yaaさんの宮都研究

考古学を歪曲する戦前回帰の教育思想を拒否し、日本・東アジアの最新の考古学情報・研究・遺跡を紹介。考古学の魅力を伝える。

藤圭子の死

2013-08-22 23:21:01 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 毎週土曜日の朝早く、阿川佐和子のトーク番組「サワコの朝」がある。何気なくスイッチを入れたある日、そこでおしゃべりする阿川佐和子の話術に引き込まれてなんとかく見て以来、癖になってしまって、時々気になるゲストの時は見ることが多い。

 その番組の最初に阿川が求めるのが、「記憶の中で今もきらめく1曲」だ。

 僕だったら何を撰ぶのだろうか。ゲストの会話を聞きながらあれこれ思い描いて楽しむ。候補はもちろん60年代末から70年代初めだ。

 岡林信康「山谷ブルース」、フォーククルセダーズの「帰ってきたヨッパライ」、そして藤圭子の「圭子の夢は夜開く」

 もちろんどれもが学生達とカラオケに行った時に歌う唄なのだが、誰も聞いてはくれない。

 「今日の仕事は辛かった、後は焼酎をあびるだけ・・・」

 「おらは死んじまっただー、おらは死んじまっただー・・・・」

 「昨日マー坊、今日トミー、明日はジョージかケン坊か・・・・」

 何ともバラバラな選曲だ。いずれも19~21歳頃に口ずさみ、何時しか覚えてしまった歌ばかりだ。中でも藤圭子のあのハスキーな声はたまらなく心にしみた。

 それだけに、何とも言えない宇多田ヒカルの「不安定な明るさ」が、藤圭子のハスキーな声とも重なってお気に入りとなった。その宇多田も今は休眠中。そして母の死。ひょっとしたらもうこのまま出てこないのかも・・・。

 青春の原動力がまた一つ消えた。やはり我々も消える時が近づいているのだろう。ま、いいか・・・!


 反戦の時代が終わりつつある。戦争を求めて若者が叫ぶ時、民は無意味に殺され、国は滅びる。こんな時代を余り永くは見たくはないと思う人はこいつをポチッと押して下さいね→こいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ

 ランキングなどどうでもいいのだが、これを利用して大声で戦争を叫び、在留外国人を「殺せ」と叫び、核開発をお国のためだという者がいる。それが人類の道とはとても思えない。ほんの少しでも、それに抵抗する人に火種が残せればと書いてきた。しかし、こうまでショッキングなことが起こると、果たしてその気力がいつまで続くやら。


 

洛陽踏査の旅-3 0812 整備された明堂・方壇・定鼎門・寧人坊探索の条

2013-08-18 08:06:02 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 洛陽到着二日目は定鼎門址、その北西に接する寧人坊址を見学し、午後から明堂と方壇を見学した。



 定鼎門址はこの様に整備されていた。発掘調査開始の時から知っている私としてはとても複雑な思いだった。



 定鼎門の前、城外に進む道の復元整備。さきに見える色の違うところが駱駝などの足跡を屋外展示したコーナー



東門闕の復元。南外郭城壁の上に乗っているだけであることがこれでよくわかる。

 定鼎門址はかつて発掘調査中に訪れ、その復元に付いくつかの案があるとのご説明を受けたその遺構である。
  ① 遺構の位置だけを立体表示する
  ② 遺構を覆い屋で保護し、保護施設は定鼎門風の施設に作る。
  ③ 遺構をすっかり復元する
 こんな案だったかと思う。それで行けば第②案が採用されたようで、西安郊外の陽陵の西門闕がそうであるように遺構をすっぽりと定鼎門風の建物で覆ったものであった。その面構えは古代建築様式の知識を活かして復元したもののようで違和感はないのだが、復元されてみて気付いたのだが、洛陽城の正面の門にしては意外と立体性に欠けるものだな、という印象であった。
 発掘調査時にも感じていたことだが、こうして復元されてみるとさらにその印象を強くしたのが、東西の門闕であった。それなりの規模で付属させられているのだが、定鼎門の左右に延びる外郭城に平行に付設されているため、前後への迫力がないのである。漢魏洛陽城の昌闓門ですら前面の道路にこれらを突き出しているのに、ここではそれがないのである。

 そんな印象を持ちながら、内部の保護区に入った。なかなかよくできた展示施設で、発掘調査時の写真はもちろん、様々な比較資料や出土遺物の解説が所狭しとパネル紹介されていた。特に圧巻だったのは3本ある門道の中央門道、これは皇帝が通る門道だが、これを通行できるようにしているところだ。なかなか粋な計らいでもある。

 さらにもう一つ、門は楼閣のように重槨構造になっており、その2階部分から京内や京外が見渡せるのであるが、城外を見ると門道から延びる「道路跡」が色彩の違う石版で表示してあり、さらにその途中に、発掘調査でも見学した道路下に残され得た駱駝や人の足跡、轍が現地表示されているのだ。こうした細部にわたる遺構の表示は考古学者の提案無くしてあり得ないだろう。今は現場を離れられた調査担当者の思いの伝わる復元であった。

 この後見学した遺跡復元施設の展示でも言えることだが、考古学関係者の深く関わっている公開施設の展示はとてもよく工夫されているのだが、博物館になるとからきし駄目なのである。これはおそらく、考古学関係者が世界各国、特に日本との交流が深く、全国各地の遺跡復元をご覧になって参考にされているからではないかと推察するのである。現に、現場を案内下さった方々とは旧知の仲なのである。

 敢えて意見を言わせてもらうとすると、「遺物の展示」であろうか。門跡に遺物が少ないのは当然である。しかし、現場を訪れた時に見せてもらった大量の塼雅あるはずなのである。様々なマークが刻印されていて、これを研究した研究者は塼の製作と関係しているのではないかと考えておられた。残念なことに研究者が担当を離れられたので、その研究が活かされなかったのかも知れないが、「物」の少ない施設だけに、その展示コーナーがあってもよかったと思う。

