1868年5月徳川家達の駿府藩が成立し、7月には、家達・慶喜の駿府移住に伴い、多くの旧幕臣が無禄でもよいからと駿河・遠江に移住してきた。
そして更に1872(明治4)年の廃藩置県によって駿府藩は取り潰され、駿府藩に一旦就職した元家臣は再び職を失い、大失業時代に身を投じたことになる。
民間企業がなかった当時、元家臣達は教師・警察官・ジャーナリストなど狭い門戸を求めて各所に散って行ったと云う。
特に江戸で高禄を得ていた元旗本達は、江戸から持参した兜・刀・書画・骨董類を換金して、取り敢えず延命を図ったらしい。
旧幕臣達が、生き残りをかけ食糧源を求めて何をやったか、苦渋の選択肢を以下紹介する。
駿府藩としては、これら旧家臣に生計を営ませるため、藩内の未開拓地の開墾、特に茶の栽培を奨励した。
駿河地方の茶の栽培は、江戸時代に入ってから発展したが、幕末の清水港開港以来、茶が生糸に次ぐ輸出品となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/b2/22711b5c36afb78ffea4e16bb6031085.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/68/165800669a2b0d8eedb4b6bb13bdd811.jpg)
写真は上から、静岡市西部の牧之原台地に広がる広大な茶畑及び茶園開墾に中心的役割を担った“中條金之助影昭”の銅像。
茶園開墾の先駆的役割を果たしたのが、幕臣・“松岡萬”をはじめ、“中條金之助影昭”を隊長とした“精鋭隊”で、駿府藩になってから“新番組”と名称が変わるが、隊士たち大半が無禄の浪人として、“牧之原”台地開墾の先駆者となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/ae/179f54ea7699576ee57eb63fa946f4b5.jpg)
写真は、“牧之原茶園開墾”事業に名を列ねた旧幕臣名簿。
精鋭隊・新番組は“慶喜”護衛のために、水戸から駿府へと、常に慶喜に随行した。新番組は勝海舟の勧めにより、牧之原開拓に従事したが、剣を鍬に持ち替えた、慣れない開拓事業は、苦難の連続であった。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_5.gif)
過酷な重労働に耐えられず脱落者が相次いだと云う。しかし中條や松岡らの信念・統率力により、見事に茶園開拓に成功した。
中でも、中條は慶喜の側近として駿府に移り、牧之原の茶園開拓に従事したが、その後、明治新政府から中央政界に請われた。
しかし中條は、当時移住士族の多くが、不慣れな作業・環境などで、開墾地に定着できないで苦しんでいた最中、統率者として現地を離れることは罷りならないと、出生話を固辞し、終生官途に就くことなく、牧之原台地開墾に身を捧げたと云う。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/51/0dbaa684ab2a8e4a9f87bcd2a6ccf4a2.jpg)
写真は、大井川の川越人足のイラスト。
そして同じ頃職を失った大井川の“川越職人”たちも牧之原台地に入植し、開拓事業に加わった。
又水戸藩士・加藤木賞三は、多くの水戸藩士が命を落とした混乱期を無事切り抜け、“士族授産事業”のため駿府藩に雇われ、指導者として開墾に従事した。
菊川町をはじめ島田市・金谷町・榛原町など現在では6市町村から成る、“牧之原台地”では、その後大井川越人足のほか、周辺の農民も続々と進出し、茶園は急速に拡大したと云う。
現在の栽培総面積約6,000haは全国茶園面積の約13%、荒茶生産の20%を占めるという日本一の大茶園を作り上げた。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_7.gif)
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写真は上から、富士山麓に広がる茶畑の光景及び現在も名前が残る次郎長町・富士市大渕の開墾地。
更に清水次郎長も、富士山裾野の開墾事業で、自ら鍬をふるい、かつての子分たちも親分を慕って集まり、一緒に原野を耕して農地へ変えていった。
現在当地は、写真の通り、立派な茶畑になっている。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_3.gif)
明治6・7年頃から始まった茶の生産は、駿府に居候していた旧幕臣の“開拓魂”が報われ、気候・土壌・交通の便など地理的条件に恵まれたこともあり、全国稀に見る、日本一大生産地となった。
