2016年8月28日(日)
今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことになる。
「甲州街道を歩く」第六回目は、駒木野宿(JR高尾駅)から小原宿(JR相模湖駅)までの約10Kmを歩いた。
東京駅8時39分発の高尾行中央特快に乗車。
前回と同じ電車である。
この日の参加者は8名、いつものメンバーだ。
『高尾駅まで確実に座って行けるのが良いよねっ』
9時26分、高尾駅に到着
前回歩いた甲州街道。
八王子の追分から続いていた銀杏並木が、ここで終わっている。
高尾駅入口交差点にコンビニがあったので、弁当(おにぎりやパン)を買うため立ち寄った。
この日は甲州街道の最難所の一つである小仏峠を越えるので、
途中食事をする処などはないと思われるためだ。
めいめい好みのおにぎり・パンなどを買い、9時52分、高尾駅前を出発!
高尾駅前のコンビニから10分ほど歩くと、中央本線のガードが見えてきた。
ガード下の浅川に架かる両界橋を渡る。
浅川
『水がきれいだねっ』
駒木野宿辺りの住宅街に「駒木野庭園」があった。
無料とあったので、ちょっと覗いて行くことにした。
古民家の裏は、庭園になっており、手入れされた立派な盆栽が並んでいた。
庭には池もあり、東屋ではスケッチなどを楽しむ人の姿も。
駒木野宿を進む。
道路は狭いが、この道を通る車は多い。
道路脇にガードレールがあった。
どうやら駒木野橋のようだ。
一見して橋のようには見えなかったが、道沿いの碑からその理由を知ることができる。
区画整理により、橋は撤去されたが、橋名保存のためこの碑が建てられた、とある。
現在、水は道路の下の暗渠を流れている。
駒木野橋碑の向い側に、小仏関跡の碑が建っていた。
小仏関所は、戦国時代には小仏峠に設けられ富士見関とも呼ばれた。
武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅ぶと、関所は麓に一度移され、
その後、北条氏の滅亡により、徳川幕府の甲州道中の重要な関所として
現在地に移されるとともに整備された。
この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和九年(1623)以降4人の関所番が配備された。
かつての小仏関跡の説明に見入る。
説明板には、
左には、小仏関絵図は、関所番だった4家のうち、川村家に伝わっていたもの。
小仏関は、四方を木柵などで囲われ、東西に門が置かれていた。
北に山、南に川という地にあり、当時ここを通行していた人を厳重にチェックしていた、とのこと。
右の絵図は、千人同心組頭塩野適斎らによって記された「桑都日記」のもの。
もともとあった小仏からここ駒木野に移され、関所の東が駒木野宿、西が小仏関と呼ばれるようになり、
関所も「小仏関」や「駒木野関」と呼ばれていた、そうだ。
小仏関跡横の公園には、甲州街道駒木野宿と刻まれた碑が建てられていた。
念珠坂
わずかながら緩やかな下り坂になっている。
道路脇には、念珠坂の碑の他に
青面金剛や南無阿弥陀仏などと刻まれた石碑群が並んでいた。
10時40分、蛇滝口バス停を通過すると、
道路左側に水汲み場があった。
水が入ったペットボトルが何本も並んでいた。
『美味しいっ 軟水だねっ』
旅籠屋「ふぢや新兵衛」
現在は無人で建物だけになっている。
軒下に蛇滝で水行を行う人が掛けたと思われる、講の名前を彫った札が並んでいる。