 定鼎門址の復元施設に感激しながら次の現場、定鼎門を入って直ぐ西側の寧人坊の現場を見学した。



これは洛陽城内から南へ延びてき、定鼎門に至る大街の現状である。この右手・西側が洛陽城南端大街に接した町、の寧人坊である。

 これまた宮都発掘関係者にはたまらない内容の濃い現場であった。まだ発掘調査が始まったばかりなので、詳しい内容をご紹介できないのが残念だが、いずれ全面調査がなされ、報告書が出れば、間違いなく日本の都城制との比較研究に欠かせない資料となるだろう。これまでの中国の都城のイメージを一新する衝撃的な現場であった。やはり掘ってみるものだな!!というのが強い強い印象であった。

 文献史料だけでは都城は語れない!!文献史料にだけ頼っているととんでもない誤解をすることがあるのだと実感できた現場であった。

 とても強い感想を覚えた後、市内に戻り、明堂と方壇、応天門址の復元施設や発掘現場を見た。これまた様々な感慨を与えてくれた現場なので、別に日を改めて紹介することにする。


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 最も発掘調査の成果をどこまで日本の研究者、発掘担当者が活かそうとしているのかについてはこれまた新たな考えが浮かんできた一日でもあった。




洛陽踏査の旅―2 0811洛陽博物館見学の条 

2013-08-17 21:25:20 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 この日は最初に、東晋時代の王城の城壁の残骸を見学した。ガソリンスタンドの裏の私有地にほんの少しだけ残った城壁である。洛陽にとっては東晋の都こそが洛陽が都として用いられる最初だというのに随分扱いがでたらめである。もちろん洛陽郊外には中国最初の王朝・夏の王都ではないかという二里頭遺跡があり、そちらの方が大事なのかも知れないが、今日の市の中心に残る王城跡である。これは余りに可愛そう。


 東晋の王城の全体像はほとんど判っていないだけに残念でならない。隋唐や漢魏の洛陽城の保護・保存はそれなりに進んでいるのだが、現在の市街地の遺跡はズタズタである。

 



 次いで道路工事中に見つかったという「水利施設」を見学した。隋唐のものだというが機能はよくわかっていないらしい。

 

 


 洛陽城外、南西にある遺跡なのだが、この様に「城外」といえども様々な遺跡が残る洛陽。ところが、城外は開発し放題の状況で、ほとんど大規模なビル街へと化している。かつての穏やかな田園風景はどこにもない。

 悲しい思いを抱きながら、洛陽博物館へ向かった。

 
 

 巨大な博物館が洛陽城の南西、定鼎門の北西にできていた。
 その面構えはまるで大明宮含元殿みたいなものである。どうせなら洛陽に関係するものにすればいいのに・・・。
こんな思いを抱きながら中へ。

 

 巨大な展示スペースはゆったりとしており、とても近代的なのだが、展示方法は相変わらずの「一級品の羅列」どうしてこうも金太郎飴のような展示ばかりできるものだと、逆に感心する。中国には博物館学芸員課程というのはないのだろうか。専門の学芸員がいるとはとても思えない、工夫に欠ける単純な遺物の展示である。










 実は中国に来て毎回思うことなのだが、こうした博物館施設に子供を連れた若いお父さん、お母さんの姿をよく見るのだ。一生懸命説明している光景も珍しくはない。日本ではほとんど見ることのできなくなった光景である。それだけに学芸員の仕事が欲しいと思うのだが・・・。
 
 洛陽博物館を後にして、午後からは古墓博物館に出かけた。ここはもう4回目の見学である。但しその背後に巨大な壁画館が完成していた。直ぐ横にある景陵も含めて見学した。

 



壁画博物館の展示は洛陽博物館とは対照的に、生のいい資料を見せながら、特別展を開催して壁画の題材毎の解説や壁画を作る道具なども展示しており、それなりに工夫のされた展示となっていた。





私は壁画を見る時、基本的に、衣服や履き物、持ち物、建物などを中止に見ます。ここでも、靴や蓋がよくわかります。













予想外の資料との出会いにすっかり満足し博物館を後にし、直ぐ西隣の景陵に向かった。北魏の第8代皇帝・宣武帝(せんぶてい)の墓である。














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素人がサッカーに一言の条

2013-08-14 23:36:12 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 今夜、サッカーの親善試合があったらしい。この前のブラジルでの試合とまるで同じ。大量失点の試合だったようだ。日本にいてテレビを見てカリカリ来なくてよかった。

 これだけ同じことを繰り返すのは選手も監督も、組織も頭が悪い!と言われても仕方ないかも。

 少し前、ある番組のスポーツコーナーで野村克也がサッカーの著名な解説者の質問に答えていったのがとても印象的だった。

 某氏「サッカーにアドバイスを!」

 野村「サッカーにわしは何にも興味がないね。サッカーって頭使うの?」
 
 某氏「えっ?!」(絶句)

 野村氏「足でやる競技に頭なんかいるの?」

 某氏「絶句」


私もそのとおりだと思う。サッカーに頭はいらないらしい。戦術だの守りのフォーメーションだの言うんだけれど、とてもそれを選手が頭と身体で覚えているとは思えないのである。

 この間の日本チームのあの大量失点を見ていると、同じシーンで、同じように点を採られる。要するにフォーメーションは頭に入っているかも知れないが、その応用が利かないのではないだろうか。数学に応用問題があるようにサッカーにだってそれがあってもいいはずだ。今夜の試合は見ていないのでよくわからないが、DFが攻撃に行き過ぎなんじゃないかしら。野球も守りが第一と言われるように、まず守りをしっかり固めないとね。DFは総替えだよね。


 でもそんなこととは別にどうでもいいこと。サッカーの素人のつぶやき。今夜はとても楽しかった。社会科学院の皆さんとの楽しい宴であった。研究という戦いを共有する者は同じなのかもと思っていまった。

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洛陽踏査の旅-1 猛暑の上海・鄭州を経て洛陽にの条

2013-08-11 02:10:40 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 朝四時に起き、というよりほとんど寝ないでそのまま京都駅に送ってもらい、始発のはるかに乗って関空へ。九時の飛行機が少し早く出発とかでバタバタと機内へ。

 上海の国際空港甫東空港に着いたのが現地時間の10時半(時差1時間だから約二時間半の飛行)。ここで福岡から飛んできた仲間と待ち合わせ。ところがいない。ふと考えると上海にはターミナルが二つある。電話すると案の定。

