年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

振武と誠

2021年09月19日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
戊申戦争の上野戦争直前、旧幕府となった人たちが新政府軍に意地を見せようとして上野に集まりました。

慶応4年1月の京都の鳥羽伏見の戦いに敗れた前将軍徳川慶喜は江戸に戻り、恭順の意を示し、上野の寛永寺に謹慎しました。しかしそれを認めたくない旧幕臣や一橋家の家臣らが中心となり、結成されたのが彰義隊です。彰義とは「大義を彰(あき)らかにする」の意で、徳川慶喜の助命と復権を目指し、新政府軍がそれを認めないのであれば、戦うことも辞さずという集団でした。
頭取には渋沢成一郎が選ばれましたが、後に抵抗の方針を巡って副頭取の天野八郎と分れ、渋沢は振武軍を組織し、天野らの彰義隊が敗戦後、飯能に拠点を構えました。埼玉飯能で西軍に敗れて,箱館まで逃れました。
 この振武という言葉が鹿児島からの特攻隊の作戦名となっています。振武隊(しんぶたい)は、1945年(昭和20年)3月26日から始まった沖縄戦における陸軍第6航空軍隷下の特別攻撃隊たる飛行部隊の総称である。各隊が固有の番号を冠し、フィリピンにおける「八紘隊」からの連番とするも欠番がいくつか存在している。また九州の6航軍とは別に、第8飛行師団隷下で台湾から出撃し沖縄戦に投入された特攻飛行部隊は誠飛行隊(まことひこうたい)と称され、叔父は台湾からの出撃で誠の作戦名がある。 

 少し前に深谷の渋沢栄一記念館の展示を見ていて、新政府に反抗した渋沢成一郎の記録が何もなかった。歴史は敗者に冷たい。敗戦が近いと知りつつ陸軍特攻作戦名に『振武と誠〛とつけたのはどの様な理由があったのでしょうか。
 誠は幕末の新選組の『誠〛を思い出す。
コメント
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