ウマさんの気ままな行動日記(その2)

ウォーキング、ハイキング、釣り、ドライブ、100名城巡りなどをレポートします。

初っ端から参拝をパス! 日本橋七福神巡り

2024年01月06日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和6年(2024年)1月6日(土)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第16回、令和6年(2024年)第1回「日本橋七福神巡り
ウォーキングに参加した。

ここ数年は新年恒例として各地の「七福神巡り」を実施している。
今年は、”日本橋七福神巡り”を企画した。

通常であれば5日の金曜日に実施するところだが、通勤時間帯は避けるべきということで、
6日(土)に実施することにした。
荒川沖駅8時48分発の電車を待っているところ。


8時48分ちょうど、電車がやって来た。


取手付近の車内の様子。
当会のほぼ全員が揃って座り、楽しいひと時を過ごす。
まだ若干の空席が見られる。土曜日への変更は正解だ。


9時38分、北千住駅に到着し、


東京メトロ日比谷線へ。


日比谷線ホームに到着すると直ぐに中目黒行電車がやって来た。


グッドタイミングで中目黒行に乗車。
日比谷線車内はかなり混んでいたが、平日はもっと混むのかも・・・


10時01分、人形町駅に到着。


人形町駅A2出口(水天宮方面)へ向かう。


水天宮前交差点方面の出口へ。


A2出口付近にあった周辺地図で現在地を確認。
すぐ前の道路は、”甘酒横丁”と呼ばれているようだ。


出発前に点呼を取ると、この日の参加者は24名。
20名前後と想定していたので、予想を上回る参加者である。
年末に一応この日のコースの下見はしておいたが、全員無事にゴールすることを願って、
10時7分、最初の小網神社(福禄寿)を目指して、出発!


甘酒通りを進む。


身体の半分を突き出している鯨のモニュメント前を通過。


しばらく甘酒通りを進むと・・・


小網神社の案内表示板があった。


案内表示に従って進むと、左側に小網神社があった。
既に長い行列が出来ていた。
整理&誘導の人たちも見ることが出来る。


行列は小網神社のあるビルの一角から隣のタナベビルの先で右へと続いるようだ。
一つは銭洗いの行列で、タナベビルの端が最後尾となっているが・・・


もう一つの小網神社の行列は、タナベビルの先の道路を渡った所にある小公園の先まで
延々と続いていた。
ここから最後尾の位置は確認できない。


行列に並ぶかどうか迷っていたところ、NKさんから情報が入った。
最後尾の案内人に確認したら、”2時間待ち”と言われた、そうだ。
女性陣に小公園の端っこで待ってもらってる間、役員で相談した結果、小網神社の参拝は
パスしようということに。
七福神巡りも大事だが、あくまでも当会の目的はウォーキングであるため、ウォーキングを
優先しようということで意見が一致した。
皆さんに説明して納得していただいた。


参考までに昨年12月23日の下見の際に撮った写真を載せておく。
小網神社


福禄寿の像


小網神社の参拝はパスして、次の「茶の木神社」へ。


10時35分、銀杏八幡宮(銀杏稲荷)前を通過


銀杏稲荷には参拝者の姿はなかった。
『さすがに今はこの神社に参拝する人はいないよねっ』


10時40分、茶ノ木神社に到着。
茶ノ木神社には布袋尊が祀られている。
狛犬が狐なのをみると、稲荷神社ということになる。


茶ノ木神社は参道が殆どないので、我々だけでも道路にはみ出て並ぶことになる。


茶ノ木神社に参拝!


茶ノ木神社に無事参拝を終え、次に目指すは水天宮だ。
人形町通りの水天宮交差点から目指す水天宮がはっきりと見えた。


交差点を渡り、人形町通りを少し進むと、


水天宮への入口があった。


薄暗い石段を上ると、正面に水天宮の本殿が現れた。


こちらは七福神の寳生辨財天(ほうしょうべんざいてん)を祀るお堂だ。
かなりの参拝者が並んでいる。


寳生辨財天(ほうしょうべんざいてん)を正面から見たところ。


水天宮の狛犬
ブリヂストンの創立者である石橋正二郎氏によるご奉納とのこと。


水天宮の本殿に参拝!
寳生辨財天には少し離れた所から手を合わせただけで、水天宮を後にした。


入った所とは別の石段を通り、水天宮を後にした。


蛎殻町(かきがらちょう)のビルの間を進み、最初の信号を左に折れて進む。
次に目指すのは大国神を祀る松島神社である。


暫く進むと新大橋通りに出た。


この辺りは大きなビルが立ち並ぶ。


信号を渡って大門通りをちょこっと進むと、11時10分、松島神社に到着した。


松島神社にはあまり参拝者は並んでいなかった。
『あまり待たなくても済みそうねっ』


おかげで直ぐに参拝することが出来た。


次の目的地は毘沙門天を祀る末廣神社だが・・・


甘酒通り???
下見の時には通らなかったはずだが・・・


通りを一つ間違えてしまい、目指す末廣神社がなかなか見つからない。
近くに来ているのは間違いないのだが・・・


皆さんと一緒に探し回ること約10分、ようやく末廣神社を見つけることが出来た。


目指す末廣神社だ。


かなりの人が並んでいた。


10分くらい並べば済むだろうと考え、ここは列の最後尾に並ぶことにした。


末廣神社の沿革
末廣神社は、江戸時代の初期に吉原(当初葭原と称した)がこの地にあった当時
(元和3年から明暦3年)、その地主神産土神として信仰されていました。
明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新和泉町の
四か所の氏神として信仰されていました。
社号の起源は、延宝三年社殿修復の際、年経た中啓(扇)が発見されたので、氏子の人達が
悦び祝って末廣の二字を冠したものです。


末廣神社の鳥居を潜り、


列に並ぶこと凡そ10分後の11時43分、末廣神社本殿に到着し、参拝!


”毘沙門天像は、彫刻家浮田麻木氏が一木造で彫られた木像を御奉納いただき
お祀りしております” と紹介されている。
末廣神社の狛犬


新たに並んだ人たちの列を見ながら、次の目的地笠間稲荷神社へ向かった。


11時56分、金座通りを5-6分進んだ所に鎮座する笠間稲荷神社に到着した。
笠間稲荷神社の七福神は寿老神である。


笠間稲荷神社の正面の鳥居へ。


当会の皆さんも列を作って行儀よく並ぶ。


正面の鳥居を潜り、


並んで参拝の順番待ちをしているところ。


笠間稲荷神社本殿へ、参拝!!