 とりあえず換金しろと言うのでしてみてまたまた腹が立った。去年は1万円で770元手に入ったのに、あのおぞましい安倍のせいで、ナナナント570元。何が円安誘導じゃ!!ささやかな庶民の海外旅行の楽しみも奪う悪政。何時か権力を奪取したら一番に黒田と安倍を並べて○×□△?等と威勢のいいことを思っても叶わぬ夢。200元の差は大きい。その上上海の物価の高いこと。空港でラーメン食べたら一人1000円!!日本と変わらんじゃん。

 甫東空港から地下鉄に乗って国内線の紅橋空港へ。紅橋へは地下鉄2号線に乗って広蘭路駅で乗り換え。すぐ前に電車が来るからここで紅橋空港まで乗る。但し、なぜか一つ手前の駅で電車が止まり、全員降りることに。その後紅橋空港よりさらに先へ行く電車が来てそれに乗り換えるというハプニング?







本当ならここから洛陽に直行するはずが、客が少ないからか?!キャンセルに、やむなく鄭州に。お腹がすいたので空港内で食事に。これがバカ高。




これだけで1000円!!今や中国は日本並み。

上海から鄭州へ飛んでそこから車で3時間、洛陽をめざす。鄭州の空港で夕食。ところがこれまた高い!!小さな缶ビールでささやかな乾杯。おつまみも少しで、仲間が持ってきた日本のポテチをつまむ惨めさ。

 実はバタバタと出発したのでお金を下ろすのを忘れていた。空港で何とかなるわ、と思っていたら、九時までは他行のカードが使えない。飛行機は9時に出る!アカン!!あちこち探しまくって、少しだけお金のあるカードからやっと6万円を引き出して出国へ。きっと中国では仲間から借金生活。アー情けない。これも出発まで原稿やら採点やら、病院やらでじっくり準備ができなかったせい(とは言ってもいつもこんな調子ではあるが(笑))。

 昨夜の睡眠不足で車中はほとんど寝ていたものの、車の冷房がきつくて、頭が痛い。バファリンを飲みたいがお金もないから水が買えない。アーこの先どうなることやら。

 車で揺られ揺られ、やっと23時に洛陽に着いた。しかし暗闇に浮かぶ洛陽の町はどうも不気味。以前と様変わり、街路灯の燦然と輝き、高層ビルが林立する。どこにでもある地方都市に変貌。なんで為政者というのは金太郎飴のような町ばかり作りたがるのか?判らん!!明日朝、明るくなってから見る洛陽の町が怖い。

 奈良の趣を残した宮都の面影はどこにもない予感がする。超高層ビルの建設で遺跡は破壊され、「保護」という名の講演開発によって、こぎれいにされた遺跡はきっと壊滅しているのでは・・・。
 
 というわけでホテルに入り、お湯を沸かし、コーヒーを作ってホッとしたところ。目覚めて窓外に広がる洛陽の朝が怖い!!明日は洛陽の正面門、定鼎門の見学から始まる。5年前には発掘中の現場を案内頂きそこに使用されている塼に遺された様々な目印に小躍りした現場だ。とんでもないものに生まれ変わっているという噂が怖い。

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森浩一先生が亡くなられての条

2013-08-10 01:00:47 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 森浩一先生がお亡くなりになったという報せが昨日の夕方友人から届いた。お亡くなりになったのは8月6日だったそうだ。85歳だったという。

 私が初めて森先生とお会いしたいきさつは2005年7月21日のこのブログの記事に詳しい

 1990年頃の春だったように思う。毎週水曜日に開かれている同志社大学の研究会で私に長岡京のことをしゃべれというご依頼?で新町の同志社大学の研究室に伺ったのがはじめである。恥ずかしながら同志社大学の校内に入ったのは浪人の頃以来のことで、もちろん考古学研究室は初めてだった。

たしか、条坊制のことを話したような気がする。先生の目的の半分は、その後の宴会で私にお誘い頂いた原稿の執筆依頼にあったらしい。

『日本の古代遺跡 京都Ⅱ』(保育舎1992年)への原稿の執筆だった。もちろん私の分担は『長岡京』。昨年亡くなった久保哲正さんも恭仁京辺りのことだったかを分担されると言うことで確かその場におられたような気がする。

 締め切りはそんなに遅くはなかった。直ぐに書かないと間に合いそうもなかった。でも、長岡京のことなら何とでもなるわ!と高をくくっていた。するとある時再招集がかかり、現状の報告を求められた。私は何とか書き始めていたので合格だったのだが、多くの方がまだ手つかずだった。すると、「もう仕方がない。君ら二人で書け!!」と、あいなった。もう一人が山田邦和博士である。以来20余年、山田博士とは刎頸の友となった。

 これをきっかけにして森先生から次々と原稿の依頼が来た。その6年後には、論文の数はあっという間に増えた。特に査読誌である『古代文化』には連続して3本ほど書かせてもらった。先生の編集なさった本にもその一部を書かせてもらった。今数えてみると、単行本(山田博士との共著)1冊、論文8本、先生の編集なさった書籍への執筆5冊。いずれもその後、博士号を取る時に核をなした論文ばかりである。

 もし森先生との出会いがなかったなら、私は今のところにはいなかったに違いない。まさしく人生の恩人である。

 でもある時ショッキングな話を聞かされたことがある。

 某有名な旧帝大系の先生とお話ししている時である。

 「山中君、君はいつから森派になったんや?」一瞬耳を疑った。

 「ハ?」(森派とはどういう意味なんや?)
 
