よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

唐津街道を行く№13(生の松原~今宿)

2010-03-16 12:00:00 | 唐津街道
生の松原を抜けると、右手に博多湾が見えてきます。
この街道の中でも風光明媚なところです。
この岩場は、「長垂の含紅雲母(がんこううんも)ペグマタイト岩脈」と呼ばれ、
主に石英、長石、雲母からなる火成岩で巨晶花崗岩または鬼みかげともいいます。
このペグマタイト岩脈は、リチウム、セシウム、ウランなど珍しい70種類以上の
鉱物が入っています。この為、国の天然記念物に指定され、保全に努めましたが、
戦時中陸軍により採掘され、現在では美しい紫紅色を見ることは困難です。
今日は、大潮なんでしょうか、岩場では、ワカメ、ヒジキ、アサリを獲る人が
いました。

左側にはJR筑肥線が走っています。筑肥線は、姪浜から地下鉄と相互乗り入れ
しています。


街道は、長垂海水浴場に差し掛かりました。
この海水浴場は、私達が子供の頃、水がきれいな海水浴場として、市民の
皆様に愛されましたが、護岸工事などで今は海の家がなくなっています。
街道をそのまま真っ直ぐ行くとガソリンスタンドがあります。
そこから右手に入ると「今宿宿」です。
「今宿宿」は、前原宿から姪浜宿までが遠いということで新しくできた
宿場町です。昔は志摩郡の中心地として栄え、郡役場もおかれていました。
また、ここから海岸部に約1kmぐらい行った所の今山に黒田藩の米蔵があり、
糸島各地から年貢米が集められました。
享保年間(徳川吉宗)には、享保の飢饉がおこり、黒田藩は、この今山の
米蔵を開放しましたが、道には行き倒れなどで亡くなられた方もいたようです。
その犠牲者を祀ったのが「飢え人地蔵堂」です。


宿場の中央部に「二宮神社」があります。
この一帯が今宿宿の中心地でした。造り酒屋、瓦屋さんなどがありました。
今は、何も残っていません。
私事ですが、私の従兄の家もこのお宮のすぐ近くにあります。
昔は、何か商売でもしていたんでしょうか?
従兄といっても歳がかなり離れていて私の親父の2つ下でした。
亡くなる前に聞いておけばよかったかな・・・・




街道のはずれには「桜井道」の道標があります。
よく見てみると、「桜井神社」までの道のりが書いてあるようです。
「大明神・・・・・・」古くて読めません。

街道もここで国道202号線になります。
その国道を100mぐらい行った所に「馬つなぎ石」というのがあります。
糸島の方から物資を運ぶために馬を使っていたんでしょう。
その馬つなぎ石には、今宿のかるた愛好者が今宿の古いところに
カルタをかけて保存しています。


唐津街道を行く№11(姪浜宿)

2010-03-16 09:30:00 | 唐津街道
今日(3月14日)唐津街道「姪浜宿~前原宿」まで約20km歩きました。

唐津街道も今日で5日目、当初の予定では、5日目には、ゴールの唐津城に
到着することにしていましたが、福岡市内に入り、寄り道が多く、予定が大幅に
狂いました。唐津城まであと55km、何とか6日目にはゴールしたいものです。

10時22分、前回ゴール地の地下鉄室見駅到着。

目の前には室見橋、この橋を渡ると私のホームグラウンドの西区です。(私、西区在住)
橋を渡るとすぐ右側に愛宕神社の鳥居が見えてきます。
愛宕神社は、イザナギの尊と天忍穂耳尊(アメノホシホミミ)を祀る鷲尾神社と
火産霊神、イザナミの尊を祀る愛宕神社が明治時代に合併してできました。
お正月には、沢山の参拝客が詰め掛けます。今では日本三大愛宕の一つに
上げられています。本殿はこの階段を登り、愛宕山の山頂にあります。
昔は、ロープウェイがあったそうですが、戦時中鉄製品供出でワイヤーロープなどを
軍に提供し、ロープウェイは、なくなりました。

この愛宕神社をまっすぐ約700mぐらい行くと、姪浜宿に到着します。


姪浜と言う地名は、神功皇后が新羅遠征から帰ってきて最初にこの浜に
上陸されました。その時水の中に落ち、着ていた下着(袙 あこめ)を濡らし
この浜で乾かしたので「あこめの浜」がなまって「姪ノ浜」→「姪浜」に
なりました。
姪浜宿は、海側が漁師の町、丘側が農家になっており、早良炭鉱が
あるころは、人口も多く、路面電車もあり、映画館も数軒ありました。
路面電車の終点には、食堂があり、子供の頃は、ここでうどんを食べるのが
楽しみでもありました。今では食堂跡にマンションが建っています。
街道沿いには私の従兄(歳がかなり離れていますけど)が八百屋を営んでいて
子供の頃、休みの時には、よく遊びに行っていました。
その地も今ではワンルームマンションになっています。



姪浜宿も最近は、街道の見直しがされ、まいづる味噌跡地を会所にし、
皆さんに街道を知ってもらおうと街道を使った町づくりが行われています。
3月27日(土)には、「見て歩き、食べ歩きガイドツアー」が開催されます。


また、姪浜宿で忘れてはならないのがお寺の数です。
調べてみますと11寺ありました。
姪浜宿は福岡城の城下の西のはずれに位置し、藩の有事の節は
お寺が陣営になっていました。
そういえば、東の端、蓮池にもお寺がたくさん会った気がします。

それと、この地には、神話で伊邪那岐尊が禊ぎをしたという
「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」の候補地にもなっているそうです。




姪浜宿を先に進んでいきますと「生の松原」があります。
「生の松原」の地名は神功皇后が松の枝を逆さにさして戦勝を祈ったところ松の枝が根付き生き返った
という逆松の伝説にちなんで名付けられました。

この生の松原には「壱岐神社」があります。

祭神は壱岐直真根子(いきのあたりまねこ)を祀っています。
日本書紀によると武内宿禰(大和朝廷初期に活躍したという伝承上の人物。300歳まで生きたといわれている)
は、都を留守にしている間に反逆の罪を着せられました。壱岐直真根子は武内宿禰を助ける為に
身代わりとなって亡くなりました。やがて無実ということがわかりましたが壱岐直真根子が
自分の命を犠牲にしてまで武内宿禰につくしたことからここに祭神として祀られました。

またこの生の松原には「元寇防塁」があります。



13世紀にアジアからヨーロッパにまたがる巨大な帝国を作り上げたモンゴル(元)は5代目皇帝
フビライのときに日本に使者を送り通交を求めました。
日本がこれに応じなかった為文永11年(1274)10月元3万人の大軍は対馬、壱岐を襲ったあと
博多湾岸の今津、百道(ももち)、博多、箱崎などから上陸し日本軍と激しい戦闘を繰り広げた。
この時、国際交易都市博多の町は焦土と化しました。(文永の役)
鎌倉幕府は、元軍の再襲来に備え建治2年(1276)九州各地の御家人に命じて約半年間で博多湾岸の
東区香椎から西区今津までの約20kmに元寇防塁を築かせた。
この生の松原工区は肥後国が分担し、御家人達は所領田地1町につき1尺の割合で築造しました。
元寇防塁の構造は海側に高さ2.6m前後の石積みを行い陸側では土と砂を突き固めた通路を
設置するものです。
尚、弘安4年(1281)元の大軍は再び日本を攻めましたがこの元寇防塁や九州の御家人を中心とする
鎌倉武士の奮闘により上陸できませんでした。(弘安の役)      


(続く)