神社境内の奥には稲荷神の御遣いとなる神使であるたくさんの狐が祀られていた。


笠間稲荷神社の臨時に設けられた縁起物売り場前を通り、


金座通りに面した方の鳥居を潜り、戻ることにした。


金座通りを人形町方面へ戻る際、道路反対側に久松警察署が見えた。


道路を渡り、久松警察署に隣接する久松児童公園で一休みしていくことにした。


12時17分、この日最後の目的地、恵比寿神を祀る椙森(すぎのもり)神社を目指して出発。


人形町交差点を右に曲がって、人形町通りを少し進むと・・・


玄冶店(げんやだな)跡の説明板が
以下のように説明されている。
江戸時代初期、新和泉町(人形町三丁目)のこの辺りは、幕府の医師であった岡本玄冶の
拝領屋敷があったことから「玄冶店」と呼ばれていました。
岡本玄冶(1587-1645)は京都に生まれ、医術を曲直玄朔(まなげんさく)に学びました。
元和九年(1623)、京都に上洛中の徳川家光が江戸へ帰る際に侍医として招かれ、
幕府の医師となりました。
後に法眼から法印に叙せられて啓迪院(けいてきいん)と号しました。
(中略)
玄冶店の名は、歌舞伎狂言作者の三代瀬川如皐が脚色し、嘉永六年(1853)に中村座で初演された
「与話情浮名の横櫛」の「源氏店(玄冶店)の場」の一幕で、お富と切られ与三郎の情話の舞台
となり、その名が広く世に知られるようになりました。
平成十六年三月   中央区教育委員会


史跡 玄冶店 碑


人形町通りを進み、左に折れてさらに右へ曲がると・・・


12時28分、椙森(すぎのもり)神社に到着した。


椙森(すぎのもり)神社に参拝!!


椙森神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が
戦勝祈願をした所と云われています。
室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞祈願のために山城国(京都府)伏見稲荷の伍社の神を
勧請して厚く信仰した神社でした。
そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森・柳森・椙森)の一つに数えられ、
椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
(中略)
境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行を偲んで大正8年に建てられたもの
(昭和28年に再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。
平成8年3月   中央区教育委員会


富塚の碑


(前略)
この富塚は、他に類を見ないと言われ、日本で唯一のものです。
今日では、宝くじの元祖として、多くの人々が心中祈願をしているようです。


境内にはたくさんの絵馬が奉納されていた。


この日最後の目的地である椙森神社の参拝を済ませたので、ゴールの東京メトロ銀座線の
三越前駅へ向かうことにしよう。


ビルの谷間を通ってしばらく進むと、昭和通り(首都高都心環状線)に出た。


少し左側へ行くと横断歩道があった。


首都高都心環状線の下を横断して昭和通りを渡り、


江戸桜通りを中央通りの三越前方面へ。


日本橋コレド室町で食事をして行きたいというKS夫妻とはここで分かれ、三越前へ。


コレド室町前を通過
『凄くモダンでお洒落な感じだね~っ』


12時58分、中央通りに到着した。
向い側に三越本店が見える。


中央通りを横断して、三越前へ。


この日は三越の獅子像前辺りで解散することにした。
ここからは皆さん思い思いの方へ。
『皆さ~ん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『気を付けてね~っ』


我々一行は、やや疲れが出たので、一駅だけだが銀座線で日本橋駅へ向かうことにした。
日本橋八重洲で食事を済ませれば、東京駅から常磐線に最も近いというメリットが得られる。


東京メトロ日本橋駅からは、何人かは好みの場所があるのか、雑踏に消えて行った。
日本橋八重洲付近は地理不案内なため、好みの店を探して街中を歩き周った。
とあるビルの地下入口にうなぎ専門の看板を見つけた。
値段も手ごろ(鰻重上:1,900円、特上:2,900円)だし、生ビールもある。
お腹も空いていたので、思い切って店に入ることにした。


先ずは生ビールで『かんぱ~い』 『お疲れさまでしたぁ』


『今日の生は特別に美味いねっ』


『最初はどうなるかと思ったけど、終わってみれば良かったんじゃないですかねっ?』


『ほんとだよねっ! ビールも最高っ!!』


注文した鰻重上が運ばれて来た。
お腹が空いていたからかも知れないが、とても美味しかった。
これで税込み1,900円はリーズナブルである。
次に東京駅に来た時には必ず立ち寄ることにしよう。
その時は特上を注文したい。


東京駅八重洲の大丸ビルを見上げながら・・・


東京駅へ。


14時21分、東京駅北口に到着した。

この後、14時44分発の常磐線水戸行に乗車し、荒川沖駅には15時53分に到着した。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』

本年第1回目の例会(日本橋七福神巡り)が無事終わった。
初っ端から参拝をパスすることになり、この先どうなることかと心配したが、その後は
特に大きなトラブルも無く、ほぼ順調に参拝を済ませることが出来て、安堵している。
昨年は、一度も休むこと無く例会に参加出来たが、今年も全会参加を目標に、元気に
楽しく歩きたいと願っている。

この日の万歩計は、10,000歩を計測していた。

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雨の予報に振り回される 令和5年忘年ウォーキング

2023年12月15日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和5年(2023年)12月15日(金)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第15回、令和5年(2023年)第20回「忘年ウォーキング
に参加した。

前日、複数(Yahoo、WN、NHK等)の予報では、この日”午前中はかなりの確率で雨”とのことだったので、
役員間で相談のうえ、当初予定していた約4Kmのウォーキングは止めて、”現地「かね㐂」本店に11時30分頃
までに到着して欲しい”と参加者全員に伝えた。
その中で、再度この日の参加の確認を行ったところ、1名減の31名から”参加OK”の回答が得られた。

この日、自分は10時56分発の土浦行電車に乗ることにし、徒歩で荒川沖駅へ。
荒川沖駅には若干余裕の10時45分頃に着いたのだが、何らかの理由で遅れていた10時26分発の1本前の電車が
出発したばかり(10時46分頃)だった。
残念ながらその電車には間に合わなかった。
この時は次の電車に乗れば充分間に合う、問題ない、と思っていたのだが・・・


駅員に確認すると、乗ろうとしていた次の電車(10時56分発)は、先の遅延の影響で到着は5分ほど遅れるとのこと。
『えっ?』 これは想定外であった。


11時ちょうど、5分ほど遅れて、当初乗車予定の土浦行電車が到着した。
この時点でホームには、いつもの当会のメンバーの姿は見ることはなかった。「???」
一人もいないはずはないのだが・・・
もしかしたら、何人かは1本前の電車に乗って行ってしまったのかも知れない。


土浦駅には11時8分に到着した。
この分では、11時30分に「かね㐂」本店に到着するのは、ちょっと厳しい・・・


土浦駅前の様子


駅前の風景などを撮影している場合ではない。
兎に角忘年会場の「かね㐂」本店へ急ぐことにして、桜川方面へ進む。


桜川岸に到着したのは11時13分、どうにか間に合えば良いが・・・


右に折れて桜川の川岸を上流方面へ。


11時17分、桜川橋を通り過ぎて、


さらに川岸に沿って進み・・・


11時20分、匂橋に到着した。
「かね㐂」本店へ行くにはこの匂橋が一番近いはずだ。


急いで桜川を渡る。
暑くはないが、急いでいたのでかなり汗をかいた。


匂橋から桜川を見たところ。(上流方面)


匂橋から桜川を見たところ。(霞ヶ浦方面)