 「この頃森浩一の編集する本によう書いているやないか?!」

 「ハ、ハイ・・・・」

以後会話は続かなかった。そしてその大先生から二度と原稿のお誘いはなかった。

私は、言ってみれば一匹狼である。広島大学を卒業はしているが、それは履歴上のことであって、実際に考古学を身につけたのは「高橋学校」においてであった。

 かつて京都府教育委員会の技師をなさっていた故高橋美久二さんの門下生である。考古学、地理学、文献史学を一からたたき込んで頂いた。だから私に「派閥」などあるはずがない。

 森先生にはおそらく認めて下さって、「原稿を書け!」と仰って下さったのだと思う。言うまでもなく、私は同志社大学出身でもないし、友人にそういう者がいたわけではない(もちろん今は山田博士と朧谷先生という偉大なお二人の同志社人とお付き合いさせて頂いているが)。

 それこそ学閥など無縁だから、機会さえ頂ければ次々と書かせて頂いただけなのである。それなのに・・・。学閥というのは恐ろしい!!痛感した瞬間だった。

 その後も様々な場面で森先生にはご援助頂いた。最後にお会いしたのは2010年111月13日(土)だった。その頃は既に腎臓がお悪くて、透析の合間を縫ってのご講演であった。

 第19回壬申の乱ウオークを午前中に実施して、その午後からのご講演であった。

 第3回久留倍講演会、「聖武天皇と万葉歌人と伊勢」というテーマで、前座を私が務め、最初に奈良文化財研究所の馬場さんにお話を伺い、その後森先生から「伊勢国雑考」と題して伊勢にまつわる万葉集のお話しを幅広い世界からの引用で進めて頂いた。会場に集まった300人の聴衆は「森節」に魅了された。

 終演後のアンケートには是非もう一度!!と書かれていた。

 あの壮大な世界観をもう一度お伺いすることができなくなって、本当に寂しい。

 心からご冥福をお祈りしたい。ありがとうございました。

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もうすぐ京都始発のはるかに乗って関空に向かい上海経由洛陽である。元気があれば洛陽・殷墟・鄴城便りをお送りしたい。

2013年の8月6日ヒロシマの条

2013-08-07 02:51:51 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 虚しかった。

 広島市長のヒロシマ宣言が、今福島で起こっているとんでもない事態に触れることもなく、被爆者の差別を今頃になって持ち出す姑息さ。核兵器が「絶対悪」なら、その原料を産み出す原発もまた同じ「絶対悪」!!しかし、それは目の前にいる安倍に遠慮して言わない。この茶番。これほど醜い、姑息な「ヒロシマ宣言」なんて聞いたこともない。「広島市長のつぶやき」とでもすべきだろう。これが世界に発信されるなんて、馬鹿げてる。

 そしてこの後に続いた安倍晋三の談話?挨拶?

 広島市長の「宣言」の一部をもらったかのような被爆者援護の表明?君たち自民党が被爆者援護をずっとずっと遅らせてきたのじゃないの。ようもぬけぬけと差別に苦しんだ被爆者に同情するかのごとき虚しい文言の羅列。そして、実現する気などこれっぽっちもない2020年核兵器廃絶という言葉の軽さ。だって核兵器の原材料となるプルトニウムを産み出し続ける原発を廃止する気など全くないのだもの。

 それにしてもこんな男に、軽い軽い言葉にどうして日本国民は騙されるのか。

 もっともこんな茶番はオリバーストーンさんが既に予告していたこと。「どうせ明日皆さんは口を揃えて「核兵器廃絶」を唱えるのだろうが・・・」と。皮肉はずばり的中。

 しかし、国民の関心は「経済」。金儲け!!核兵器も原発も無関心。

 かつて井上陽水は

 「都会では自殺する若者が増えている。今朝来た新聞の片隅に書いていた。だけども問題は今日の雨、傘がない」

と歌った。しかし今の国民は「福島第二原発で放射能漏れが増えている。だけども問題は今日の株、円高」政治には関心がないが、唯一関心があるのは「金」。

 「ヒットラーの手口をまねろ!!」と堂々と右翼の集会で発言した副総理兼財務大臣を、どの新聞も全面批判しない。誰も辞任要求しない。任命権者の安倍の責任を問わない。それどころか、朝日に至っては「また失言」とまるで軽口のごとく捉えて窘めるだけ。ある読売テレビの番組のコメンテーターに至っては「発言は悪いが、麻生さんはいい人だ。」と個人の性格にすり替える。

 アメリカやドイツが批判すると少し問題にするが、自ら批判の口火を切ることはない。

 既に麻生が言わなくても、今の日本はかつてのナチス台頭の時と同じ状況になっている。「金」のためなら少々の「軽口」はいいという考えらしい。こうして気がついてみたら軍隊ができ、集団的自衛権を認めて「自衛のためだ」と言っていつでも戦争に出向くことができるようにする。戦前の録画を見ているような今日この頃。

 
 とてもとても悲しい今年の8月6日であった。同感!とおもう人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ




京都96条の会発足!

2013-07-20 20:59:16 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都

                                     チョン・インキョン


これまで憲法といえば、9条についてはいろいろな議論があったようだけど、ここのところ話題になっている96条ってなんだろう?そんな疑問をもっていませんか?あるいは、そもそも憲法ってどうして必要なのでしょうか?日本の憲法は、基本的人権・国民主権・平和主義が三大原理だということは、どこかでぼんやり記憶はしているけど、それってなに?わたしたちの暮らしとどう関係しているのでしょうか?

京都は日本の古都であると同時に、多くの自然と産業にもめぐまれ、たくさんの大学があり、各地・各国の人びとが集う都市であり、京都人として多くの外国人が暮らす町です。

わたしたちは、日本国憲法は〈わたしたち〉日本国民だけのものではなく、日本国憲法をうんだ国際社会の人びとと共有し、ともに育んでいくものだと考えています。日本国憲法を一緒に考えるなかで、京都人の知恵や国際的な意識が反映された、〈わたしたち〉の憲法への想いを一緒に語りあってみませんか?

