は約2時間で酒田駅に到着。酒田駅の裏には、「鳥海山」が見えます。

   

     

酒田市は、 江戸時代、大阪と蝦夷地(現在の北海道)を結び、米やニシンなどを各地に運んだ北前船。酒田では「ベザイ船(べざいせん)」と呼ばれたこの回船は、中継港となった酒田に大きな繁栄をもたらしました。

酒田の湊は、蝦夷や上方に向かう北前船だけでなく、最上川を行き来する川船も多数集まり、大きな賑わいをみせ「西の堺、東の酒田」と言われるほどの賑わいだったといいます。

このように各地との交易が盛んだった酒田。「~さけ(接続詞)」という酒田の方言は、大阪の方言「~やさかい」に由来するといわれるなど、日本各地の言葉が方言として使われており、

方言からも各地との交流の濃さを感じられます。  (酒田市観光案内より)

マンホールにも千石船が描かれていました。

        

酒田で一番行きたかった所は、「山居(さんきょ)倉庫」。

酒田駅から山居倉庫までは、約2km。ホテルでバス路線を聞きましたが、1時間に1本ぐらいしかないそうで、私たちもウオーカーの端くれ。山居倉庫まで歩くことにしました。

山居倉庫は、米どころ庄内のシンボル、山居倉庫は明治26年旧藩主酒井家によって建てられた米保管倉庫です。

米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。

白壁、土蔵づくり9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)。夏の高温防止のために背後に欅並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、

自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として、現在も農業倉庫として使用されています。敷地内には酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」、庄内米歴史資料館が併設されています。(酒田市観光HPより)

※写真家の土門拳さんの土門家は、代々この地で染物業を営んでいました。

   

  

強風や直射日光を避けるために植えられたケヤキ。現在は41本残っているそうです。

  

山居倉庫には、庄内米歴史資料館があります。入場料を払い中に入ります。

  

   

 

  

昭和58年(1983)のNHK朝ドラは、「おしん」でした。

おしんは、少女時代酒田の米問屋「加賀屋」に奉公に上がります。テレビでは、山居倉庫も映っていました。少女時代を演じた小林綾子さんの演技がよかったですね。

  

  

  

小鵜飼舟」・・・・・・・荷物を積んで最上川を上り下りする船には、ひらた船と小鵜飼舟の2種類がありました。どちらも舵は無く、櫂や帆で進み、急流を上る時には網で挽きました。

多く利用されたのは建造費の安かった小鵜飼舟です。3人乗りで、長さが15m、幅が1.7m。一度に30~50俵(2~3t)ものお米を運ぶことができました。

江戸時代には左沢より上流でしか使用できませんでしたが、明治時代になって制限がなくなると、下流でも小鵜飼舟が多く利用されるようになりました。

  

酒田市のゆるキャラは、黒獅子の「もしぇのん」と赤獅子の「あののん」です。

     

山居倉庫から駅に戻ります。途中、「本間家旧本家」という看板を見つけましたのでそちらに向かいます。

本間家旧本家の前で写真を撮っておられる方がいらっしゃいました。どこかで見たことのある方なんですが・・・・・・

埼玉の歩友Iさんの奥様の「お龍さん」でした。(写真左の方に写っています)

本間氏(ほんまし)は佐渡本間氏の分家で、山形県酒田市を中心に農地解放による解体まで日本最大の地主と称された豪商。

「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と謳われるほどの栄華を誇りました。

本間家には、初代・原光(もとみつ) 以来、「弱者救済」、「地域貢献」の精神が受け継がれていました。特に三代目・ 光丘(みつおか)は、千石船(せんごくぶね) による商いを始める一方で、

農業振興のための土地改良や、長年にわたる海沿いの飛砂の害から人々を守るための砂防林の植林に心血を注いでいます。また、藩主のために建てた別荘や庭園には、

本間家の家族ですら立ち入らせなかったことや、庭園の造成は農民の仕事を確保するため行ったものであることなど、控え目で、常に地域の人々のことを考えていた姿が伝えられています。

地域と共に歩み発展に尽くした本間家は、現在でもその業績をたたえられており、酒田市には、松林や寄進した寺社仏閣など、本間家ゆかりの場所が数多く存在します。(山形県HPより)

酒田市には、本間家旧邸の他にも「本間美術館」もあります。残念ながらもう閉店時間を過ぎており、邸内には入ることができませんでした。

  

時間は、6時半を過ぎています。酒田でおいしいものをと探していると、タクシーの運転手の方から、紹介してもらったのが「さわぐち」。

高級料亭とはいきませんが、おいしい料理をリーズナブルな料金で食べさせてくれました。

酒田の地酒「初孫大吟醸」は、辛口でしたが、おいしくてお酒がどんどん進みます。明日は、ウオーキング大会、ある程度セーブしていただきました。

   

明日は、酒田発6時33分の電車でウオーキング会場の遊佐(ゆざ)町に行きます。今夜は早く寝ます。