桜川を渡り切り、真っ直ぐ進むと忘年会場となる「かね㐂」本店だ。
遠くに「かね㐂」本店が少しだけ見えて来た。


11時27分、この日の忘年会場「かね㐂」本店に到着した。
何とか時間には間に合ったが、どうやら自分が最後のようだった。


店員さんに案内されて予約した部屋へ行ってみると・・・
既に大勢の皆さんが集まって談笑していた。
皆さんはかなり早く「かね㐂」本店に到着していたと思われた。
メインメニューの”花御膳ランチ”は配膳されている最中だった。


この日は到着が最後になったという負い目の気持ちがあったためか、この日のメインメニュー”花御膳ランチ”の
写真を撮り損なう始末。
そのため、ここではかつて撮った写真を使わせていただくことにする。
4年前の”花御膳ランチ”(2019年12月20日撮影)


『もう来る頃だろうと待ってたよっ』
取り纏め役が一番最後になるとは面目丸つぶれである。
ここは平謝りするしかない。
『遅れましてっ、大変申し訳ありませんっ!!』


離れの部屋には”今や遅し”と男性陣が集まっていた。
この日の参加者は31名。
今年度は4月21日の”牛久運動公園から小野川縁散策”の33名以来、2度目の30名超えである。


各自注文の飲み物とメインメニュー”花御膳ランチ”の残りの品が出揃ったところで、TK会長の挨拶と音頭で
『今年1年間お疲れさまでしたぁ 来年も頑張って楽しく元気に歩きましょうっ!! かんぱ~い!!


主に女性陣が陣取った座敷の方で『かんぱ~い!!


男性陣も負けじと『かんぱ~い!!


食事風景(1)


食事風景(2)


食事風景(3)


食事風景(4)


食事風景(5)


食事風景(6)


食事風景(7)


食事風景(8)


食事風景(9)


食事風景(10)


食事風景(11)
当会最高齢のKKさん
来年の3月には何と卒寿(90歳)を迎えることになる。
会としても何かお祝いをしなくては、と思っているのだが・・・


食事が終わったことから、皆さんにはここ「かね㐂」で解散をして、帰宅の途に就いてもらった。
その後会計担当による清算も無事終わったことから、我々も「かね㐂」を後にして、めいめい土浦駅に向かった。
『皆さ~ん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』
『どうか良いお年を~っ』


予報を信じ、雨を予想して傘を持って家を出たのだが、雨はまったく降らず傘を差すこともなかった。
別に雨を期待していた訳ではないが、何だか調子が外れた感じである。
この分なら当初の企画通り土浦駅に1時間前の10時に集合して、約4Kmのウォーキングも充分可能だった、
と悔やんだが後の祭り。
この日の天気予報にはかなり振り回されたというのが、率直な感想である。
なお、電車の遅れまでは想定していなかったが、皆さんには『11時30分までに現地に集合して下さい』
などと呼び掛けておいて、当の本人が一番最後になるという失態を犯したのは恥ずかしい限り。
もう少し余裕を持った時間に家を出て1本前の電車に乗れば良かったとつくづくと反省している。

この日の万歩計は、10,000歩超を計測していた。

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もみじが見ごろ 小町の里から朝日峠展望公園

2023年12月01日 | ウマさんの「健康ウォーキングの会」
令和5年(2023年)12月1日(金)

原則隔週金曜日、主に地元土浦周辺を歩く「健康ウォーキング同好会」が主催する、
令和5年度(2023年度)第14回、令和5年(2023年)第19回「小町の里から朝日峠展望公園
ハイキングに参加した。

この日の第一集合場所、乙戸沼はすっかり冬の景色になっている。
水位がかなり低くなっているので、乙戸川へ流れる水も今は完全に止まっていることだろう。


乙戸沼公園に集まったのは7名。


車2台に分乗して、出発地の小町の館駐車場に行くと、水車小屋前の駐車場は既に満車状態だった。


第二駐車場に車を停めて集合場所の小町の館前駐車場へ。
既にかなりの人が集まっていた。


この日や次回(12月15日 忘年ウォーキング)の地図などを配布し終え、


TK会長からの注意事項などの説明があり、


9時54分、朝日峠展望公園を目指して、出発!!
いつものように先頭はTK会長が務める。


後に続く皆さん


この日の参加者は22名、ほぼいつもの見慣れた顔ぶれである。
久しく顔を見なかった人も何人か。


目の前には山裾ののどかな風景が広がる。


左は小町山ハイキングコースだが、この日は真っ直ぐに進んで、


朝日峠ハイキングコースへ。
カラフルな旗が棚引いているが・・・


『何の旗だろうねっ???』


旗の下の”お知らせ”には、次のような説明が・・・
 訪れた方から、ここに掲げられてある旗は、「何か意味があるんですか?」と聞かれて、
説明したところ、是非多くの方に知らせ、伝えたらと言われました。
 ヒマラヤの登山口ネパールでは、山頂に無事登頂して、安全な下山を願って掲げてあるそうです。
このハイキングコースは、多くの方に楽しんでいただいておりますが、ネパールに掲げてある
旗に学んで、皆さんが安全に楽しんでほしいと願って掲げたものです。
 朝日峠ハイキングコース整備ボランティア
『ネパールの旗だったんだぁ』


朝日峠登山口へ。
『気を付けて登りましょう!!』


木漏れ日が注ぐ中、薄暗くてやや急な坂径を上る。


『いやぁ いきなり急な上り径だねぇ』


イスに腰を下ろして待っていた先頭Gがにこやかな顔で迎えてくれた。
『久しぶりだからきついよねっ』 『よく頑張ったわねっ』 余裕が感じられる表情である。


やや平坦な径を進む。


道端に佇んでいた不動明王像に心の中で合掌し、


小野小町が飲んだとされる”水飲み沢”を通過。
現在、”水は飲めません”と書かれている。


朝日峠ハイキングコースでも最大の危険個所と云われる岩だらけの径へ挑む。
『滑ると危険だから気を付けようね~』


岩場を流れ落ちる水だが、今は水量は少ない。


左おかめ岩と書かれた分岐点を右方面(朝日峠展望公園)へ。


分岐点から岩だらけの径を上ること約6分、”洗顔沢 休憩所”に到着した。
『いやぁ けっこう堪えるよねぇ』


”洗顔沢 休憩所”
以前は休憩所はあったが、”洗顔沢”なんて名前は付いてなかった。
最近付けられたものと思われる。


遅れていた後続Gを待っていたところ、楽なおかめ岩コースへ分岐したとの情報が・・・


休憩を切り上げ、200m先のおかめ岩コースからの合流点へ行ってみると・・・
遅れていた筈の後続Gが笑顔で迎えてくれた。
『お待ちどう様ぁ こちらも今着いたところで~すっ』