そうした思いを実現するために、京都でも「京都96条の会」を結成しようと考えています。


第ゼロ回 「京都96条の会」立ち上がりシンポ
とき 8月6日(火曜) 18: 30- 20:30
会場 京都市中京区東洞院通六角下る 
京都市男女共同参画センター・ウィングス京都 イベントホール 定員(200人):駐車場はございません

・講師 中里見博(徳島大学教員)
 タイトル「憲法・原発・非暴力」
・シンポジスト  アンヌ・ゴノン(同志社大学教員)
岡野八代(同志社大学教員)
         島岡まな(大阪大学教員)
・参加者との意見交換――今後の京都96条の会
・司会 隅井孝雄(京都ノートルダム女子大学客員教授)

参加費 500円
連絡先 TEL: 075-213-2451 (隅井)/ e-mail: kyoto96ac@gmail.com

「立ち上げ」ではなく「立ち上がり」なのは、本シンポジウムにて、参加者との意見交換を経たのち、「京都96条の会」をどのような形にしていくのかを決めていく準備の会だからです。

昔私は「殺すな!!」と叫んでデモ行進したことがありますが、・・・の条

2013-06-19 11:09:43 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 どうして「殺せ!!」と大声で叫ぶ集団行動が許されるのでしょうか?

 これは殺人教唆、扇動ではないのでしょうか。これも言論の自由だとしたら、何を言ってもいいことになるのですが,本当にこんな事でいいのですか。

 知人から届いたアピールです。転載可能と言うことなので、できるだけ多くの人に広めて下さい。
 


6月15~16日、神戸で開催された「第9回移住労働者と連帯する全国フォーラム・神戸」が採択した標記アピールをお届けします。



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ヘイトスピーチの廃絶を求めるアピール



私 たちは多民族・多文化の人びとが互いの違いを大切にし合い、多様性による豊かさが育まれる社会をめざして、「第9回移住労働者と連帯する全国フォーラム・神戸」に集いました。しかし現在日本の各地で は、そうした理念に真っ向から反した、特定の民族・国籍の人びとに対する憎悪をあおり立てる、聞くに堪えない過激な言動が街頭で公然と行 われ、激しさを増しており、深い憂慮と憤りを感じます。

日 本では1980年代以降の移住者人口の増大と、1990年代に始まった「外国人犯罪」キャンペーンの影響などから、外国籍者や外国にルー ツをもつ人々に対するゼノフォビア(外国人嫌悪)が広がり始めました。また反中国を公言する石原前東京都知事のいわゆる「三国人発言」 が、国内外から違法性を指摘されていたにも関わらず、結果的に放置されたため、公然とヘイトスピーチ(憎悪・差別表現)を行う人々が一般 社会でも増え始めました。2000年代以降の近隣諸国との歴史認識問題をめぐる軋 轢の中で、歴史修正主義と嫌韓反中意識が広がり、外国人排斥を主目的とする極右団体も誕生しました。そして2010年代にはついに、在日コリアンが多く住み、店舗を出す地域で「大虐殺を実行する」 「朝鮮人を駆除せよ」「よい韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」といった敵意や憎悪に満ちた街宣活動が、白昼堂々繰り返されるようになり ました。

私 たちは日本を、人びとの心を深く傷つけ、生存の脅威を感じさせる暴言やジェノサイド(集団虐殺)、エスノサイド(民族抹殺)の公言を放置 するような社会にしたくはありません。特定の民族集団を「殺せ、殺せ」と叫ぶ街宣活動が拡大していく社会は、国際社会からも孤立し、危険 視されていきます。

私 たちは、敵意や憎悪が広がる事態を速やかになくすべく、思いを同じくする人たちと幅広く連携・協力し、以下の課題に取り組んでいくことを 表明します。



(1) 特定の民族、国籍、社会的身分 に属する人びとに対する敵意を煽り、殺害や排除を予告・助長するような暴言・脅迫・威嚇を行うヘイトスピーチは、許されない人権侵害であ るという決議を、国会で採択させること。

(2) 日本が批准している人種差別撤 廃条約の留保条項を撤回し、国会においてヘイトスピーチの廃絶と被害者救済を含む人種差別撤廃の法制度を早急につくらせ、実施させるこ と。

(3) 人種的優越や憎悪に基づく思想 の流布、人種差別の扇動を行うような政治家を議会に送り込まないこと。



2013年6月16日



       第9回移住労働者と連帯する全国フォーラム・神戸2013参加者一同


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久しぶりの野球ぼやきの条

2013-06-13 23:23:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 私の原辰徳嫌いはこの場で何度も書いているのでそれなりに知られているらしい。年賀状で河野美代子さんの便りに「面白い!」と書いて下さっていた。もちろん河野さんはバリバリのカープファンである。

 4月頃にはこのまま巨人が勝ち続ける、と到底今年の「原解任!」はないな、と内心イライラしていたのである。

 ところが、交流戦前からあの原以上に無能な和田に率いられている阪神にバカにされて、肉薄され、とうとう首位を陥落してしまったのである。

 「オッ、これはひょっとすると・・・さすがのナベ恒も、自分の寿命と天秤にかけて、「もう待てない!」と、本気で監督を捜すかもしれんな!」と思えてきたのである。

 どこがいけないか?て。もちろん全て悪いのだが、一番ダメなところは、相変わらず子飼いばかりを優遇し、全体像を見られない能力のなさである。さすがにどうしようもない太田は我慢に我慢をして、二軍へ落としたが、その代わりに上げてきたのが亀井だの、立岡だの、中井。もちろんプロの選手なんだから、時々活躍することは言うまでもない。しかし、そのどれを取ってもきちんとしたチーム作りの設計図に基づいた起用とは思えないのである。

 この人、今の選手でどんなチームを作ろうとしているのだろうか。

 どう見ても場当たり的。
 典型的なのが一二番。坂本・脇谷だったと思えば、長野・寺内、最近は立岡・松本や中井・松本かと思うと、中井・亀井。もうさっぱり意図が見えないのである。そしてちょっと調子が悪いと直ぐ代える。

 交流戦に入ってDHが使えるから小笠原を上げたのかと思えば、たまに代打でしか使わず、代打のプロである石井をDHにするなど。ほとんど適当。せっかく小笠原がサヨナラホームランを打ったのにその明くる日も代打。次の日にタイムリーを打っても代打。要するに人気のある小笠原が原は嫌いなのである。だからといってあまり干すと批判が来るから、時々使う振りをするのである。彼は自分より実力が上の奴が嫌いなのである(もっともほとんどが上なのだが)。

 そういえばこの原と対照的なのが栗山。先日の小笠原がサヨナラホームランを打った時、なぜ栗山は敬遠しなかったのか。その翌日、ツーアウト二塁で坂本を敬遠し、なぜ阿部と勝負したのか。
 私の解釈はこうだ。

