また高尾山に行ってきた。休日にふらっといけて遠望が利いて気分がよくなる場所と言えばぼくの場合、高尾山くらいしか思い浮かばない。都庁や東京タワーの展望台(古いか・・・)からは遠望は利いても都会の猥雑さを見下ろすだけで爽快感はないだろうからどうしても関東平野の縁まで行かざるを得なくなる。
しかし今日の高尾山は祝日だけあって人出がすごい。紅葉も見ごろとあってケーブルカーもリフトも整理券を配って順番待ちだった。もっとも今日は日頃のなまった体を動かす意味で歩くことを始めから決めていたからぼくはそれを使わず足で登っていった。
今回の歩きはいつもと違った。自分の内面を見ながら歩きながら瞑想をしてみた。「わたしは平和な魂です」「わたしは穏やかな、愛に溢れた光の存在です」そんなことを自分の額の奥に光源があるとイメージを抱きながら心の内で唱えていた。山の香を嗅ぎ、紅葉黄葉を愛でながら落ち葉を踏みしめる足の感覚を楽しみ、登りと共に荒くなる呼吸を感じて、この体という器官が伝えてくれる五感を感じながら主としての自分の“魂”に意識を集中してみた。
それは登りのほんの一時だったけれども確かにこの体を使役しているだけで自分の意識は奥座敷にいるような感じが持てた。たぶんラージャ・ヨーガ瞑想で言っていたのはこの感覚のことなのだと思う。この感覚を一瞬ではなくできるだけ長く、そして思えばすぐそのような意識の状態に持っていけることが心の平安につながっていくのだろうな。
まわりの自然環境に癒されて影響を受けたから穏やかに過ごすことができて意識を集中できたのかもしれない。ハイキングには不十分な装備で行ったんだけど歩く瞑想をしに行ったような今回の高尾山行だった。
しかし今日の高尾山は祝日だけあって人出がすごい。紅葉も見ごろとあってケーブルカーもリフトも整理券を配って順番待ちだった。もっとも今日は日頃のなまった体を動かす意味で歩くことを始めから決めていたからぼくはそれを使わず足で登っていった。
今回の歩きはいつもと違った。自分の内面を見ながら歩きながら瞑想をしてみた。「わたしは平和な魂です」「わたしは穏やかな、愛に溢れた光の存在です」そんなことを自分の額の奥に光源があるとイメージを抱きながら心の内で唱えていた。山の香を嗅ぎ、紅葉黄葉を愛でながら落ち葉を踏みしめる足の感覚を楽しみ、登りと共に荒くなる呼吸を感じて、この体という器官が伝えてくれる五感を感じながら主としての自分の“魂”に意識を集中してみた。
それは登りのほんの一時だったけれども確かにこの体を使役しているだけで自分の意識は奥座敷にいるような感じが持てた。たぶんラージャ・ヨーガ瞑想で言っていたのはこの感覚のことなのだと思う。この感覚を一瞬ではなくできるだけ長く、そして思えばすぐそのような意識の状態に持っていけることが心の平安につながっていくのだろうな。
まわりの自然環境に癒されて影響を受けたから穏やかに過ごすことができて意識を集中できたのかもしれない。ハイキングには不十分な装備で行ったんだけど歩く瞑想をしに行ったような今回の高尾山行だった。