ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

旧東海道を歩く 第Ⅰステージ第7回 茅ヶ崎宿から大磯宿

2014年07月27日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2014年7月27日(日)

第七回目のこの日は、茅ヶ崎宿(JR茅ヶ崎駅)~大磯宿(JR大磯駅)の約10Kmを歩いた。
当初の案では、7月、8月の暑い時期は予定していなかったのだが、三島宿への最終ゴールが12月になるのは、
日暮れが早くなるので出来れば避けたい、という声があり、この時期歩くことに変更したという経緯がある。
10Km程度の距離であれば、ちょっとした暑さは我慢できるだろう、という声にも押されたという次第。

東京駅で熱海行き(8時15分発)電車のドアが開くのを待っているところ。


東海道線車内
東京駅始発なので、ゆっくり余裕を持って座って行けるのが嬉しい。


この日の参加者9名である。


この日のスタート地JR茅ヶ崎駅には9時14分に到着。
駅前でめいめい暑さた施策・日除け対策など準備を整える。
この日の湘南地区の予想最高気温は34度、熱中症には十分に気を付けたい。


9時19分、大磯宿(JR大磯駅)目指して出発!


茅ヶ崎駅前の一里塚通りを、前回歩いた茅ヶ崎の一里塚跡へ向かう。


茅ヶ崎の一里塚
江戸から数えて14番目の一里塚である。
『あれからもう1カ月経ったんだ、早いもんだねっ』


国道1号線小田原・平塚方面


茅ケ崎駅前の交差点は横断歩道がなく、地下道をくぐって先へ進む。


平塚まで6Kmの表示


9時30分、この日の最初の訪問地茅ヶ崎山円蔵寺へ到着。
秘鍵大師と呼ばれる高野山真言宗のお寺である。


円蔵寺は、慶安二年(1649)、徳川家光から朱印状が与えられており、江戸時代には13の末寺を持つ中本山である。


境内には弘法大師像と四国八十八ヶ所霊場巡拝記念の碑が建てられていた。
”同行二人”の文字が印象的だ。


土用の丑の日が2日後(7月29日)に迫っている。
この日の昼食は、出来ればうなぎを食べることにしたい。
近頃牛丼屋で安くうなぎを提供しているので、上手い具合に「すき家」又は「吉野屋」があれば良いのだが・・・


第六天神社
第六天神は神仏混合の時代に、第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として各地に創建された。
天魔王は身の丈は2里、寿命は人間の1,600歳を一年として、16,000歳の長寿と言われ、
健康を願う人々や東海道を旅する人々が立ち寄ったと言われている。


茅ヶ崎市街地の国道1号線は、青く彩られた自転車専用車線がある。
しかし、左側の一方通行となっているので、前方からの自転車は歩道を走るため、歩き難い。
けっこう前から来る自転車が多く、落ち着いて歩いていられない。


千の川に架かる鳥井戸橋を渡ると・・・


南湖の左富士之碑があった。
歌川広重の「東海道五十三次名所図会七、藤沢」で、“南湖の松原左不二”として描かれているように、
京へ向かう場合、概ね道の右側に見える筈の富士山が鳥井戸橋の辺りでは、道の左側に見えるという景色が展開する。
上りの東海道で左手に富士が見えるのは、ここ南湖と吉原宿だけだそうだ。


しかし、建物が邪魔をしているのか、あるいはぼんやりとした天気のせいなのか、
『富士山が見えないのは残念だねぇ』


鳥井戸橋交差点中央から鶴嶺八幡宮の鳥居と松並木の参道が見えた。
伝説では鶴嶺八幡宮は、平安時代後期に矢畑に源頼義が創建し、その後、現在地に遷座したと云われている。
鶴嶺八幡宮はまた、市内最古の神社で、江戸時代旧暦6月29日には南湖の浜へ御輿の浜降りが行われていた、とのこと。
参道の松並木は1Km余も続くそうである。


10時02分、下町屋の神明神社(神明大神)に到着。
由緒沿革によると、御祭神は天照大神、大山咋命とある。


茅ヶ崎駅を出発して40分近く経っていた。
水分補給のため、ここで一休みして行こう。


由緒沿革には、”当地の古老が伝えるところによると、神明大神の境内には平安時代の陰陽師、
安部清明(921~1005)が東国へ下行のおり、喉の渇きを癒した清水が湧き出ていた、
名付けて「清明井戸」と称す”との説明があった。
現在、鳥居の横に「清明井戸」の碑が建てられている。


神明神社から西へ200mほど進むと国指定史跡「旧相模川橋脚」の碑が。


小出川に沿って200mほどのところに旧相模川の橋脚が保存されていた。
大正十二年(1923)に発生した関東大震災の液状化現象によって、水田から地中に出現した鎌倉時代の橋遺跡である。
橋遺跡は精巧な複製品で、実物は腐朽が進まないように地下2m65Cmのところで保存されている、とのこと。