 小笠原との勝負は小笠原に「腐るなよ!!」という彼らからの贈り物だったのである。そしてなぜ翌日打たれると判っていて阿部と勝負したのか。「小笠原よ、昨日はお前を軽んじて勝負したのではないぞ。」と伝えたかったのである。
 小笠原に、「日本ハムはおまえのことを待っているゾ!!来年は、こんなくだらないチームで腐らずに戻って来いよ!」というサインだったのである。

 そもそも、小笠原が代打で出てきたのは同点の9回裏2・3塁。普通当然敬遠されるから、小笠原は捨て駒だったのである。こんな場面で勝負する奴はいるはずがないから、彼はヒーローにならない。だからまず彼を捨てて、次の石井にヒーローになってもらおう。こういう魂胆だったのである。そこを栗山が読んで勝負してやったのである。どうせ打たれるなら彼が一番ほしがっている小笠原に打たせてやろうという親心だったのである。
 そして、翌日、なぜ阿部と勝負したか。小笠原に、「おんまえは阿部と同じくらい大事な選手と思っているゾ」というサインだったのである。

 ま、そろそろ交流戦も終わる。このへ墓監督の采配で本戦を戦っていたなら、とっくの昔に阪神が首位だったはずなのだが、交流戦のお蔭で、やっと今頃になって巨人の首位陥落。

 来週から?始まる本戦で、ドンドン奈落の底に落ちていけば、夏の終わりには「原後任」が話題になるのでは、とそれなりに本気で期待する今日この頃である。

 老後の数少ない楽しみをイライラして迎えるよりも一刻も早くこのイライラを消してくれるよう新監督を祈るばかりである。

 それにしても今の新聞テレビは、政府のイヌと化していますね。株価がドンドン上がっている時は「素晴らしいアベノミクス!」とはやし立て、まるでバラ色の未来が急に開けてきたかのごとく書き立てる。しかし、株価が暴落しても「利益確保の調整段階だから」と擁護に走り、国民の貴重な預貯金を株に走らせて企業を大もうけさせる事にばかり腐心する。大体この間の事態をみていれば判るのだが、株や円相場なんて、ほとんど日本経済の実態を表していない。アメリカを初めとする巨大投資集団の都合やアメリカの経済事情でころころ変わるのである。もし日本経済に実態があれば日々刻々とこれだけ変化することなど無いのである。

 成長戦略の三本の矢だという絵に描いた餅を賛美し、10年後20年後の何の根拠もない「絵」を持ち上げる。さらにさらに、原発推進国フランスと結託し、危険きわまりない原発の輸出推進を図るという。選挙後には停止している原発を「安全だから」と言って再稼働させ、核兵器生産の材料確保と準備にかかる。政権与党内部では公然と「原発は核武装のために不可欠」と言ってはばからない連中がうようよしているのである。本当にこんな事でいいのだろうか。 

 挙げ句の果ては、憲法改正の補助機関として不可欠な「維新」を壊滅させないために(維新が減って、他の野党が増えると改憲スケジュールが狂うので)、橋下批判が広がらないよう援助する。さらにさらに己の差別発言の矛先をずらすために打ち出した「オスプレー八尾空港受け入れ」。どうしてどうしてこんな見え見えの権力者集団に国民の「支持」が集まるのか。本当に冷静に分析し、対策を取らないととんでもない国ができる。


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宇治十帖の世界を歩くの条

2013-06-09 23:26:04 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 土曜日は京都の私立大学の授業の一環で宇治川左岸一帯を歩いた。
 
 コースは菟道雅郎子墓→宇治橋→橋寺放生院→宇治(下)神社→宇治上神社→源氏物語ミュージアム→京阪宇治駅という短いコースであった。

 久しぶりに歩くこの辺り一帯は随分「きれい」になって、あまりに観光地化しすぎてかつての趣が無く、少々興ざめであった。なぜどこもかしこも同じようなカラーアスファルトのこざっぱりした道に変えてしまうのですかね。

 京阪宇治駅も見違えるように美しくなって、電車も中書島との間を10分おきに往復する便利さであった。

 駅構内にはとても親切な文化財マップがあり、人々の行きやすいように解説されていた。源氏物語ミュージアムは駅から北東に歩いて15分くらいの直ぐのところにある。



 そのくせ肝心の橋寺は石碑が施錠されて見ることができないし、そもそも十分な説明板もない。訪れる人もまばらであった。この奥の祠の中に碑があるのだが・・・。





 宇治川沿いに15分ほど歩くと川沿いに鳥居が立ち、その奥に拝殿が見える。宇治神社(下神社)である。





 宇治神社の直ぐ奥が宇治上神社である。世界遺産に入っているそうだ。



 国宝の本殿覆屋。檜皮葺きが見事である。


 本殿



 重要文化財の春日社



 本殿正面の拝殿は檜皮葺き屋根の修復中で見学できなかった。これは源氏物語ミュージアムに掲示されていた修理前の拝殿。



 この後、源氏物語ミュージアムへ向かった。入館料500円。さてその価値は?

 

 その内部の常設展示の一角。
 ほとんどがジオラマや復元品であった。復元には随分お金がかかっているな-と感じた。


 光源氏の六条院邸宅の復元模型。そのモデルは源融の河原院との説がある。その一部の調査もあるのだから平安京での位置など示した図が欲しいところだが・・・。



 牛車の原寸大復元。その根拠やどの様な場面で歴史的に使われたのかなど説明があってもいいように思うのだが・・・。


 7月7日までの予定で企画展も開催されていた。京都名所図会を用いて源氏物語縁の地の江戸時代の様子を示した展示である。なぜか古代の情報が示されていないのは、展示の学芸員が歴史の方ではないからだろうか。少し物足りない展示であった。

 さて、初めての源氏物語ミュージアムなのだが、少々期待はずれであった。これまで何度も訪れようとして果たせず、念願の訪問であっただけに残念な印象であった。映像やジオラマなど視覚に訴えるという点ではよくできているのかもしれないが、私のような歴史をやるものからすると何とも中途半端な印象を受けた。たとえ文学のミュージアムであるとしても、古典を主題にした博物館である。周辺には関連する遺跡や古社寺が点在している。それらを活かした展示ができなかったのか、考えさせられた訪問であった。