揃って”グーの木”前を通過すると、


”もみじ谷”の看板が現れた。
『今年のもみじはどうなんでしょうねっ?』


もみじ谷の”もみじ”(1)
『まずまずの紅葉なんじゃないっ?』


先頭Gは木製の橋を渡っているところだった。


もみじ谷の”もみじ”(2)
『もうちょっと赤が濃かったら良かったんだけどなっ』


木製の板橋を進む。


もみじ谷の”もみじ”(3)
『赤、黄、緑のグラデーションが素敵ねっ』


『きれいで美しいわねっ』
『ほんとに きょう来て良かったぁ』


もみじ谷の”もみじ”(4)
まだ大半が緑っぽい葉も一緒に観ることができる。
『この木の見頃はもうちょっと先だねっ』


もみじ谷を過ぎて坂道を下る。


朝日峠展望公園を目指す。


緩やかな上りの坂道が続く。


東屋があったので、一休みしていこう。


『今日はそんなに寒くないから気持ちが良いよねっ』
『冷たいお茶が美味いっ!!』


東屋の近くに鎮座している道祖神に合掌し、


朝日峠展望公園へ。


トイレ・駐車場経由で展望公園頂上方面は帰りに通る予定なので、水源の森から朝日峠展望公園方面へ。


展望公園の途中にももみじを観ることが出来たが、色がもう一つといったところだ。


この日2か所目の板橋を進む。


薄暗い森の中で見かけた一瞬の色鮮やかな赤いもみじが美しかった。
『こんな木がもっとたくさんあって欲しいよねっ』


「水源の森」を進み、


続いて「こもれびの森」を進んで行き、


最後の階段を上ると・・・


目の前が朝日峠展望公園だ。


『もうひと上りだねっ』


芝生のような急な坂を上ると・・・


11時19分、朝日峠展望公園頂上(301.8m)に到着した。
小町の館を出発して、凡そ1時間24分かかったことになる。


『ここからの眺めは素晴らしいわね~っ』


霞ヶ浦の土浦市内辺りを望む。
いつもはもっと霞んでいるが、今日ははっきりと見える。


パノラマ写真


この日は筑波山もはっきりと見える。


軽いお茶タイム(1)


軽いお茶タイム(2)


軽いお茶タイム(3)


この日弁当は用意していないため、お茶タイムは早々に終わりにして、下山後にどこかで食事にしよう。
11時37分、展望公園を後にして下山開始である。


朝日峠展望公園の駐車場へ。


朝日峠展望公園の駐車場で体調を整え、


下りはハート石からおかめ岩コースを下ることにしている。
11時43分、下り開始!!


朝日峠駐車場の標高は262mとある。


駐車場からの眺望
まずまずの景色である。


正面山頂に見えるのは小町山のパラグライダーの離陸場だ。
この日、小町山からパラグライダーで飛び立つ人の姿は見えなかった。


駐車場の先の雑木林を進む。


庚申塚を通過し、


小町山方面へ。


おかめ岩と小町山への分岐点、ハート岩を目指す。


杉林の中を進む。


杉林の中をハート岩へ。


『やっぱり、下りは楽だから早いよねっ』


12時5分、小町山への分岐点、ハート岩に到着。
『ハートの形をした石が置いてあるって訳だねっ』


朝日峠では物足りず、さらに小町山方面へ行きたいというメンバー4名とは、ここで分かれることにした。
『お互いに気を付けて帰りましょうね~っ』


残り17名は”おかめ岩”コースへ。


12時12分、”おかめ岩”前を通過
『なるほど、”おかめ”にそっくりな顔をした岩なんだぁ』


”おかめ岩”コースを下る。


12時17分、朝日峠展望公園への分岐点を通過


ゴールの小町の館を目指す。


朝日峠ハイキングコースでも最大の危険個所と云われる岩だらけの径へ。
『下りは滑り易くて危険だからね~』
『落ち着いてゆっくりと下りましょうね~っ』


12時20分、朝方通った小野小町に因んだ”水飲み沢”を通過して、


ゴールの小町の館を目指す。


急な下りの山径を下って行くと・・・


12時33分、朝日峠ハイキングコースの登山口に到着した。


安全を祈願して掲げているというネパールの旗に安全に下山したことを伝え、ゴールの小町の館へ。


『いやぁ 今日はけっこう楽しかったよっ』
TK会長の満足そうな笑顔が印象的である。


小町の館の麓の景色が現れた。
ここまで来るとホッと一息入れたくなる。


小町の館駐車場へ。


12時44分、小町の館駐車場に到着した。
朝日峠展望公園を後にしたのが、11時37分なので、下りには1時間7分かかったことになる。
次回(12月15日忘年ウォーキング)の集合場所などを説明し、この日はここで解散することにした。
『皆さん、今日は大変お疲れさまでしたぁ』


自車に相乗りした4名揃って「小町庵」へ。


”常陸秋そば”の新そばの天もり(1,100円)が美味しかった。


”小町の里から朝日峠展望公園”ウォーキングが無事終了した。
最近、足腰が弱くなっているなと感じることが多くなったような気がする。
足腰が弱くなると老いるのも早くなるということを何かの本で読んだことがある。
そうならないためにも出来るだけ歩くことにしたい。
平坦な道ばかりではなく、時には低山のハイキングなどが効果的だと思っている。
今後も元気で楽しく皆さんと歩きたいものである。

この日の万歩計は、9,500歩を計測していた。

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旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(2日目:最終日)

2023年11月27日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年11月27日(月)

旧東海道第Ⅲステージの前回の第7回(関宿から草津宿)は、2023年5月13日から5月16に歩いた。
残すは草津宿から京都三条大橋までの2宿となっていたが、今回、旧東海道第Ⅲステージ第8回
(草津宿から京都三条大橋)として、2023年11月26日から11月27日にかけて歩いた。

第Ⅰステージ 日本橋から三島宿 2014年1月から2014年10月(凡そ10か月)
第Ⅱステージ 三島宿から新居宿 2016年5月から2018年4月(凡そ1年11か月)
第Ⅲステージ 新居宿から京都三条大橋 2018年5月から2023年11月(凡そ5年6か月)

日本橋をスタートしたのが2014年1月19日(日)だったことから、旧東海道終点の
京都三条大橋までを歩き終えるのに8年10か月かかったということになる。

旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(2日目:最終日)

前日は京阪石山坂本線の中ノ庄まで歩いたので、この日は中ノ庄から歩くことになる。
ホテルを出て中ノ庄駅には7時51分に到着した。
草津宿~京都三条(2日目:最終日)のスタートである。


子供たちが京阪電車の踏切を渡っている。
大人も足早に踏切を渡っており、いままさに通勤・通学の時間帯である。


旧東海道を進む。(中ノ庄駅近く)


少し進むと、膳所城址公園前の看板があった。
近くなので、膳所城址公園へ行ってみよう。


8時3分、膳所城跡公園の入口に到着。
入口には城門が復元されている。
慶長六年(1601年)、徳川家康の命によって築かれ、戸田一西の居城となった。
日本では珍しい湖城だった。


関ケ原の戦いに勝利した徳川家康は、関ケ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)、東海道を制し、
湖上の船運を抑える目的で、現在の膳所城跡公園(膳所崎)に膳所城を築城させました。
築城計画は藤堂高虎が担当し、それまで膳所崎に流れていた相模川を北方に付け替えたといいます。
(以下略)