蛇滝で水行を行う人達が、講を組んでやってきた記念、ということで掛けていった、らしい。
旅籠屋の右手に「上行講」と彫った道標も残っている。
”是より蛇滝まで八丁”とある。
(参考:仮に一丁=一町(109.09m)とすると、八丁=827.72mになる)
10時48分、「上行講」の道標から約5分、蛇滝水行道場入口を通過。
蛇滝水行道場は、道路左をかなり入った所にあるようだ。
右手に中央高速道を見上げながら進むと、
”こだわりのとうふ” 「するさし」の看板が・・・
I子さんによると、この店の「こだわりとうふ」は、殊の外美味しいらしい。
かつての小仏宿は、旅籠11軒だけの小さな宿場だった。
甲州街道の最難所と言われた小仏峠の麓にあったというから、この辺りだったのだろうか?。
小仏の由来は伝説によると奈良時代の僧・行基が宝珠寺を造り、小さな仏を安置したことによる。
男性陣は、一足先にとうふ店の100mほど先の白雲山常林寺に到着した。
境内入口には六地蔵がある。
常林寺は、曹洞宗の寺院。開山は初沢町髙乘寺四世空山宗印大和尚で、現住職は二十四世。
大正六年の火災により全てを焼失したのでその他は不明となっている、とのこと。
本堂にお参りしていると、
女性陣が豆腐をぶら下げてやって来た。
”こだわりのとうふ”は、もめん豆腐だった。早速ご相伴にあずかった。
持参したというきゅうりの浅漬けも一緒に振る舞われた。
『ご馳走さまぁっ』 『甘味があってなかなか美味しいねっ』
常林寺で小休止して行こう。
常林寺を後にして、しばらく行くと、
左手に釣り堀が。
「浅川国際マス釣場」、フライフィッシング専用のようだ。
またしばらく行くと、木下沢橋(きこざわばし)という橋があった。
中央高速道と中央本線の下をトンネルで抜けた流れが、浅川に合流していた。
日影沢・高尾山の分岐点を通過すると、
赤煉瓦ガードが現れた。
中央線八王子~上野原間は明治四年(1901)8月1日、官設鉄道として開通した。
橋梁などに煉瓦が使われている。
『煉瓦造りは、丈夫で長持ちだねぇ』
赤煉瓦ガードを通過して、しばらく行くと、
JR東日本の高尾変電所があった。
11時44分、変電所に隣接する小仏峠バス停に到着
バスはここで折り返しすることになる。
小仏峠バス停で小休止の後、小仏峠を目指した。
『昼食は小仏峠に着いてからだねっ』
小仏峠バス停から5分ほどで小仏山宝珠寺に到着した。
宝珠寺には東京都の天然記念物カゴノキの大樹がある。
本堂左脇の崖上にあり、主幹は枯れてその周囲を枝幹が取り巻いて一株になっている。
幹周り4.3m、高さは13.0m、枝張りは、樹幹を中心に南北約22m、東西約17mで樹勢は盛ん。
根元から1.3mの辺りから多くの枝が分岐している。
カゴノキの名前は「鹿子の木」の意味で、樹皮が鹿のこどものまだら模様に似るところからついたもの。
クスノキ科に属し、暖地に自生する常緑高木である。
鼓の胴はこの木で作る、そうだ。
宝珠寺は、小仏峠の山裾にあり、15世紀の開基と伝わる臨済宗南禅寺派の寺で、
ご本尊は、恵心僧都源信の作と伝えられる木造釈迦如来像。
今日では「断食道場」として知られている、そうだ。
本堂右手奥には不動堂があり、”小佛大聖不動明王尊”と書かれた赤い幟が並んでいた。
宝珠寺を過ぎると、次第に坂道になり、カーブが多くなってきた。
景信山への登山道入口を通過
この登山口は、2012年4月8日(日)「関東ふれあいの道」」(鳥のみち)で利用したことがある。
道端にたくさんの車が停められていた。
景信山や高尾山へのハイカー達の車だろうか?
