近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

兵庫県の古墳を巡って・・・古墳時代前夜とは!

2009年04月08日 | 歴史
滋賀県内の古墳巡りは、ひとまず終わって、これからは兵庫県の古墳巡りに移ります。
先ずはじめに、古墳時代がスタートする前の兵庫県内の歴史的背景を概観します。

兵庫県内の遺跡は、今から約20,000年前に人類が最初に住み始めた旧石器時代から近世にまで及んでいる。

神戸市と周辺の弥生時代の様相を概観してみると、本格的な集落が形成されたのは弥生時代からで、例えば近畿地方で初めて米作が行われた“水田”が須磨区の戎町遺跡であり、兵庫区の大開遺跡は米作りが始まった頃の低地につくられたムラであった。

西区の新方遺跡は明石川と伊川が合流する地点にあり、昭和45年山陽新幹線の建設工事に伴い発見され、以降これまでに旧石器から鎌倉時代にかけての遺構・遺物が確認されている。



写真は、神戸市の新方遺跡現場。

新方遺跡の範囲は、東西約1.5km・南北約1.0kmの広範囲に及ぶが、特に弥生時代前期の溝状遺構からは、3体の人骨を検出している。

頑丈な顎・頭骨・手足の骨、著しく擦り減った歯等縄文人的な特徴を持っていたことが分かっている。

又同じ遺構からサヌカイト製石鏃が多く検出され、3人体とも石鏃が刺さっていることから戦闘の犠牲者であると見られ、弥生前期には当地で激しい戦いが繰り広げられていたと考えられる。

弥生時代曙の時期に、外交・交易を目的とした瀬戸内海上・陸路の戦略交通ルートを巡って、既に凌ぎを削っていたかもしれない。

弥生中期後半になると瀬戸内沿岸から大坂湾にかけて高地性集落が出現した。代表例として、西区の頭高山遺跡では竪穴住居址やノロシを上げたと見られる跡などと共に、石剣・石鏃などの武器が多数見つかっている。

高地性集落は、大坂湾から瀬戸内海沿岸までの範囲にほぼ限定されており、多くは丘陵地や海を展望できる位置にあることから軍事的要塞のようなものであったと見られる。前述の通り、集落の遺跡からは焼け土なども発見され、ノロシの跡ではないかと推測されている。

芦屋市の誇る会下山遺跡は、三方共急斜面で将に天然の要塞として格好の場所。
当遺跡は、昭和30年代に発見された高地性集落の典型例として、全国的にも著名な遺跡になったと云う。





写真は上から、芦屋市の会下山遺跡現場及び鉄鏃など武器類。

当遺跡からの出土遺物を点検してみると、大型で重く殺傷力の高い戦闘用磨製石鏃や鉄鏃・石剣・石弾等の武器が非常に目立つが、乱世を反映していると云える。

ノロシを上げた跡も見られ、当時西宮山麓にも高地性集落が並んでいたこと、当遺跡からの展望は、眼下に山麓平野・淡路島から大坂湾を巡る地域を一望できること等を考え合わせると、戦乱に備えた連絡手段・防御戦術が見えてくる。

出土した土器類を分析すると、全体の約75%が弥生時代後期のモノと言われ、「倭国大乱」の時期に相当する。

会下山遺跡から観察・推測できる乱世情勢は、邪馬台国誕生前夜の「倭国大乱」を象徴しているように見える。

当時ヤマト朝廷の直接コントロールのターゲットにされていたため、当時の緊張関係がそうさせたかもしれない。

会下山遺跡は、弥生時代後期六甲山麓の“戦乱絵巻”を描けるようなエキサイティングな発見と云える。