城門を入ると、正面に膳所城址と刻まれた大きな石の碑があった。


公園内には野外音楽堂などもある。


膳所崎から近江大橋を望む。


旧東海道へ戻り、大津宿方面へ。


8時20分、和田神社に到着
膳所城址公園前の看板があった所から数100mほど進んだ所に、和田神社があった。


鎌倉時代に建築された本殿は、国の重要文化財に指定されている。


境内の公孫樹(いちょう)は、樹齢約600年・樹高約24m・周囲約4.4mの巨木。
関が原の合戦に敗れ捕らえられた石田三成を京へ護送する途中、休止の際に一時繫いだと云われている。


旧東海道を進む。


手製の地図を参考に歩いているのだが、時々現れる東海道の標識などが道案内になるので助かる。


滋賀朝鮮初中級学校を過ぎた辺りから手製の地図と道が合わなくなり、いくばくかの不安を覚えながら進んだ。
旧東海道(?)を進む。


旧山城屋の銀杏の木があった。
かなりな古木で道の真ん中なのだが、事前の情報としては持ち得ていなかった。


道に不安を覚えながら進むと、踏切があった。
京阪石山坂本線の踏切である。
この時点で完全に道を間違っていることに気が付いた。


京阪錦駅の所にあった案内表示板で現在地と旧東海道の位置を確認し、


先ほど渡った踏切ではなく、京阪錦駅のもう一つの踏切を逆方向に渡り、住宅街の狭くて曲がりくねった道を
数100m進むと・・・


県道18号(湖岸道路)に出た。
ここで、地元の人と思しき方に旧東海道を教えていただき、何とか旧東海道に戻ることが出来た。
このミスにより、石坐神社と北惣門跡を見過ごすこととなった。


教えていただいた旧東海道を進むと、


番場一丁目の案内図があった。
よく見ると旧東海道が青色で示されている。


ほどなく史跡 義仲公・芭蕉翁墓所の義仲寺に到着した。
時計は9時8分を差していた。


義仲寺境内
義仲寺の名は源義仲を葬った塚があるところから来ていますが、室町時代末に佐々木六角氏が建立した
との伝えがあります。
門を入ると左奥に俳聖・松尾芭蕉の墓と並んで木曽義仲の供養塔が立っています。
木曽殿と背中合わせの寒さかな」という著名な句は、芭蕉の門人又玄の作です。
境内にはこの句をはじめ、芭蕉の辞世の句「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」など多くの句碑があります。
また、巴御前を弔うために祭ったといわれる巴地蔵堂もあります。
昭和四十二年(1967年)十一月に国指定の史跡となりました。
大津市教育委員会


何と!! ”月曜日は閉門”とさせていただきます、とのこと。 残念!!


旧東海道を進む。
また京阪線の踏切があった。
右手に石場という駅が見えた。


またしばらく進むと、平野神社横と書かれた案内図があった。


緩やかな坂道を上って行くと・・・


9時21分、平野神社に到着した。


祭神は精大明神で蹴鞠の祖神と云われ、古くから芸能の神として信仰を集めてきた。
江戸時代には、蹴鞠を家職とする公家の飛鳥井・難波両家も当社を信仰し、その神事に奉仕していた。
毎年8月に境内で蹴鞠祭が催されている。


旧東海道を進む。


お城のような建物が・・・
後で調べたが、琵琶湖文化会館と思われる。


可愛らしい生水地蔵尊前を通過


滋賀県庁舎らしき建物が見えた。


旧東海道を進む。


古い宿場町の家並みが続く。


かつての大津宿の面影を今に伝える景色だ。


9時53分、京町一丁目交差点に到着した。
京阪電車が目の前を走っていくのが見えたが、交差点に踏切は見当たらない。


京町一丁目交差点は、札の辻であった。
札の辻の名は、江戸時代、幕府の法令を記した高札が建てられた四つ辻であったことに由来しており、
旅人たちに、馬や人足を提供する大津宿の人場会所もこの角にあった。
ここは、東海道と北国海道(西近江路)の分岐点でもあり、京都から来た東海道は東へ向かい、
西へ行くと北国海道であった。


現在、京町一丁目交差点(札の辻)には、大津市道路元標の石碑が建てられている。


京阪電車の踏切を横断して京都方面へ。


八町通の碑
上関寺町からから札の辻までの距離が八町(約872m)あったからとも、その間に八か町あったことによる
ともいわれています。
江戸時代の東海道にあたり、道の両側には多くの旅籠屋がありました。
なお、碑の立つ場所は、大名などの宿泊する本陣跡です。


近くに明治天皇聖跡の碑が建てられていた。
大津宿には二軒の本陣があり、この地はそのうちの大塚嘉右衛門宅である。


大津市御幸町辺りを通過


10時10分、JR東海道本線の上を通過


京阪京津線の踏切を横断してしばらく進むと・・・


10時13分、関蝉丸神社下社に到着した。
琵琶の名手蝉丸を祭る蝉丸神社は、逢坂山の麓の旧東海道沿いに三ケ所ある。
関蝉丸神社下社はそのうちの一つなのだろう。


京阪電車の蝉丸神社の踏切の先が蝉丸神社下社になる。


蝉丸神社下社本殿


本殿近くに 謡曲「蝉丸」と関蝉丸神社の説明板があった。
幼少から盲目の延喜帝第四皇子蝉丸の宮を帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。
此の世で前世の罪業の償いをする事が未来への扶けになるとあきらめた宮も孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
一方延喜帝第三皇女逆髪の宮も、前世の業因強く、遠くの果まで歩き回る狂人となって逢坂山まで来てしまった。
美しい琵琶の音に引かれて偶然にも弟の宮の蝉丸と再会し、二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆きあい、
姉宮は心を残しながら別れて行く、という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。
蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、冷泉天皇の頃、日本国中の音曲諸芸道の神と勅し、当神社の
免許を受けることとされていたと伝えられる。


境内には蝉丸が詠んだ百人一首でも有名な句碑が建てられていた。
これやこの 行くも帰るも 別れつつ 知るも知らぬも 逢坂の関


旧東海道を進む。
この辺りは国道1号線と同じ道を歩くことになる。


また、直ぐ左側を京阪電車が走っている。


名神高速道路の下を進むと・・・


右手に関蝉丸神社上社が見えた。
道路を横断するのも大変だし、ここはパスすることにしよう。


そに少し先の弘法大師堂の隣に、逢坂常夜燈があった。


さらに進むと・・・


逢󠄀坂山関址の碑と逢坂常夜燈があった。
逢坂の関は、伊勢の鈴鹿・美濃の不破と並ぶ天下の三関のひとつと云われる。
隣の逢坂常夜燈は、寛政6年(1794年)建立、とのこと。


逢坂山を越えた辺りに来ると、「かねよ」の大きな看板が・・・
”日本一のうなぎ” と謳っている。
明治5年(1872)創業の老舗「かねよ」は、浜名湖産の国産うなぎを使用したうなぎ料理店、とのこと。


旧東海道(国道1号)を進む。


大津算盤の始祖・片岡庄兵衛の碑
江戸時代、東海道筋のこの付近で売られていた大津算盤は、慶長十年(1612年)、片岡庄兵衛が
明国から長崎に渡来した算盤を参考に、製造を始めたものと伝える。
同家は以後、この碑の西方にあった一里塚付近(旧今一里町)で店を構え、幕府御用達の算盤師になったという。
なお昭和初期まで、この碑の場所にも同家の御子孫が住まわれていた。


