近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

神戸市東部の古墳群とは!そのⅢ

2009年04月23日 | 歴史
神戸市東部の代表的古墳の特徴を、引続き辿っていきます。

☆東求女塚古墳
西求女塚古墳と処女塚古墳が遺跡公園として整備されているのに対して、東求女塚古墳は、明治時代に阪神電車敷設の土取りで取り壊され、現在は碑が残っているのみ。







写真は上から、本古墳の墳丘一部と背景の六甲山及び本古墳の大正時代の記念碑。
この碑は阪神本線「住吉」駅から歩いて5分ほど行った公園の中にある。

神戸市東灘区が設置した、記念碑に付け加えられた案内板の文章は以下の通り。

「東求女塚古墳は、御影塚町の処女塚古墳、灘区都通の西求女古墳とともに『葦屋の菟名負処女(うないおとめ)』をめぐる悲恋伝説ゆかりの塚として古くから有名です。伝説では、菟名負処女をめぐって争った信太壮士の墓だといわれているが、実際は、このあたりを支配した豪族の墓と考えられている。」

六甲山麓周辺には、“スサノオ”を祀る神社が多く、その外側に廣田神社・生田神社を中心とする八幡信仰がある。

最初はスサノオを信仰する人々が住んでいて、そのあと“住吉族?”が瀬戸内方面から入ってきたという見方もあるらしい。

現在、写真の通り、墳丘の一部は公園の中に残っているが、墳丘のほとんどは、土取りによって消滅した。

昭和57年、“遊喜幼稚園”の園舎改装工事に伴って行われた発掘調査では、前方部の墳丘裾部と周濠が発見されたと云う。また、公園整備に伴う調査で、後円部の裾部も残っていることが分かったと云う。

これらの調査の結果から、前方部を北西に向けた全長約80mの前方後円墳で、前方部幅42m・長さ42m・後円部径47mもあり、墳丘の斜面には石が葺かれていたことが分かった。

東求女塚古墳から出土した遺物は、銅鏡・車輪石・剣・玉などで、明治時代の壁土取りの際に発見されたらしい。これらの遺物は、現在、東京国立博物館に保管されている。

この古墳が造られた年代は、出土した遺物から、4世紀後半と考えられている。

東求女塚古墳は別にして、他の2古墳は前方後方墳であり、大和に近いこの地に造られた前期古墳が前方後方形をとっているのはなぜか?

4世紀後半以降には、ヤマト朝廷の威信が広がり、そのシンボルである前方後円墳化が進んだと思われるが・・・・・。

その間、前方後方墳は東海地方から東の地域に多く分布するほかに、出雲地方に多い点や、又出土土器が山陰系であることからも、山陰地方との親密な交流が窺い知れる。


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