こちらは駐車場になっており、たくさんの車が駐車していた。
これまでの道路は、ここで行き止りになっていた。
駐車場の少し先右手に滝があり、白衣に着替えた人たちが一心不乱に滝に打たれていた。
『え~い えいっ』と大声で気合を入れ、豪快な滝に打たれる姿には圧倒される。
12時21分、滝を過ぎたところで、登山道が始まった。
『いよいよ小仏峠越えだねっ』
緩やかな瓦礫の道を進むと、
水飲み場があった。
『冷たくて美味しいわっ』
水飲み場を過ぎた辺りから、急坂の道になった。
息が上がり、汗が噴き出す。
間もなく小仏峠というところで、堪らず休憩。
『山上りは久しぶりだからきついねっ』
12時56分、滝から山道を上ることおよそ35分、小仏峠(548m)に到着した。
「小仏嶺」と呼ばれ、武蔵国と相模国の境にある。
峠の頂に小像の石地蔵のあるところから、小仏の地名になった。
富士の眺望が絶景で「富士の関」「富士の峠」とも言われた。
小仏峠のタヌキの像も見覚えがある。
峠の広場にベンチがあったので、ここで弁当に。
『やっぱり高尾駅前で弁当買っといて正解だったねっ』
弁当が終わると、下山開始だ。
峠の元茶屋前は、前日の雨でぐちゃぐちゃの泥んこになっていた。
『こんな所で泥だらけにはなりたくないよねっ』 慎重に泥を避けて下山口へ。
”明治天皇小仏峠御小休所址及御野立所”の碑
『明治天皇もここで休憩して野立をしたんだぁ』
『まだ中央線が開通してない頃なんだろうねっ』
左は高尾山方面で、正面は小仏城山方面である。
甲州街道小原宿は、右方向に案内されていた。
13時32分、麓の小原宿を目指して小仏峠を下山開始だ。
『街道だから、山道より道幅が広い感じだねっ』
緩やかな下りが続き、快調なペースで、小原宿を目指す。
『昔の殿様は、この道を江戸まで参勤交代させられたんだぁ』
杉並木の中を進むと、
舗装された道路に出た。
右手に舗装道路がある・・・
道標に相模湖駅の文字が見える。
『ここで折り返す感じだねっ』
別の案内板には、相模湖まで3.7Km、底沢バス停まで1.7Kmとあった。
今下ってきた道を折り返すようにして相模湖駅方面へ。
中央高速道を潜って、進むと、
”照手姫ものがたり”の説明板があった。
浄瑠璃や歌舞伎で知られている「小栗判官と照手姫」の物語
照手姫は、小仏峠の麓、美女谷の生まれと伝えられ、その美貌が地名の由来となったとも言われている。
北面の武士だったという父と優しい母から生まれた照手姫は、美しい娘に成長し、美女谷川上流の七つ淵で
豊かな黒髪を梳くその姿は、まばゆいばかりの美しさを放ち、里の若者を魅了したと言う。
しかし、不幸にも両親が相次いでこの世を去り、いつしか照手姫の姿は美女谷から消えてしまった。
その後、数奇な運命をたどった照手姫は、相州藤沢宿で小栗判官満重と劇的な出会いをするが、
満重は毒殺されてしまう。
姫の必死の思いが通じたのか、満重は遊行上人という名僧のお蔭で蘇生し、常陸の国の小栗城に還り、
照手姫を迎え、末永く幸せに暮らしたと言う。、
小原宿を目指す。
美女谷川に架かる美女谷橋を渡り、
中央高速道を潜って、少し行くと、
中央線のガードがあった。
ガードの手前に立札が・・・
小原一里塚址の立札だった。
日本橋から15番目の一里塚跡である。
今は、中央高速道の下で、跡はありません、とある。
立札だけの一里塚跡は、初めて見た。
14時37分、底沢バス停に到着した。
底沢バス停から相模湖駅まであと2Kmだ。
小原宿本陣までは、ここから5分と案内されている。
底沢の谷を見ながら進む。
『いやぁ 随分深い谷だねぇ』
歩道に「小原宿本陣祭」の幟がたなびく。
道路右手に「小原の郷」が。
近くに横断歩道が見当たらなかったため、止むを得ず車が途切れるのを待って道路を横断。
14時44分、「小原の郷」に到着
「小原の郷」は、相模湖地区の歴史文化に関する資料の展示を行い、市民の知識及び教養の向上を図るとともに
都市住民との交流に寄与する施設として設立された、とのこと。
11月3日(文化の日)には、江戸時代の大名行列を再現した祭が行われ、