少し進むと、右一里町と彫られた道標があった。


さらに進むと、今一里塚町の表示が・・・
この辺りが日本橋から百二十三里目の走井一里塚ではないかと思われる。


国道1号を進むと、旧東海道(国道1号)は、名神高速道路の下を潜って進むことになる。


旧東海道を進む。


上横木を過ぎた辺りで、


”この先歩道行き止まり”の表示版が・・・


その先の土産物店(走り井餅本家?)の警備員と思われる方に『この先は行き止まりだから手前の地下道を
通れば反対側に渡れますよ』とのアドバイスをいただき、地下道を潜って反対側へ。


この場所は、国道1号と国道161号(西大津BP)の交わる箇所で、かなり複雑だったが、苦労の末、
何とか反対側へ抜けることが出来た。


旧東海道の案内マップを見つけた時には、ホッとした。


旧東海道を進む。


車石の説明板があった。


大津と京都を結ぶ東海道は、米をはじめ多くの荷物を運ぶ道として利用されてきました。
江戸時代中期の安永8年(1778年)には牛車だけでも年間15,894輌の通行がありました。
この区間は、大津側に逢坂峠、京都側には日ノ岡峠があり、通行の難所でありました。
京都の心学者脇坂義堂は、文化2年(1805年)に1万両の工費で、大津八町筋から京都三条大橋
にかけて約12Kmの間に牛車専用道路として車の轍を刻んだ花崗岩の岩を敷き並べ、牛車の通行に
役立てました。
これを車石と呼んでいます。


車石


旧東海道(三井寺観音堂辺り)を進んで行くと・・・


11時56分、京都市の案内標識があった。
ついに京都に入ったか、という気持ちになった。
あともう一息、頑張ろう!!


11時59分、旧三条四ノ宮を通過。


徳林庵という臨済宗南禅寺派の山号を柳谷山という寺の六角堂があったので、ここで少し休憩して行くことにした。


山科廻地蔵(めぐりじぞう)六角堂
現在の六角堂は江戸時代の作で山科廻地蔵を安置しています。
はじめ伏見六地蔵にあった六地蔵尊像は、後白河天皇の信仰を受け、平清盛・西光法師らの手により、厄病退散、
都往来の路上安全、庶民の福楽利益結縁を祈願し、それぞれの街道の入口六ヵ所に六角堂をつくり一体ずつ
分置されました(1157年)とあった。


旧東海道を進むと、12時18分、山科駅前交差点に到着した。


既に12時半近くになっていたので、山科駅でお昼にしていくこにしよう。


JR山科駅前にうどん・そば店があった。


肉うどんを注文(チケット購入)した。


昼食後、再び旧東海道を進み、京都三条大橋を目指した。


明治天皇御遣跡の碑前を通過


”おいしい焼肉屋さん”の看板
黄金色をした牛(近江牛?)の看板は目立つ。


旧東海道を進む。


史跡 五条別れ道標
この史跡道標は宝永4年(1707年)の建立。
道標には、「右ハ三条通」「左ハ五条橋・ひがしにし六条大佛」などと彫られている。


JR東海道本線の下を潜り、


電柱にあった急東海道の案内標識に従って・・・


府道143号を横断して、旧東海道へ。
随分と狭い径である。
とても旧東海道とは思えないような径である。


旧東海道の案内標識が頼りである。


車がやっと通れる狭い道路は続く。


今度はやや急な坂道になった。
坂道を上って行くと・・・


旧東海道(日ノ岡の峠径)の説明板があった。


(一部割愛)
東海道では幕末まで車の往来が禁止されていたが、都に近い大津・京都間だけは例外であった。
人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道(くるまみち)を分けて、車道には舗石が並べられ
車石と呼ばれていた。
当初、この辺りの日ノ岡の峠道は、大津から京都への難所の一つで、牛車の通る車道は深くえぐられて、
人馬が通る道との段差が生じ、雨が降るとぬかるんで牛車を立ち往生させていた。
そこで木食正禅上人が享保19年(1734年)頃から道路の改修に取り組み、車道に土砂を入れ人馬が通る道との
段差を無くしたり、峠の頂上を掘り下げ、その土砂を坂道に敷いてゆるやかな勾配にするなど工夫し、
元文3年(1738年)に改修を完成させた。こうして峠道は大きく改善されたのである。(以下略)
京都市


13時50分、国道1号線と合流した。


国道1号との合流点は小さな広場となっている。


平成九年十月の京都市営地下鉄東西線の開業に伴い、廃線となった京阪電鉄京津線軌道敷を利用し、
三条通の四車線化及び歩道の整備事業を実施した。
本事業の完成を記念して、三条通の舗石として敷設されていた車石を利用し、往年の牛車道を模した
広場を設置する。
平成十六年一月  京都市


旧東海道(国道1号)を進む。
この辺りは、かつて栗田口刑場があったといわれている所だ。


左側は京都市蹴上浄水場になる。


14時8分、京都市地下鉄東西線の蹴上駅を通過


ウエスティン都ホテル京都前を通過
大きなホテルだ。


14時15分、佛光寺本廟前を通過


粟田神社前を通過
粟田神社は、京都の東の出入口(粟田口)に鎮座し、道中の安全を願って、東海道を行き来する旅人の
信仰も厚かった。


京都三条通り


右手を見ると、平安神宮の大きな鳥居が目に入った。


京都三条大橋を目指す。


白川橋の袂に史跡 三条白川橋道標があった。
京都における現存最古の道標である。
(是より)ひだり ちおんゐんぎおんきよ水みち と彫られている。


ふと見ると、明智光秀の塚(約2分)の案内板があった。
最後の訪問地となるであろう、明智光秀の塚へ行ってみよう。


白川沿いに進み、


さらに案内に従って小さな路地を入って行くと・・・


明智光秀公の塚があった。


明智光秀の塚
天正十年(1582年)六月二日、明智光秀は本能寺(下京区)に宿泊していた主君・織田信長を急襲し、
自害させました。
しかし光秀は、備中高松城(岡山市)から引き揚げて来た羽柴秀吉(豊臣秀吉)と、十三日に山崎(天王山)で
戦って敗れ、わずかな家臣とともに近江の坂本城を目指して逃れます。
そしてその途中、小栗栖(伏見区)の竹藪で地元の農民に襲われて重傷を負い、自害して家臣に首を討たせた
と云われています。(以下略)


白川沿いに三条通りに戻り、


三条大橋を目指す。


古川町商店街を通過し、


三条大橋へ


京阪三条の信号を渡った所に、


高山彦九郎正之 皇居望拝之像があった。
高山彦九郎は、群馬県の出身である。
十八歳の時以来、前後五回上洛したが、京都に出入りする折には、この銅像の姿のように、
京都御所に向かって拝礼した。その姿は、
大御門(おおみかど) その方向きて橋の上に 頂根(うなね)突きけむ 真心たふと 橘曙覧
と和歌に詠まれた。


14時48分、京都三条大橋に到着した!!