駿府藩の士族授産のための開墾事業は、牧之原・富士山麓以外に、静岡県内の三方原・万野原・愛鷹山麓などでも行われた。多くの苦行士族が心骨を捧げた。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_1.gif)
そして更に1872(明治4)年の廃藩置県によって駿府藩は取り潰され、駿府藩に一旦就職した元家臣は再び職を失い、大失業時代に身を投じたことになる。
民間企業がなかった当時、元家臣達は教師・警察官・ジャーナリストなど狭い門戸を求めて各所に散って行ったと云う。
特に江戸で高禄を得ていた元旗本達は、江戸から持参した兜・刀・書画・骨董類を換金して、取り敢えず延命を図ったらしい。
旧幕臣達が、生き残りをかけ食糧源を求めて何をやったか、苦渋の選択肢を以下紹介する。
駿府藩としては、これら旧家臣に生計を営ませるため、藩内の未開拓地の開墾、特に茶の栽培を奨励した。
駿河地方の茶の栽培は、江戸時代に入ってから発展したが、幕末の清水港開港以来、茶が生糸に次ぐ輸出品となった。
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写真は上から、静岡市西部の牧之原台地に広がる広大な茶畑及び茶園開墾に中心的役割を担った“中條金之助影昭”の銅像。
茶園開墾の先駆的役割を果たしたのが、幕臣・“松岡萬”をはじめ、“中條金之助影昭”を隊長とした“精鋭隊”で、駿府藩になってから“新番組”と名称が変わるが、隊士たち大半が無禄の浪人として、“牧之原”台地開墾の先駆者となった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/49/ae/179f54ea7699576ee57eb63fa946f4b5.jpg)
写真は、“牧之原茶園開墾”事業に名を列ねた旧幕臣名簿。
精鋭隊・新番組は“慶喜”護衛のために、水戸から駿府へと、常に慶喜に随行した。新番組は勝海舟の勧めにより、牧之原開拓に従事したが、剣を鍬に持ち替えた、慣れない開拓事業は、苦難の連続であった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_5.gif)
過酷な重労働に耐えられず脱落者が相次いだと云う。しかし中條や松岡らの信念・統率力により、見事に茶園開拓に成功した。
中でも、中條は慶喜の側近として駿府に移り、牧之原の茶園開拓に従事したが、その後、明治新政府から中央政界に請われた。
しかし中條は、当時移住士族の多くが、不慣れな作業・環境などで、開墾地に定着できないで苦しんでいた最中、統率者として現地を離れることは罷りならないと、出生話を固辞し、終生官途に就くことなく、牧之原台地開墾に身を捧げたと云う。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_2.gif)
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写真は、大井川の川越人足のイラスト。
そして同じ頃職を失った大井川の“川越職人”たちも牧之原台地に入植し、開拓事業に加わった。
又水戸藩士・加藤木賞三は、多くの水戸藩士が命を落とした混乱期を無事切り抜け、“士族授産事業”のため駿府藩に雇われ、指導者として開墾に従事した。
菊川町をはじめ島田市・金谷町・榛原町など現在では6市町村から成る、“牧之原台地”では、その後大井川越人足のほか、周辺の農民も続々と進出し、茶園は急速に拡大したと云う。
現在の栽培総面積約6,000haは全国茶園面積の約13%、荒茶生産の20%を占めるという日本一の大茶園を作り上げた。
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写真は上から、富士山麓に広がる茶畑の光景及び現在も名前が残る次郎長町・富士市大渕の開墾地。
更に清水次郎長も、富士山裾野の開墾事業で、自ら鍬をふるい、かつての子分たちも親分を慕って集まり、一緒に原野を耕して農地へ変えていった。
現在当地は、写真の通り、立派な茶畑になっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hamster_3.gif)
明治6・7年頃から始まった茶の生産は、駿府に居候していた旧幕臣の“開拓魂”が報われ、気候・土壌・交通の便など地理的条件に恵まれたこともあり、全国稀に見る、日本一大生産地となった。
駿府藩の士族授産のための開墾事業は、牧之原・富士山麓以外に、静岡県内の三方原・万野原・愛鷹山麓などでも行われた。多くの苦行士族が心骨を捧げた。
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