コロナが少し収まって、ずっと閉館していた横須賀市中央図書館で資料・文献探しをしました。いつも京急横須賀中央駅から急な登坂を行くのですが、昔ながらの商店街の衰退を行くたびに感じていました。まだコロナ不安で郷土資料のところはガラガラです。ここの郷土資料は他の地域と違って海軍関係の資料が多く、ちょっと手に取って読んでも目的を外れて脱線しそうな本が多い。
昭和20年2月1日に横須賀の海軍に招集された父は30代半ばの年のため大変だったようだ。2月のある日に陸軍航空士官となっていた弟の少尉が面会に来て、初年兵だった父へのいじめが緩和されたといっていた。父の写真帳の海軍入隊記念写真はカーキ色に変色しているが、人数が多く今ではどこに写っているか判らない。
さて図書館訪問の目的は中島三郎助文書付冊の芳子覚書をコピ-することと浦賀奉行の流人改めの記録を探す事だった。図書館の司書さんに頼んで、新横須賀市史資料編近世2を読むこととなった。探す年は嘉永4年4月前後である。高野長英の逃亡を助けた4名が嘉永3年11月と12月に取り調べを受け、年末に南町奉行遠山景元(金さん)によって、流罪の判決となった。当時の記録で1名が獄死していた。
流罪の判決後に流人船で伊豆七島の島に送られるのだが、毎月出るのでなく春秋の2回流人船が江戸から出発する。その行程は小伝馬町の流人専用の牢から霊岸島で2泊ほど宿泊し、親族との最後の別れを行い、浦賀に向かった。当時は流罪はほぼ生き別れに等しいと思われ、徳川将軍の交代の時期に恩赦が行われる時しか戻れなかった。従って島から逃亡を企画する流人もあって、流人記録は必要だった。ところが八丈島の流人の3名の記録は見つからず、三宅島もなくやっと新島で宮野信四郎の流罪と明治元年の赦免の記録が見つかった。その後都立公文書館で他の2名の記録を探したが見つからなかった。小伝馬町牢獄で流人船を待つ間に死去した可能性があるがこの文献は消えているようだ。犯罪者の更生に人生をささげた原胤昭は彼の死去時に彼が更生を助けた人の記録を燃やしたようだ。それは差別や偏見を残すことを恐れたようだ。今でも冤罪はあるが江戸・明治も今では冤罪というものが多数ある。そこで文献が残っていると犯罪でないという証明が必要となる。
浦賀での文献探しで、流人船の船改めの記録は残っていなかった。しかし図書館司書さんに教えてもらった、新横須賀市史資料編近世2の記事で、嘉永4年3月15日に戸田伊豆守氏英が浦賀着任の御見得があった。つまり霊岸島から出発した船を浦賀で船改めの時期に戸田が浦賀にいた。つまり嘉永4年3月中旬以降から4月初めにどのような人物が浦賀にいたのだろうか。消えた流人記録はどこから出てくるのだろうか。