本陣の庭での野立や沿道には、甲州街道の街並みが再現される、そうである。
小原宿本陣へ行ってみよう。
14時56分、「小原の郷」から数分のところに小原宿本陣があった。
小原宿本陣は、清水家の建物が使われた。
清水家は、古くから小原に住み、小原宿の名主・問屋を勤めるとともに、
本陣として大名の定宿となっていた。
四層の構え、かぶと造りの建物は築400年(現平井家)で、
信州高島藩・高遠藩・飯田藩の大名や甲府勤番の役人が宿泊した。
清水家は寛永二年(1625)より本陣兼名主を勤めた。
主要五街道の人馬の継立て一覧
『甲州街道は、3つの藩(高島藩・高遠藩・飯田藩)しか利用しなかったんだぁ』
土間に入ると正面に大きな階段があった。
2階は、かつては蚕を飼っていたらしい。
階段の後ろが勝手になっている。
広間から茶の間を見たところ。
玄関には、大名が乗った籠が展示してあった。
この籠は最近造られたもので、重さ100Kg以上あり、祭の時に4人で担ぐ、そうだ。
控えの間から中の間・上段の間を見たところ。
控えの間・中の間・上段の間は、庭に面している。
築山
上段の間からの眺めが良くなるように造られた庭園で、
徳川家から拝領のドウダンツツジや泰山木が植えられている。
小原宿本陣を後にして、小原宿の宿内を相模湖駅へ。
小原宿は明治28年(1895)8月に出火、本陣を含む東端4軒だけを残したが、
その後地域の方々の力により、現在の街並みが再建されている。
相模湖が見えてきた。
ゴールの相模湖駅まで残り1Km弱と思われる。
15時20分、相模原市立北相中学校前を通過。
与瀬の分岐を過ぎると、相模湖駅は間もなくだ。
相模湖駅入口交差点を右に折れると、相模湖駅前のネオン看板が現れた。
『夜はきれいなんだろうねっ』
15時28分、この日のゴール相模湖駅に到着した。
時刻表を見ると、次の上り電車まで30分以上ある。
駅前の酒屋で缶ビールを買い、タクシー乗場の椅子で、
『かんぱ~い』 『お疲れさま~っ』
相模湖駅発15時59分発の電車で東京駅に向かう。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』
「旧甲州街道を歩く」第六回目(駒木野宿~小原宿間約10Km)を歩き終わった。
実際に歩いてみて、距離はもっとあったような気がする。
JR中央線高尾駅から相模湖駅までの一駅間だったが、甲州街道最大の難所である小仏峠を越えたため、
少々疲れた。
次回(10月)は、小原宿(相模湖駅)から上野原宿(約10Km)を予定している。
甲州道中最大の難所と云われた小仏峠越えも終わったことだし、それほどきつくはないと考えているが・・・
どんなハプニングが待ち構えているのだろうか?
今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。
この日の万歩計は、25,000歩を計測していた。
思った以上に計測していたのには。正直驚いている。
”ウマさんの「甲州街道を歩く」の目次”
今年(2016年)の4月で「特選街道を歩く」が終わったことを受けて、仲間の皆さんから
『今度はどこを歩くの?』という声が上がり、五街道のひとつ甲州街道を歩くことにした。
日本橋から内藤新宿までは、「特選街道を歩く」第二回目(2015年2月22日)で歩いているので、
内藤新宿から信州の下諏訪宿までを歩くことになる。
「甲州街道を歩く」第六回目は、駒木野宿(JR高尾駅)から小原宿(JR相模湖駅)までの約10Kmを歩いた。
東京駅8時39分発の高尾行中央特快に乗車。
前回と同じ電車である。
この日の参加者は8名、いつものメンバーだ。
『高尾駅まで確実に座って行けるのが良いよねっ』
9時26分、高尾駅に到着
前回歩いた甲州街道。
八王子の追分から続いていた銀杏並木が、ここで終わっている。
高尾駅入口交差点にコンビニがあったので、弁当(おにぎりやパン)を買うため立ち寄った。
この日は甲州街道の最難所の一つである小仏峠を越えるので、
途中食事をする処などはないと思われるためだ。
めいめい好みのおにぎり・パンなどを買い、9時52分、高尾駅前を出発!