鴨川を渡る。
三条大橋から下流方面を望む。


京阪三条の対岸河原町方面へ。


三条大橋の京阪三条の反対側には”東海道中膝栗毛”で有名な「弥次さん」「喜多さん」の像があった。
この日東海道を歩き終えたという方がいたので、記念にシャッターを押してもらった。


もう一度京阪三条へ渡ることにしよう。
橋の袂に旧三条大橋の石柱があった。


今度は地下鉄東西線のある京阪三条方面へ


三条大橋から鴨川の上流を望む。


京阪三条の三条大橋の袂には、駅伝発祥の地の碑が建てられていた。
駅伝の歴史、ここに始まる
我国、最初の駅伝は、首都五十周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」が、大正六年(1917年)
四月二十七日、二十八日、二十九日の三日間に渡り開催された。
スタートは、ここ京都・三条大橋、ゴールは東京・上野不忍の池の博覧会正面玄関であった。
自身の旧東海道歩きは、ここをゴールとしたい。


旧東海道歩きは、長い間の懸案事項だったが、何とか無事に歩き終わった。
この後京都市営地下鉄を利用して四条のホテルへ向かい、16時15分、ホテルに到着した。



この日の万歩計は、35,000歩を計測していた。
『いやぁ 今日は疲れた~』正直な感想である。


旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(1日目)

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旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(1日目)

2023年11月26日 | ウマさんの「旧東海道」を歩く
2023年11月26日(日)

旧東海道第Ⅲステージの前回の第7回(関宿から草津宿)は、2023年5月13日から5月16に歩いた。
残すは草津宿から京都三条大橋までの2宿となっていたが、今回、旧東海道第Ⅲステージ第8回
(草津宿から京都三条大橋)として、2023年11月26日から11月27日にかけて歩いた。

第Ⅰステージ 日本橋から三島宿 2014年1月から2014年10月(凡そ10か月)
第Ⅱステージ 三島宿から新居宿 2016年5月から2018年4月(凡そ1年11か月)
第Ⅲステージ 新居宿から京都三条大橋 2018年5月から2023年11月(凡そ5年6か月)

日本橋をスタートしたのが2014年1月19日(日)だったことから、旧東海道終点の
京都三条大橋までを歩き終えるのに8年10か月かかったということになる。

旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(1日目)

この日は荒川沖駅6時19分発の電車に乗り、東京駅7時57分発の「こだま707号」で米原へ。
JR東日本の大人の休日俱楽部会員は、「のぞみ」「ひかり」の指定席は利用出来ない。
東海道新幹線で乗ることが出来るのは、「こだま」のみである。
米原駅から東海道線に乗り換えて草津駅へ。
草津駅には12時14分に到着した。


草津駅前には、旧東海道と旧中山道の道標のモニュメントが建てられている。
右東海道いせち(伊勢路)と刻まれている。


草津駅前の道路を旧中山道方面へ。


旧中山道には、”草津歴史街道”の説明板(内容は省略)があった。
ここを右に曲がって行けば、旧東海道との分岐点(追分)になる筈だ。


旧中山道を少し進むと、トンネル(草津川隧道)があった。


草津川隧道の由来に関する説明板はトンネルを抜けた所にあったが、このような内容となっている。


トンネル(草津川隧道)の中は、両側に街道の景色を描いた絵があった。


こちらは宿場の風景だ


トンネル(草津川隧道)を抜けると、右側に高札場が。


反対側には東海道と中山道の追分道標が建てられている。
ここはかつての日本五街道の最幹線で、東海道と中山道との分岐点である。
トンネルができるまでは、この上の川を越せば中山道へ、右へ曲がれば東海道伊勢路へと行けた。
ここは草津宿のほぼ中心部で高札場もあり、この付近は追分といわれ、銅製の立派な大燈籠は、
旅人にとっては大切な目安であった。
常夜燈だけは今もかつての草津宿の名残を留めている。


また、ここには東海道に関する草津歴史街道の説明板(内容は省略)があった。


草津宿の看板


草津宿を進むと・・・


右側に本陣跡の建物があった。
史跡草津本陣跡(田中七左衛門本陣)は、全国に残る本陣遺構の中でも、ひときわ大きな規模を有しており、


延4726㎡の敷地内には、かつての本陣の姿を髣髴とさせる数々の建築物が残され、関札・大福帳・調度品他、
貴重な資料も数多く保管されているなど、近世交通史上、きわめて重要な文化遺産である。
入館料は史跡草津宿本陣のみの場合は240円、草津宿街道交流館との2館共通の場合は350円となっている。


田中本陣跡の少し先に脇本陣跡の建物が。
草津宿には、本陣が2軒、脇本陣が時代によって2~4軒あった。
この家は脇本陣藤屋与左衛門家にあたる。
今はお茶屋(吉川芳樹園店舗兼主屋)になっている。


草津宿街道交流館


交流館の少し先に草津宿の宿場町の地図があった。
宿場町を歩く際にはこのような地図があるのはありがたい。


石造道標
正面「右東海道」、右面「天明七年五月吉日」と彫られている。
以下の説明が・・・
江戸時代後期の作とある。
もともと建てられていた場所は分かりませんが、曲がり角や分岐点で東海道の道筋を示していたと思われます。
右側面に天明7年(1787)の年号が刻まれていることから、現存する道標のなかでは比較的古いものといえます。


「道灌蔵」前を通過


呉服商 万屋善助前を通過


12時42分、立木神社に到着した。


以下は、立木神社HPより
立木神社の創建は古く、縁起によると今から約千二百数十年前の神護景雲元年(767年)のこと、
御祭神である武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国(茨城県)の鹿島神宮を白鹿に乗り旅に出られ
(古来初めて旅立つ事を鹿島立ちと云うのはこの縁による)、諸国を経てこの地に到着されました。
そして、手に持たれた柿の鞭を社殿近くに刺されこう言われたそうです。
「この木が生え付くならば吾永く大和国(奈良県)三笠の山(春日大社)に鎮まらん」
すると、その後不思議にも柿の木は生え付き枝葉が茂り出しました。
里人は御神徳を畏み、この木を崇め神殿を建て社名を立木神社と称したのが始まりと伝えられています。


延暦二十年(801年)、征夷大将軍坂上田村麿将軍が、東北鎮圧に際して、当社にて道中安全と厄除開運を
祈願され大般若経一部を寄進しました。
この霊験に由来し、現在では厄除開運・交通安全の守護神として崇敬を広く集めています。
また、当社は古来より朝野の崇敬厚く五穀豊穣・家内安全・安産・商売繁盛・火災鎮護並びに
勧学の大神としてご神徳高く広く信仰されております。


