雫石鉄也の
とつぜんブログ
バケモノの子
監督 細田守
出演(声) 役所広司、宮崎あおい、広瀬すず、リリー・フランキー、黒木華、津川雅彦
なんと贅沢なアニメであることか。上記のような俳優たちの声だけを使っている。
少年蓮は父とは生別母とは死別。家出して渋谷の街をうろついているうちに、熊みたいな顔をした獣のような人間のようなバケモノに出会う。そして渋谷ではない不思議なところに迷い込む。そこはバケモノの街「渋天街」蓮はそこで熊顔のバケモノ熊徹と再会。
渋天街の長老でリーダーの宗師は近く引退する。次期宗師は強く弟子がいなくてはならない。次期宗師候補は熊徹と猪顔の猪王山。この二人は正反対。猪王山は武術の技量に優れ、人格高潔、人徳もあり弟子もたくさんいる。熊徹は乱暴粗暴人徳もなく弟子もいない。力だけはある。
次期宗師になりたい熊徹は蓮を弟子にして九太と名づける。蓮=九太は熊徹のもとで武道の稽古にはげむ。
このアニメを観ていて、先日読んだ「あしたのジョー」を思い出した。熊徹と九太、丹下段平と矢吹ジョー。この二組の師弟はよく似ている。
段平は優秀な名伯楽ではない。ボクシングのトレーナーとしては欠点も多い。ジョーは段平を師匠としては尊敬してない。尊敬はしてないがジムの会長として認めてはいる。このふたりしょっちゅうケンカしてる。でも、紆余曲折なんだかんだあったが段平はジョーを世界チャンピオンへ挑戦するボクサーへと導いた。
熊徹も師匠としては欠点だらけ。九太への技の教え方もぜんぜんダメ。人柄も粗暴で人のいうことを聞かない。師匠の熊徹と弟子の九太はしょっちゅうケンカ。でも九太は武道家として成長する。
この「バケモノの子」も「あしたのジョー」も弟子が成長するのはもちろん、師匠が成長する物語なのだ。熊徹は猪王山に武道の技量、人格人徳すべての面で劣っている。いちどコテンパンにやられてしまう。それでも九太を育てているうちに成長する。そして次期宗師の座をかけて猪王山と相対する。
九太が熊徹のもとで修行して8年たった。少年から青年に成長した。そして渋天街から東京の渋谷へ戻って、進学校の優等生少女カエデと会う。生別の父とも再会。高校を出てない九太=蓮は、この世界で生きていくことを決意。大学へも進学しようとカエデの指導のもと高卒認定を受ける。
蓮を追って猪王山の長男一郎彦がやって来た。一郎彦は超能力で、渋谷に「白鯨」のモビィ・ディックを出現させる。
なんだか二つの映画をくっつけたような映画である。前半と後半は違う映画だといっていい。前半は熊徹と九太の修行物語である。向こう意気だけは強い弟子と、乱暴でヤタケタな師匠。この半端者の師弟が成長していく。本当の強さとはなんて禅問答のようなやりとりも。
後半は蓮とカエデの淡い恋愛ドラマとなっている。ここではカエデが蓮の師匠役だ。勉学と現実世界での師匠であると同時にガールフレンドでもある。そして最後は渋谷をモビィ・ディックが暴れるスペクタクルとなる。なぜ、ハーマン・メルビル「白鯨」のモビィ・ディックなのか。それは観てのお楽しみ。
コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )
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よほど、奇をてらったストーリーかと思いきや、あしたのジョーとか、白鯨とか、名作へのオマージュも多々見られるようで、このメンバーゆえ奇作かと思いきや、遊び心のない、キャストの必要性が見当たりませんね。
この豪華なメンバーは私は違和感はなかったです。
「白鯨」はオマージュがありましたが、「あしたのジョー」は、私だけの解釈です。
その流れで、「あしたのジョー」もありだと思えるわけで、上下関係にも、理想とするものは、規範とかモラルではなく、その当人たちにしか分からない、コミュニケーションの形とか、愛があるのだと思いました。師弟に形式とか道徳とかは無く、個人として、当事者にとって好ましいコミュニケーションの在り方を許される、という事だと思いました。
こう考えると、師弟とか、技術者にこそ、国家とか集団と対峙する、価値観が生まれて来る、と思うのですよ。
この映画や、「あしたのジョー」の師弟関係は、私は、上下関係ではないと思いますよ。弟子と師匠という関係の二人ですが、上下ではなく対等と私は見ました。
国家とか集団は、この映画やあしたのジョーの場合、関係ないと思いますよ。
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