そうすけ漫録

そうすけの一日の型録です。

ワーキングプア

2008年02月22日 | わ行

門倉貴史「ワーキングプア」宝島社新書を読んだ。(2006.11.26刊¥756)

34歳まで何の苦労も感じないで生活をしてきた。
実を言えば、このままではダメだなとは感じていた。そのダメを克服する行動(いわゆる努力)をしなかった。ますますダメ路線にのめり込んでいった。ああ、このままじゃダメなんだ。それが楽しいんだ。一体ダメってなんだ。自問自答を他人の言葉を借りて繰り返すばかりだった。

でも、動かなかった。現実から逃げていたのだ。永遠という過去の栄光を信じていたのだろう。身体と自分をとりまく環境は刻一刻と変化していた。
それに気がつかずに、とうとう逃げ切れなくなってしまい、現実と自分と向き合わざる負えなくなる。そうなった時に失職した。

「ワーキングプア」とは、汗水たらして一生懸命働いているのに、いつまでたっても生活保護水準の暮らしから脱却できない人たちのことをさす。日本語の直訳では、「働く貧困層」とも呼ばれる。 P18

「給与がいただけないのでやめることにしました」ある集まりに仕事をやめる報告をした。「たいへんだなぁ」とM君は詠嘆してくれた。その時は、言葉の意味がよくわからなかった。そりゃ、仕事がなければ大変だよな、ぐらいの微変感覚だった。(暗転)

健康であること。それから、体力があること・・・食欲があること・・・なんとかなるっしょ。まあ正月だから酒でも飲んでゆっくりいきましょ、なんてね。ただ酒が呑みたかったんだ本当は。松がとれて、いざ、職探しとなると、んんんなんじゃこりゃぁ~。どうにもならん。健康で、体力があって、食欲があるだけではどこも雇ってくれない。

ピンスポットが舞台に当たる。そこに膝まづき、胸に手を当てている私。
道化が登場する。
「当たり前だよ。あなたは甘い。でぶで、はげで、高卒の汚いおじさんに働いてほしいという会社はないよ。それでもって公務員並みの生活をしようなんていう考えはあま~い」(暗転)

なにもスキルを持たぬ人間が年収300万を得るには強靭な体力と欲望を満たそうとする精神力と高卒程度の知識が必要である。
70年安保以後の学校教育を何も学ば
ずに駆け抜けた少年の末路がここにあった。

自由であること。孤独であること。それが四十六歳の原点なのです。ここから人間の尊厳は保たれるのだろうか?いや、その前に生活はどうなるのだろうか。

中高年で今までの生産活動を通せぬ人間はワーキングプアに陥る。

きれいな言葉はいくらでも並べられる。だが、それが他人事ならば変化はしないだろう。
「私は挑戦しなければならない」なんと他人事だろう。
私に届く言葉があるのならば、それは永遠の嘘とわあきんぐぷあである。

「幸福は人の数ほどある」誰が言ったのだろうか?これは嘘である。
もし、幸せというものがあるのならば、それは共感だろう。
「幸福は最低でも人の数の半分はあるだろう」これが永遠の嘘である。

「上を見たら限がない。下を見たらあとがない」まだ余裕だ。
「上も下も見えない。首が回らない・・・」

借金をして保険を払い込もう。命預けます。

どうして寿命があるのだろうか。苦しみがいつまでつづくのだろう。 

私は職を失ったが、人間の業を失ったわけではない。
苦しんでいる間は、よっゆう。やっるぅ。

お楽しみはこれからだ。
まずは、ワークングプアになりろう!

 


若い

2007年11月24日 | わ行

今日、この日が一番若い。

あなたが与えれば受け取ることができます。

何の条件もなしに与えることを学び、

今日を思いっきり楽しみましょう。


ワーキングプア

2007年10月31日 | わ行

収入が少ないことは生活が苦しいけれど、仕事があるということは社会に自分の命を使っているという充足感がある。だから働きたいのだ。他者の役に立ちたいのだ。

収入が少ないということは苦しいけれど虚しくはない。欲望に振り回されない足もとを確かめられる。自分を成熟させるチャンスである。