 
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吉田晶先生を偲ぶ会の条

2013-06-02 17:05:53 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 昨日は今年の1月15日にお亡くなりになった日本古代史の吉田晶先生を偲ぶ会であった。

 縁の深い難波宮の一角にある大阪歴史博物館のレストランで行われた。

 

 吉田先生は1925年、兵庫県のお生まれだという。お亡くなりになったtきが87歳。会に集まられた皆さんのお話によると、その直前の年末に開かれた都城制研究会にお出になっておられ、とてもお元気だったという。ところが、1月13日に体調を崩されていたという奥様が亡くなられ、そのわずか二日後の死だったという。

 先生は陸軍士官学校を出られた職業軍人であった。ところが、1945年8月15日をもって大きく変わった体制の中で京都大学文学部に入られ、史学科で日本古代史を学ばれたという。



会場に張り出された在りし日の吉田先生。



 出席者のほとんどは私にとっては大先輩の先生方ばかりであった。会を準備下さったのが帝塚山学院大学名誉教授の中尾芳治先生、大阪大学名誉教授の都出比呂志先生、奈良大学元学長の水野正好先生等々、そうそうたるメンバーであった。

 会場には大阪歴史博物館の館長をなさっている脇田修先生もお出でになり、ご挨拶をなさったが、その合間に先生と親しくお話しさせていただくと、何でも吉田先生とは大学院の同級生だったという。戦後直ぐの京都大学はたくさんの復員兵で溢れており、故門脇禎二先生のそのお一人で、「門脇はなー、二等兵やったんや!苦労したらしいわ」等とその頃の大学の雰囲気を懐かしそうにお話し下さった。そういえば、長岡京研究の創始者中山修一先生も門脇先生と10歳違いの同級生だったとか。戦時中の暗黒の世界から解き放たれた当時の大学の自由な雰囲気が伝わってくる話でもあった。

 吉田先生は『日本古代社会構成史論』(塙書房1968年)や『日本古代国家成立史論』(東京大学出版会1973年)などで知られる日本の古代国家成立に関するきっての理論家であった。それと合わせて1975年には難波宮跡の保存運動の先頭に立たれるなど、様々な遺跡の保存運動の先頭に立ってこられた方でもあった。

 そんな吉田先生との接点など私にあろうはずがなかったのだが、25年ほど前に泉佐野市であった製塩に関するシンポジウムで、講演をなさった折、資料の読みに関するわすかな解釈の違いについて会場から質問をしたことがある。すると、どうであろうか、会が終わって直ぐに私のところまでお出でになって、「あなたの言う通りです。私が間違っていました」と仰る。田舎の埋文センターの若造の些細な史料の解釈である。無視することなど簡単なことなのである。私の方こそ恐縮してしまって言葉も出なかったのを覚えている。その後都城制研究会や木簡学会などでお顔を合わせる度に声をかけて下さって、とても優しく接して下さった。私が三重に行ってから、調査していた鈴鹿関の成果が上がり、案内を差し上げるとわざわざ現地にお出でになって丁寧にご覧になったことも印象的であった。

 吉田先生は常々、「研究と文化財の保存」は平行してやらなければならないと仰ってきた。学者が研究室に閉じこもっていてはダメなのだと言うことだ。私が大学に行くことになった時、まず肝に銘じたことがこのことだった。「大学教授」という肩書きであちこちの遺跡の委員をしても,結局行政の整えた資料を承認するだけの委員にだけはなるまいと思った。行政は自分たちの都合の悪い資料はまず出さないからだ。自分の足で歩き、自分で遺跡の評価をし、その遺跡の価値が判ればあらゆる手段を使ってその遺跡を護るための手段を講じる。吉田先生から学んだ基本姿勢である。

 その吉田先生が亡くなって、何とも言えない寂しい思いがする。会場となった大坂歴史博物館の北側には、大阪府庁がある。かつての主であった橋下徹は単に無教養であることをさらけだすだけでなく、人々を再び軍靴の響く国へ導こうと安倍晋三の先兵となって、戦争のできる国作りへ邁進しようとしている。戦争を経験したからこそ、二度とその道へ進まないために様々な経験を下に生きてこられた貴重な先人がまた亡くなってしまった。その遺志を継いで、私たちこそしっかりしなければならないのだと改めて思った一日でもあった。

 6月12日には4月にお亡くなりになった佐々木高明先生のお別れ会もある。次々と気骨のある先生方が亡くなり、国家にもの申すことのできる先生が無くなっていくことに危機感を感じる今日この頃である。

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どっち向いて謝ってるの?そんなにアメリカにゴマすりたいのか!の条

2013-05-27 23:05:23 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 もうこれで終わりにしようと思う。

 あまりに低俗で、人間としてはもちろんのこと、政治家としても最低であることが判った橋下某氏への批判は,十分すぎるくらい十分にやりましたので。

 ホント、耳を疑いたくなるような言い逃れの羅列である。

 アメリカ人やアメリカには謝るが、日本人には謝らない大阪市長・日本の政党の共同代表者。こんな政治家がかつて、どこかの政党にいただろうか。

 毎日新聞のニュースはこんな事を伝えている。


 橋下氏:発言撤回も沖縄憤り「まず沖縄女性に謝るべきだ」

毎日新聞 2013年05月27日 20時01分(最終更新 05月27日 20時15分)

 「沖縄の在日米軍司令官に米兵の風俗業活用を勧めた自らの発言を27日の会見で改めて撤回した橋下氏。発言の意図として「人権を蹂躙(じゅうりん)され続ける沖縄県民の怒り」があったと説いたが、沖縄女性史家の宮城晴美さん(63)は「まずは我慢を強いられてきた沖縄の女性に謝るべきだ」と憤った。」