高尾駅前のコンビニから10分ほど歩くと、中央本線のガードが見えてきた。
ガード下の浅川に架かる両界橋を渡る。
浅川
『水がきれいだねっ』
駒木野宿辺りの住宅街に「駒木野庭園」があった。
無料とあったので、ちょっと覗いて行くことにした。
古民家の裏は、庭園になっており、手入れされた立派な盆栽が並んでいた。
庭には池もあり、東屋ではスケッチなどを楽しむ人の姿も。
駒木野宿を進む。
道路は狭いが、この道を通る車は多い。
道路脇にガードレールがあった。
どうやら駒木野橋のようだ。
一見して橋のようには見えなかったが、道沿いの碑からその理由を知ることができる。
区画整理により、橋は撤去されたが、橋名保存のためこの碑が建てられた、とある。
現在、水は道路の下の暗渠を流れている。
駒木野橋碑の向い側に、小仏関跡の碑が建っていた。
小仏関所は、戦国時代には小仏峠に設けられ富士見関とも呼ばれた。
武田・今川・織田などの周辺の有力氏が滅ぶと、関所は麓に一度移され、
その後、北条氏の滅亡により、徳川幕府の甲州道中の重要な関所として
現在地に移されるとともに整備された。
この関所は、道中奉行の支配下におかれ、元和九年(1623)以降4人の関所番が配備された。
かつての小仏関跡の説明に見入る。
説明板には、
左には、小仏関絵図は、関所番だった4家のうち、川村家に伝わっていたもの。
小仏関は、四方を木柵などで囲われ、東西に門が置かれていた。
北に山、南に川という地にあり、当時ここを通行していた人を厳重にチェックしていた、とのこと。
右の絵図は、千人同心組頭塩野適斎らによって記された「桑都日記」のもの。
もともとあった小仏からここ駒木野に移され、関所の東が駒木野宿、西が小仏関と呼ばれるようになり、
関所も「小仏関」や「駒木野関」と呼ばれていた、そうだ。
小仏関跡横の公園には、甲州街道駒木野宿と刻まれた碑が建てられていた。
念珠坂
わずかながら緩やかな下り坂になっている。
道路脇には、念珠坂の碑の他に
青面金剛や南無阿弥陀仏などと刻まれた石碑群が並んでいた。
10時40分、蛇滝口バス停を通過すると、
道路左側に水汲み場があった。
水が入ったペットボトルが何本も並んでいた。
『美味しいっ 軟水だねっ』
旅籠屋「ふぢや新兵衛」
現在は無人で建物だけになっている。
軒下に蛇滝で水行を行う人が掛けたと思われる、講の名前を彫った札が並んでいる。
蛇滝で水行を行う人達が、講を組んでやってきた記念、ということで掛けていった、らしい。
旅籠屋の右手に「上行講」と彫った道標も残っている。
”是より蛇滝まで八丁”とある。
(参考:仮に一丁=一町(109.09m)とすると、八丁=827.72mになる)
10時48分、「上行講」の道標から約5分、蛇滝水行道場入口を通過。
蛇滝水行道場は、道路左をかなり入った所にあるようだ。
右手に中央高速道を見上げながら進むと、
”こだわりのとうふ” 「するさし」の看板が・・・
I子さんによると、この店の「こだわりとうふ」は、殊の外美味しいらしい。
かつての小仏宿は、旅籠11軒だけの小さな宿場だった。
甲州街道の最難所と言われた小仏峠の麓にあったというから、この辺りだったのだろうか?。
小仏の由来は伝説によると奈良時代の僧・行基が宝珠寺を造り、小さな仏を安置したことによる。
男性陣は、一足先にとうふ店の100mほど先の白雲山常林寺に到着した。
境内入口には六地蔵がある。
常林寺は、曹洞宗の寺院。開山は初沢町髙乘寺四世空山宗印大和尚で、現住職は二十四世。
大正六年の火災により全てを焼失したのでその他は不明となっている、とのこと。
本堂にお参りしていると、
女性陣が豆腐をぶら下げてやって来た。
”こだわりのとうふ”は、もめん豆腐だった。早速ご相伴にあずかった。
持参したというきゅうりの浅漬けも一緒に振る舞われた。
『ご馳走さまぁっ』 『甘味があってなかなか美味しいねっ』
常林寺で小休止して行こう。
常林寺を後にして、しばらく行くと、
左手に釣り堀が。
「浅川国際マス釣場」、フライフィッシング専用のようだ。
またしばらく行くと、木下沢橋(きこざわばし)という橋があった。
中央高速道と中央本線の下をトンネルで抜けた流れが、浅川に合流していた。
日影沢・高尾山の分岐点を通過すると、
赤煉瓦ガードが現れた。
中央線八王子~上野原間は明治四年(1901)8月1日、官設鉄道として開通した。
橋梁などに煉瓦が使われている。
『煉瓦造りは、丈夫で長持ちだねぇ』
赤煉瓦ガードを通過して、しばらく行くと、
JR東日本の高尾変電所があった。
11時44分、変電所に隣接する小仏峠バス停に到着
バスはここで折り返しすることになる。
小仏峠バス停で小休止の後、小仏峠を目指した。
『昼食は小仏峠に着いてからだねっ』
小仏峠バス停から5分ほどで小仏山宝珠寺に到着した。
宝珠寺には東京都の天然記念物カゴノキの大樹がある。
本堂左脇の崖上にあり、主幹は枯れてその周囲を枝幹が取り巻いて一株になっている。
幹周り4.3m、高さは13.0m、枝張りは、樹幹を中心に南北約22m、東西約17mで樹勢は盛ん。
根元から1.3mの辺りから多くの枝が分岐している。
カゴノキの名前は「鹿子の木」の意味で、樹皮が鹿のこどものまだら模様に似るところからついたもの。
クスノキ科に属し、暖地に自生する常緑高木である。
鼓の胴はこの木で作る、そうだ。
宝珠寺は、小仏峠の山裾にあり、15世紀の開基と伝わる臨済宗南禅寺派の寺で、
ご本尊は、恵心僧都源信の作と伝えられる木造釈迦如来像。
今日では「断食道場」として知られている、そうだ。
本堂右手奥には不動堂があり、”小佛大聖不動明王尊”と書かれた赤い幟が並んでいた。
宝珠寺を過ぎると、次第に坂道になり、カーブが多くなってきた。
景信山への登山道入口を通過
この登山口は、2012年4月8日(日)「関東ふれあいの道」」(鳥のみち)で利用したことがある。
道端にたくさんの車が停められていた。
景信山や高尾山へのハイカー達の車だろうか?