説明板に見入る。
”当遺跡は沼田頼輔により、建久九年(1198)源頼朝の家臣稲毛重成が、
亡き妻の供養のために架けた橋と考証されている。
鎌倉幕府の歴史書「吾妻鏡」には、頼朝がこの橋の渡り初めをしたこと、
その帰途に落馬し、その後間もなく亡くなったことなどが記録されている”
『へぇ~っ そうなんだぁ』


あらためて小出川を渡る。
この小出川がかつては相模川と呼ばれていたのだろうか?


『液状化現象ってほんと凄いよね~っ』
『関東大震災がなかったら、橋脚は見つからなかったってことだよね~っ』


上町屋橋を渡ると頭上に新湘南BPが通る。


小出川から500mほど進むと進行方向右手の道路反対側に信隆寺の門が見えた。
寛永元年(1624)甲斐武田氏の流れを汲む竹田信就が先祖の菩提を弔うため創建した寺である。
出家した信就は信隆院日閑と名乗り、信隆を寺名とした。


国道1号線と産業道路の交差点
左は国道134号、江の島方面へと続いている。


黙々と旧東海道(国道1号線)を進む。


信号機に落書きしたような形跡が見える。
しかし、とんでもないことをする輩がいるものだ。
『あんなところにどうやって描いたのかなぁ』感心するばかりである。 


10時39分、平塚市に入った。


相模川、馬入橋だ。


相模川を渡る。


『いやぁ それにしても相模川は広いねぇ』


日本橋から62Kmの地点を通過。


海からの風が気持ちが良い。


馬入橋を渡った所に「馬入の渡し(ばにゅうのわたし)碑」があるのだが、
道路の反対側にあり、回り道をして引き返さなければならないため、断念した。
江戸時代、幕府は大きな河川に橋をかけることを禁止した。
そのため、相模川(馬入川)や多摩川(六郷川)は「渡し船」、酒匂川は「徒歩渡し」などで渡っていた。
相模川には60以上の渡し場があった。
大動脈である東海道は「馬入の渡し」と呼ばれ、幕府が管理し、周辺村々の負担によって成り立っていた。

馬入橋を渡りきったところに、陸軍架橋記念碑があった。
大正十二年(1923)9月1日、関東大震災によって馬入橋が倒壊し、交通が途絶した。
地元の消防組・在郷軍人会・青年団によって即日渡舟が運行されたが、
数日後の豪雨で流失し、しばしば中断してしまった。


9月17日、陸軍第十五師団(豊橋)と第十六師団(京都)が急遽派遣され、架橋工事が開始された。
橋の全長450mのうち、馬入側を第十六師団が、茅ヶ崎側を第十五師団が担当し、10月3日に完成した。
この記念碑は馬入側を担当した第十六大隊の事積を称えたものである。
450mにも及ぶ架橋工事をわずか半月余りで竣工させるとは、実に大変な工事だったと思う。


相模川を渡り、国道1号線を進むと、


「馬入の一里塚」があった。
江戸日本橋から15番目の一里塚である。


「馬入の一里塚」
『日本橋から60Km以上歩いたことになるんだよねぇ』
(相模川の真ん中辺りに”日本橋から62Km”の標識があったので、63Kmは歩いていると思われる)


11時15分、平塚駅前交差点に到着。


平塚駅前の中心市街地だ。
全国的に有名なホテルやNTTなどの高層ビルが建ち並ぶ。


左側にはJR平塚駅も見える。


平塚市内の中心市街地(東海道本通り)を進む。
七夕祭は既に終わっており、通りを埋め尽くす?ほどの七夕飾りはきれいに片付けられていた。


平塚宿(旧東海道)史蹟絵地図で場所を確認。
『江戸方見附はこの先だねっ』


100mも進むと案内地図どおり江戸方見附跡があった。
慶長六年(1601)東西の入口の街道を挟んだ両側に見附が構築され、東側のものを江戸見附と呼んだ。
西側のものを上方見附と呼ぶ。


当時は、江戸見附から上方見附までの間が平塚宿内で、本陣、脇本陣、東・西の問屋場2か所、高札場、旅籠など
江戸時代を通して200軒を越える町並みが続いた、とのこと。
現在は、平塚駅前交差点辺りからこの江戸見附辺りまでが中心地となっている。
JR平塚駅が中心となっていることを考えると、時代とともに町並みが変わるものだと実感させられる。