立木神社を後にして、旧東海道へ。


12時53分、草津川に架かる矢倉橋を渡り、


旧東海道を西へ。


小さな地蔵尊に心の中で手を合わせる。


矢倉道標(市指定有形民俗文化財)
東海道と矢橋街道の分岐点に、かつて「姥ケ餅屋」があった場所の北の軒先に一基の石造道標があった。
これは、東海道を道ゆく旅人を矢橋の渡し場へと道案内するものであった。
この道標は、歌川広重の浮世絵をはじめ、「東海道名所図会」や「伊勢参宮名所図会」などに紹介された
「姥ケ餅屋」の軒先にも描かれている、とのこと。


南草津駅近くの旧東海道と東海道(国道1号)の合流点


国道1号を渡った先に、野路一里塚跡の碑があった。
野路一里塚は、日本橋から119番目の一里塚である。
現在は、上北池公園になっている。


関ケ原の合戦で、天下を手中にした徳川家康は、慶長6年に東海道、慶長7年には中山道に対する伝馬徴発令を
発布するなどいち早く江戸を中心とする交通、運輸網の整備を進めた。
慶長9年(1604)には引き続き東海道、中山道、北陸道の街道沿いに一里塚を築造した。
(以下略)


この先の旧東海道は複雑と聞いていたが、赤字で示された道標があったので、これを参考にして進んだ。


東海道と書かれた表示板に従って進む。
こういう案内標識はありがたい。


旧東海道を進んで行くと・・・


弁天池を示す地図があった。
赤く表示された道が旧東海道である。


少し進むと、”古き宿駅 野路駅の名残り”の説明板が。
野路の地名は平安時代末期にあり、「平家物語」や多くの紀行文にもその名がある。
ここ野路の十禅寺川と東海道が交わる辺りには、日本六玉川の一つとして古くから歌枕に詠まれた名勝がある。
「千載和歌集」の源俊頼の歌に
あすもこむ 野路の玉川 萩こえて 色なる波に 月やどりけり
と詠まれた野路の玉川である。
萩の名勝として近世には、「近江名所図会」や歌川広重の浮世絵にも紹介されている。 
付近には重要文化財の本殿がある新宮神社をはじめ、野路小野山製鉄遺跡など多くの歴史遺産が所在する。


旧東海道を少し進むと・・・
弁天池があった。


弁財天参道橋を渡って弁天様に行けるようになっている。


弁天池を後にして旧東海道を進む。


月輪という地名の由来が刻まれた碑が建てられていた。
月輪池に由来する地名で、この池に映った美しい月の姿から名付けられたとも、
月輪殿九条兼実の荘園内にあったからともいわれます。
元来は原野でしたが、江戸時代に入って開墾がすすめられ、延宝四年(1676)大萱新田となり、
明治七年(1874)月輪村と改称されました。


曹洞宗普門山月輪寺行者堂


月輪寺行者堂には、新田開発発祥の地碑と


明治天皇御東遷御輦之所(めいじてんのうごとうせんごちゅうれんのところ)の碑が建てられていた。


さらに進んで道路を横断した所に東海道立場跡の碑があった。


立場跡の碑の後ろ側は枯れた状態であるが、月輪池と思われる・・・


旧東海道を進む。


一里山橋を渡り、


道路名は不明だが、そこを横断して緩やかな坂道を下って進む。


大江の千里(ちりんさん)
大江の地を荘園として持っていた伝えられる「大江の千里」は平安時代前期の歌人で、三十六歌仙のひとりとして
また、百人一首の第二十三首の歌人として著名な人である。
その奥方がこの地に住まいしていた。
村人はその跡地に野上神社(現在は、御霊神社のお旅所)を建て、その遺徳を偲んだといわれている。
第二十三首「月見れば 千々にものこそ 悲しけれ 我が身ひとつの 秋にあらねど
瀬田学区自治連・瀬田歩こう会


旧東海道と思しき地図があった。


旧東海道を進む。


大場の桜
この山桜は樹齢約200年の古木です。
旧東海道筋にあり、毎年美しい花を咲かせています。
旧東海道と芦浦街道との分岐点にあるこの木は、昔から現在まで人々の様子を見てきた古木です。
この桜は、江戸時代には参勤交代ででみやびやかな列をなして、毛槍を振り振り供奴を連れた大名行列が、
物々しく西に東に行き交っていたのを見つめていたことでしょう。
瀬田学区自治連合会  瀬田歩こう会  瀬田文化振興会


赤い欄干の高橋川を渡り、


桧山神社を左手に見ながら進むと・・・


15時19分、瀬田の唐橋の袂に到着した。


瀬田の唐橋を渡る。


瀬田川に沿って大きなホテルや旅館が立ち並んでいる。


遠くに琵琶湖が見える。
日本三名橋・日本三古橋の一つで歌川広重の『近江八景』のうち『瀬田夕照』はこの橋の風景を描いたもの。
東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしか方法はなく、瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は
京都防衛上の重要地であった。
そのため「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた。


瀬田の唐橋の中州辺り


こちらは京都方面


京阪石山坂本線の線路を越えたところの鳥居川交差点を右に曲がる。


旧東海道を進む。
草津駅をスタートしたのが、12時30分頃だったので、この日は出来るだけ距離を稼いでおきたい。
JR瀬田駅前にホテルを予約しているので、暗くなる直前の16時30分頃まで歩くつもりである。


国道1号下を潜り、


京阪石山坂本線を渡る。


さらにJR東海道本線の下を潜って進む。


工場群が目立つ旧東海道を進む。


農業試験研究発祥の地付近の碑
明治28年4月1日、この旧東海道の向いに広がっていた、粟津が原(旧膳所村別保)に滋賀県農事試験場が
開設以来百年を迎えるにあたり、これを記念して建立(平成7年3月)


大津市立粟津中学校前を通過


膳所城勢多口(南惣門)跡の碑
膳所城下町の南の出入口になる。


旧東海道を進む。


京阪石山坂本線の踏切を横断して右に曲がると・・・


16時7分、若宮八幡神社に到着した。
若宮八幡神社は、壬申の乱(672年)があって3年後の白鳳四年(675年)、天武天皇が宇佐八幡の神託により造営した。


神社の社殿等が完成したのは白鳳八年(679年)で、九州宇佐八幡宮の次に古い八幡宮であり、当初は
粟津の森八幡宮、のちに若宮八幡宮となり、明治から若宮八幡神社となった。
表門は膳所城の犬走り門を移築したもの。


旧東海道を進む。


また、京阪石山坂本線の踏切があった。


旧東海道を進む。


篠津神社
祭神は素盞鳴命(すさのおのみこと)。創始年代や社歴については不詳。
古くから産土神(うぶすながみ)として庶民の信仰を集めていた。
重要文化財に指定されている表門は、膳所城北大手門を移築したもの。


道なりに200mほど進むと、中ノ庄駅があった。
時計は16時20分を少し過ぎようとしていた。
この日はこの辺りでホテルに引き返した方が良さそうだ。
ということで、この日は京阪石山坂本線の中ノ庄駅をゴールとしよう。


この後、京阪石山坂本線で石山まで行き、JR東海道線に乗り換えJR瀬田駅へ行くことになる。
16時40分、JR瀬田駅前のAPA HOTELに到着した。


この日の万歩計は23,500歩を計測していた。


旧東海道第Ⅲステージ第8回 草津宿~京都三条(2日目)

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