こちらは駐車場になっており、たくさんの車が駐車していた。
これまでの道路は、ここで行き止りになっていた。
駐車場の少し先右手に滝があり、白衣に着替えた人たちが一心不乱に滝に打たれていた。
『え~い えいっ』と大声で気合を入れ、豪快な滝に打たれる姿には圧倒される。
12時21分、滝を過ぎたところで、登山道が始まった。
『いよいよ小仏峠越えだねっ』
緩やかな瓦礫の道を進むと、
水飲み場があった。
『冷たくて美味しいわっ』
水飲み場を過ぎた辺りから、急坂の道になった。
息が上がり、汗が噴き出す。
間もなく小仏峠というところで、堪らず休憩。
『山上りは久しぶりだからきついねっ』
12時56分、滝から山道を上ることおよそ35分、小仏峠(548m)に到着した。
「小仏嶺」と呼ばれ、武蔵国と相模国の境にある。
峠の頂に小像の石地蔵のあるところから、小仏の地名になった。
富士の眺望が絶景で「富士の関」「富士の峠」とも言われた。
小仏峠のタヌキの像も見覚えがある。
峠の広場にベンチがあったので、ここで弁当に。
『やっぱり高尾駅前で弁当買っといて正解だったねっ』
弁当が終わると、下山開始だ。
峠の元茶屋前は、前日の雨でぐちゃぐちゃの泥んこになっていた。
『こんな所で泥だらけにはなりたくないよねっ』 慎重に泥を避けて下山口へ。
”明治天皇小仏峠御小休所址及御野立所”の碑
『明治天皇もここで休憩して野立をしたんだぁ』
『まだ中央線が開通してない頃なんだろうねっ』
左は高尾山方面で、正面は小仏城山方面である。
甲州街道小原宿は、右方向に案内されていた。
13時32分、麓の小原宿を目指して小仏峠を下山開始だ。
『街道だから、山道より道幅が広い感じだねっ』
緩やかな下りが続き、快調なペースで、小原宿を目指す。
『昔の殿様は、この道を江戸まで参勤交代させられたんだぁ』
杉並木の中を進むと、
舗装された道路に出た。
右手に舗装道路がある・・・
道標に相模湖駅の文字が見える。
『ここで折り返す感じだねっ』
別の案内板には、相模湖まで3.7Km、底沢バス停まで1.7Kmとあった。
今下ってきた道を折り返すようにして相模湖駅方面へ。
中央高速道を潜って、進むと、
”照手姫ものがたり”の説明板があった。
浄瑠璃や歌舞伎で知られている「小栗判官と照手姫」の物語
照手姫は、小仏峠の麓、美女谷の生まれと伝えられ、その美貌が地名の由来となったとも言われている。
北面の武士だったという父と優しい母から生まれた照手姫は、美しい娘に成長し、美女谷川上流の七つ淵で
豊かな黒髪を梳くその姿は、まばゆいばかりの美しさを放ち、里の若者を魅了したと言う。
しかし、不幸にも両親が相次いでこの世を去り、いつしか照手姫の姿は美女谷から消えてしまった。
その後、数奇な運命をたどった照手姫は、相州藤沢宿で小栗判官満重と劇的な出会いをするが、
満重は毒殺されてしまう。
姫の必死の思いが通じたのか、満重は遊行上人という名僧のお蔭で蘇生し、常陸の国の小栗城に還り、
照手姫を迎え、末永く幸せに暮らしたと言う。、
小原宿を目指す。
美女谷川に架かる美女谷橋を渡り、
中央高速道を潜って、少し行くと、
中央線のガードがあった。
ガードの手前に立札が・・・
小原一里塚址の立札だった。
日本橋から15番目の一里塚跡である。
今は、中央高速道の下で、跡はありません、とある。
立札だけの一里塚跡は、初めて見た。
14時37分、底沢バス停に到着した。
底沢バス停から相模湖駅まであと2Kmだ。
小原宿本陣までは、ここから5分と案内されている。