江戸見附跡のほんの少し先の市民センターの中庭のような所に、平塚の里歌碑があった。
東京都から贈られた江戸城の石垣に刻まれている。


説明板には次のように紹介されている。
文明十二年(1480)「平安紀行」の作者(太田道灌)が、東海道を京都に上洛の途次、平塚の地で没した
三浦遠江入道定可を想い起し、里人にその遺跡・墓所などを訊ねたところ、誰一人として知るものがいなかったため、
哀れてふ たが世のしるし、朽ちはててかたみもみえぬ 平塚の里」と詠じた。


市民センター緑地に大きな楠があった。
平塚小学校蹟の樟樹で、次のように案内されている。
平塚小学校では明治二十八年三月、校庭の一隅へ樟の種子を蒔いたところ、六月十五日大地を割って双葉が萌えいでいた。
種子は明治二十七・八年戦役講和記念として神奈川県知事中野健明が県下各学校へ配布したもののひとつである。
この地は明治十三年十一月崇善館を移築して平塚小学校と稱してから昭和二十年七月の戦争罹災まで
日本一を誇った平塚小学校(現在崇善小学校)の旧地で、ここに学んだ児童たちはひとしくこの樟樹の傍で遊び
たわむれた記憶をもっている。樹令八十余年記念すべき名木と言うべきだろう。(平塚市観光協会)


旧平塚宿内を進む。
怪談「番町皿屋敷」に登場する菊女の墓跡(昭和27年建碑)は、
東海道本通りに面していなかったため見過ごしてしまった。


道路反対側(左手)に「すき家」を見つけた。”うな牛”の文字も見える。
そろそろ昼食でもと思ったが、ゴールの大磯駅まではまだ4Km近く残っている。
時間も11時30分をちょっと過ぎたところだったため、もう少し歩くことにした。


平塚宿内を進む。


脇本陣跡
天保年間に西仲町にあった脇本陣が二十四軒町北側の地に移ったもの。
宿内唯一の脇本陣であった。
脇本陣は本陣と違って、平常時は一般の旅籠としての営業も可能だった。
山本安兵衛が営んでいた。


平塚宿内を進む。


平塚の名前の由来
桓武天皇の孫・高見王の子、平真砂子が東国へおもむく途中、この地で亡くなったため、塚が作られ、
それがいつしか平らになったために「平塚」と呼ばれるようになったと云われている。
元は「たいらつか」と呼ばれていた。

平塚宿高札場跡
二十四軒町にあった平塚宿公用の掲示板が置かれた場所。
高札とは、切支丹禁制や徒党の禁止など、幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札のこと。
平塚宿の高札場の規模は、長さ二間半(約5m)、横一間(約1.8m)、高さ一丈一尺(約3m)あった。
日本橋からの距離を測るポイントとされていた。


平塚宿本陣旧跡


天保十四年(1843)当時の本陣は総欅造りで、間口30m、奥行68mで建坪は163坪、座敷数は20もあった。
天皇や将軍の御座所は上段の間であった。
門は乗馬したまま出入りができるよう高くできていた。
神奈川銀行平塚支店の前に建てられた記念の碑に見入る。


西組問屋場跡碑は平塚消防第一分団の前(角)にあった。


慶長六年(1601)伝馬制度が始まった時にここ西組問屋場が開設された。
寛永十二年(1635)参勤交代が行われるようになってからは、東海道の交通量は激増し、
伝馬負担に堪えかねた平塚宿は、隣接の八幡新宿の平塚宿への加宿を願い出て、
慶安四年(1651)に八幡新宿が加宿されたときに東組問屋場が増設された。
両方の宿は、交互(十日目交替)で伝馬業務を務めるようになった。


平塚宿内を進むが、店らしき店は見当たらなくなった。


12時ちょうど、上方見附跡に到着。


ここで一休み。しっかりと水分を補給して行こう。
『大磯駅に着くまで牛丼屋はあるのかねぇ』
しかも安く”うなぎ”を食べさせる店という条件である、甚だ心細くなってきた。


上方見附跡の直ぐ先に大磯町の看板があった。
後ろに見えるのは高麗山だ。


何と運の良いことに、大磯町の看板の50m先に牛丼の「なか卯」があった。
しかも、”うなまぶし””うな丼”のメニューもあるではないか!
『ラッキーっ』


大方の人は”うなまぶし”(890円)を注文したようだが、自分は”うな丼”(790円)を注文した。
うなぎは一切れだけだったが、お腹も空いていたことから、何と美味かったことか。


『”うなまぶし”初めてだったけど美味しかったよぉ』


「なか卯」を後にして、ゴールのJR大磯駅を目指す。
『うなぎ食べられて良かったねぇ』
皆さん、満足の様子で一安堵である。


花水川(金目川)の花水橋を渡る。
後ろの高麗山(167.3m)は、昔、新羅連合軍に滅ぼされた高麗の王族が住んだとも云われている。
2013年7月7日に「関東ふれあいの道」でこの橋の一つ下の下花水橋を歩いているので記憶に新しい。
懐かしさを覚える。