 →全くその通りだ。どっち向いてしゃべっとんや!!と言いたくなる。

 「宮城さんは米軍資料などを基に、沖縄で起きた米兵による性犯罪事件を調べている。それによると、沖縄戦で米軍が上陸した1945年4月の直後に始まり、これまでに少なくとも約500件に及ぶという。72年の本土復帰以降に限っても、沖縄県警の統計で2011年までに127件(軍属と家族も含む)の検挙件数が判明している。」
 「こうした実態を踏まえ、宮城さんは橋下氏の釈明に「米軍や米国にこびを売るような文句ばかりで謝罪の順序が逆だ。市民目線で沖縄のことを語る配慮はないのか」と突き放した。」

 →正に「こびを売る」とはこのことだ。最も典型的な姿である。何でも6月早々にアメリカに公金を使っていくらしい。でも誰も会ってくれそうにないらしい。自民党までもが訪米の中止を提案する始末だ。

 「また、琉球大の喜納育江教授(米文学・ジェンダー研究)は橋下氏の会見について「根本的な解決策を示さず、言葉に化粧を重ねただけの空虚さを感じる」と話した。
 在日米軍施設の約74%が集中する沖縄の現状に言及しないまま、米兵の綱紀粛正を求めんがために出た言葉とする釈明に「米軍が徹底できても、沖縄に軍隊を置く限り、米兵による性暴力はなくならない。沖縄の心を代弁したいのなら、沖縄から基地をなくすのが先ではないか」と語った。」【平川哲也】

 → 政治家とは人々が困っている課題を解決するためにある存在。偏見に充ち満ちた素養も、人間性もない方にその説明をしていただかなくてもいいのです。
 
 → こんなくだらない政治家のために憤っているのがバカらしくなりました。こんな方を選ばれるのは大坂の方ですから、その方々に任せます。横山ノック以来の大坂の恥ですよ。このまま放置するのですか?と       → これでおしまいにします。                                                                                                
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我が家の家訓・株と相場には手を出すな!!の条

2013-05-27 08:15:51 | 歴史・考古情報《日本》-1 宮都
 貨幣経済が日本列島に導入されて1300年。富本銭がその最初だという説もあるが、私はやはり大量生産され、実際に流通した和同開珎が最初の実体貨幣だと思っている。

 それはさておき、貨幣が経済の核をなしてからこの貨幣を悪用する経済政策が何度か採られたことがある。その最初が藤原仲麻呂によるインフレ政策である。歴史を少しも学ぼうとしない、今の政権は経済政策でも過去の教訓を活かすことなく、己の延命のために人々を騙し続けている。、

藤原仲麻呂は、それまでの貨幣和同開珎1枚=1文を10枚(=10文)で新銭萬年通宝1枚で通用させようとしたのである。和同開珎1枚(1文)で米1合が買えていたのが、萬年通宝1枚で米1升が買える計算になる。和同開珎と萬年通宝は銭文(貨幣の名前を刻んだ部分)が違うだけで、銅の質も大きさもほぼ同じである。当然市場は大混乱する。萬年通宝1枚=10文という決まりが信用されなくなり、物の値段そのものが値上がりする。10文で結局1合しか買えなくなるのである。物価の上昇、インフレである。もちろん萬年通宝を鋳造するのは国家である。同じ資源と労力で10倍の価値を生み出すことにするのだから、当初はその差額で多くの物を購入することができる。

 彼が差額をつぎ込もうとしたのが軍事費である。当時彼は朝鮮半島の新羅侵略を考えていた。その軍事費捻出のための新貨鋳造だったのである。もちろんこんな事がすんなり認められるほど当時の人々もバカではない。だから直ぐに物価が値上がりし、それどころか、元々使っていた和同開珎の値打ちが下がるから、和同開珎は使われなくなる。かといって萬年通宝がどんどん鋳造されたら益々信用のならない貨幣が市場に出回ることになるから。一体どの貨幣を用いて、どの様な値段を付ければいいのか、混乱に拍車がかかる。

 結局この事態は政権が代わると元に戻され、実体経済に沿った形で値段が決まり、混乱が収まっていったのである。

 権力者は金(経済)がなければ自分の政策を実行に移すことはできない。だから目先の政策を遂行できて、「人気」が取れれば、その先の社会がどうなろうと意に介さないのである。インフレは直ぐには起こらない、その隙間を縫って自らの政策の「夢」をばらまき、人々の歓心を得る。しかし、これまでの歴史はそうした権力者の失敗は間もなく暴かれ、失脚してきた。この経験を活かして失脚しないための方策を予め講じておこうというのが今の日本の権力者の方策である。

 決まりの根本である憲法を変えるという禁じ手に手を染めようとしている。基準を変えれば、基準を自分たちに有利なように変えれば直ぐには「失脚」しない。さらに悪どいことに、この変えるシステムをそう容易にはさせないために設定されていた改正のための条件(96条)を変えるというのである。政権の都合で次々と根本基準(憲法)を変えることができるようにすると言うのである。その先に見えるものは、混乱!である。

 ま、呆れるほど実にいろいろと姑息なことを考えた政権の誕生だとは思う。しかし、それを批判もしないどころか宣伝に荷担するマスメデアのお蔭で、これが着実に実を結ぼうとしている。テレビや新聞、ネットで流される圧倒的情報が人々の気持ちを動かす装置と化しているからである。そのテレビも、新聞も、「かね」
に飢えている。
 結局立ち止まってよく考えてみないといけないのが、軽々しい、「夢」のような中身のない宣伝ではなくて、中身「実態」なのである。

 価値ある物がきちんと売られ、価値を理解した人々がその価値に従って値段を付け、値段に納得して物を売り買いする、これが当たり前の社会なのである。ところが、今の社会を動かしているのは、架空の「金」なのてまある。株や相場というマネーゲームで得た大金のターゲットが、いま、日本に向けられ、あたかも景気が良くなるかのごとき幻想がばら撒かれているにすぎないのである。これをあたかも、安倍晋三の優れた政策の賜物ともてはやすマスコミ。しかし、幻想が弾けた時、誰も責任はとってくれない!その頃までに憲法を改正して、責任逃れができるシステムを作ってしまえばいい。

 アベノマックロ菜経済政策に騙されることなく、足下をしっかり見据えて将来計画を立てようとする人はこいつをポチッと押して下さいね→人気ブログランキングへ