近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

芦屋市の阿保親王塚古墳とは!

2009年04月26日 | 歴史
阿保親王塚古墳は、芦屋市域最古の前期古墳で、4世紀後半の築造。
六甲山の南麓、翠ヶ丘台地上に立地する円墳で、径約36m・高さ約3mを測る。

これまで発掘調査は実施されていないが、宝永年間(1704~1711)に古墳の改修工事をした時に、副葬品の一部とみられる銅鏡10枚が出土しており、四神二獣の三角縁神獣鏡の存在が特筆される。





写真は、阿保親王塚古墳正面入口と全景。

阿保親王塚古墳は、大きな木が鬱蒼と茂った森の中にあり、写真の通り“阿保親王墓”として宮内庁が管理している。

現在平城天皇の皇子・阿保親王(西暦792〜842)が祀られており、親王は深く打出浜の眺望を愛で、ここに別邸を営んで風月を友とせれたと伝えられている。周囲350mほどの陵域は旧打出村の自然美を伝える。

平城上皇が平城京遷都の際、嵯峨天皇との対立で“薬子の乱”が起こり、大宰府へ左遷されることになるが、そのとき、阿保親王も平城上皇に連れられ、約14年、大宰府で過ごしたらしい。

そのような不遇もあり、晩年はここ打出浜を別邸にしたのかもしれない。

しかし、この古墳は出土遺物からも築造時期は、阿保親王の没年(842年)よりも500年ほど古いと見られ、古墳名は被葬者とは全く関係ないと云える。

むしろ本墳の性格は、翠ヶ丘古墳群の最有力首長墓で、多量の三角縁神獣鏡の存在から、畿内政権と直接結びついた被葬者が想定される。

尚元禄4年の阿保親王850回忌を機に、親王の嫡孫の流れを汲む“長州毛利家”が墓域を改修し、燈籠を寄進するなど整備に努めたと伝えられている。

阿保親王墓の拝所正面にある石燈籠が、長州藩主毛利候の寄進らしい。