花水橋の少し先に浄土真宗本願寺派の善福寺がある。
開山は了源(平塚入道とも称した)というお坊さんであると伝えられる。
本尊は98.4Cmの木造阿弥陀如来立像。


高来神社へ立寄って行くことにした。


長い参道を高久神社の拝殿へ向かう。


高久神社拝殿
明治以前は高麗山山頂に高麗権現社が祀られていた。
下社には本地仏として千手観音が祀られ、神仏習合の地であった。


高久神社の鳥居横に建つ慶覚院
慶長十八年(1613)創建で、高麗寺の末寺。
修理中だった仁王門は今年の4月20日に完成し、仁王門落慶々讃大法会が行われた、そうである。


木造仁王立像は、江戸時代初期の仏像と云われる。


慶覚院は、明治二十三年(1890)八月に大磯町南下町に大火があり、
当時北下町にあったが、檀家が多い高麗地域、村持地蔵堂に移った、とのこと。


高久神社を後にしてゴールのJR大磯駅を目指す。


道端に此辺大磯宿の史跡「虚空像堂」がポツンと祀られていた。
説明板によると、
虚空像と熊野権現を祀ったお堂があり、ここに下馬標が立っていた。
大名行列もここで下馬し、東照権現の併祀された高麗寺に最敬礼をして静かに寺領内を通った、とある。
東照権現とはもちろん、徳川家康のことである。


旧東海道は化粧坂信号で国道1号線といったん分かれる。
この化粧坂交差点辺りを化粧坂(けわいざか)と言う。


化粧坂の途中に化粧井戸があった。
鎌倉時代の大磯の中心は、この化粧坂付近にあった、そうだ。


化粧坂付近に住んでいた虎御前(曽我十郎の妻)が朝夕この井戸の水を汲んで化粧をしていたことから
この名が付いたと云われている。


化粧坂をJR大磯駅方面へ進む。


此辺大磯宿の史跡「化粧坂の一里塚」
江戸日本橋から16番目の一里塚である。
海側に榎を、山側にせんだんを植えた、そうだ。


化粧坂の一里塚、
『こっち側にせんだんが植わってたんだねっ』


この絵は初代歌川広重が天保四年(1883)頃に製作した浮世絵、『東海道五十三次之内大磯虎ヶ雨』とある。
画題横に”虎ヶ雨”とあるように、そぼ降る雨を虎御前の涙雨に見立てている、とのこと。


大磯八景碑「化粧坂の夜雨」
雨の夜は 静けかりけり 化粧坂 松の雫の音はかりして


旧東海道は東海道線を潜る。


地下道を進むと、


斜めに傾いた松の木が旧東海道らしい雰囲気を醸し出してくれる。


此辺大磯宿の史跡「江戸見附」があった。
是より此辺大磯宿である。


しばらく進むと、旧東海道は、国道1号線に合流した。


大磯駅入口交差点手前に神明神社があった。
道の反対側だったため、写真に納めるだけにした。


大磯駅入口交差点を右折し、ゴールの大磯駅へ向かった。
花水川辺りから大磯駅入口まで、ついに食事ができる店らしき店は見当たらなかった。
花水川の「なか卯」での昼食は本当に幸運だったことを再確認した次第である。


大磯駅への緩い坂道が続く。
『最後にこの坂道が一番堪えるねぇ』


ようやく大磯駅が見えてきた。


13時30分、ゴールのJR大磯駅に到着!
茅ヶ崎駅を出発して4時間10分が経過していた。
最後は少しばかり疲れたが、この日の暑さの中としては、まあまあのペースだと思う。


駅前にコンビニがあったので、めいめい缶ビールを買って『乾杯っ!』


大磯駅ホームで東京行き電車を待つ。
『いやぁ 最後はちょっと疲れたねぇ』


『今日は暑い中大変お疲れ様でしたぁ』



「旧東海道を歩く」第七回目(茅ヶ崎宿~大磯宿)を無事歩き終えた。
最高気温34度の猛暑のなか、最後まで全員何事もなく歩けたのは何よりだった。
半ば諦めかけていたのだが、花水橋手前で”うなぎ”にありつけたのは幸運以外の何物でもない、と思っている。
次回(8月24日)は、大磯宿から国府津までを歩くことにしているが、まだまだ暑さが厳しいことが予想される。
しっかりと準備をして臨みたい。
次回は何が昼食になるか、今から楽しみである。

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コメント (2)
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