底沢の谷を見ながら進む。
『いやぁ 随分深い谷だねぇ』
歩道に「小原宿本陣祭」の幟がたなびく。
道路右手に「小原の郷」が。
近くに横断歩道が見当たらなかったため、止むを得ず車が途切れるのを待って道路を横断。
14時44分、「小原の郷」に到着
「小原の郷」は、相模湖地区の歴史文化に関する資料の展示を行い、市民の知識及び教養の向上を図るとともに
都市住民との交流に寄与する施設として設立された、とのこと。
11月3日(文化の日)には、江戸時代の大名行列を再現した祭が行われ、
本陣の庭での野立や沿道には、甲州街道の街並みが再現される、そうである。
小原宿本陣へ行ってみよう。
14時56分、「小原の郷」から数分のところに小原宿本陣があった。
小原宿本陣は、清水家の建物が使われた。
清水家は、古くから小原に住み、小原宿の名主・問屋を勤めるとともに、
本陣として大名の定宿となっていた。
四層の構え、かぶと造りの建物は築400年(現平井家)で、
信州高島藩・高遠藩・飯田藩の大名や甲府勤番の役人が宿泊した。
清水家は寛永二年(1625)より本陣兼名主を勤めた。
主要五街道の人馬の継立て一覧
『甲州街道は、3つの藩(高島藩・高遠藩・飯田藩)しか利用しなかったんだぁ』
土間に入ると正面に大きな階段があった。
2階は、かつては蚕を飼っていたらしい。
階段の後ろが勝手になっている。
広間から茶の間を見たところ。
玄関には、大名が乗った籠が展示してあった。
この籠は最近造られたもので、重さ100Kg以上あり、祭の時に4人で担ぐ、そうだ。
控えの間から中の間・上段の間を見たところ。
控えの間・中の間・上段の間は、庭に面している。
築山
上段の間からの眺めが良くなるように造られた庭園で、
徳川家から拝領のドウダンツツジや泰山木が植えられている。
小原宿本陣を後にして、小原宿の宿内を相模湖駅へ。
小原宿は明治28年(1895)8月に出火、本陣を含む東端4軒だけを残したが、
その後地域の方々の力により、現在の街並みが再建されている。
相模湖が見えてきた。
ゴールの相模湖駅まで残り1Km弱と思われる。
15時20分、相模原市立北相中学校前を通過。
与瀬の分岐を過ぎると、相模湖駅は間もなくだ。
相模湖駅入口交差点を右に折れると、相模湖駅前のネオン看板が現れた。
『夜はきれいなんだろうねっ』
15時28分、この日のゴール相模湖駅に到着した。
時刻表を見ると、次の上り電車まで30分以上ある。
駅前の酒屋で缶ビールを買い、タクシー乗場の椅子で、
『かんぱ~い』 『お疲れさま~っ』
相模湖駅発15時59分発の電車で東京駅に向かう。
『皆さんっ 今日は大変お疲れさまでしたぁ』
「旧甲州街道を歩く」第六回目(駒木野宿~小原宿間約10Km)を歩き終わった。
実際に歩いてみて、距離はもっとあったような気がする。
JR中央線高尾駅から相模湖駅までの一駅間だったが、甲州街道最大の難所である小仏峠を越えたため、
少々疲れた。
次回(10月)は、小原宿(相模湖駅)から上野原宿(約10Km)を予定している。
甲州道中最大の難所と云われた小仏峠越えも終わったことだし、それほどきつくはないと考えているが・・・
どんなハプニングが待ち構えているのだろうか?
今から「旧甲州街道を歩く」が楽しみである。
この日の万歩計は、25,000歩を計測していた。
思った以上に計測していたのには。正直驚いている。
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