近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 静岡藩士の“功績事業・茶園開墾”

2007年06月15日 | 歴史
1868年5月徳川家達の駿府藩が成立し、7月には、家達・慶喜の駿府移住に伴い、多くの旧幕臣が無禄でもよいからと駿河・遠江に移住してきた。

そして更に1872(明治4)年の廃藩置県によって駿府藩は取り潰され、駿府藩に一旦就職した元家臣は再び職を失い、大失業時代に身を投じたことになる。
民間企業がなかった当時、元家臣達は教師・警察官・ジャーナリストなど狭い門戸を求めて各所に散って行ったと云う。

特に江戸で高禄を得ていた元旗本達は、江戸から持参した兜・刀・書画・骨董類を換金して、取り敢えず延命を図ったらしい。
旧幕臣達が、生き残りをかけ食糧源を求めて何をやったか、苦渋の選択肢を以下紹介する。

駿府藩としては、これら旧家臣に生計を営ませるため、藩内の未開拓地の開墾、特に茶の栽培を奨励した。
駿河地方の茶の栽培は、江戸時代に入ってから発展したが、幕末の清水港開港以来、茶が生糸に次ぐ輸出品となった。





写真は上から、静岡市西部の牧之原台地に広がる広大な茶畑及び茶園開墾に中心的役割を担った“中條金之助影昭”の銅像。

茶園開墾の先駆的役割を果たしたのが、幕臣・“松岡萬”をはじめ、“中條金之助影昭”を隊長とした“精鋭隊”で、駿府藩になってから“新番組”と名称が変わるが、隊士たち大半が無禄の浪人として、“牧之原”台地開墾の先駆者となった。



写真は、“牧之原茶園開墾”事業に名を列ねた旧幕臣名簿。
精鋭隊・新番組は“慶喜”護衛のために、水戸から駿府へと、常に慶喜に随行した。新番組は勝海舟の勧めにより、牧之原開拓に従事したが、剣を鍬に持ち替えた、慣れない開拓事業は、苦難の連続であった。

過酷な重労働に耐えられず脱落者が相次いだと云う。しかし中條や松岡らの信念・統率力により、見事に茶園開拓に成功した。
中でも、中條は慶喜の側近として駿府に移り、牧之原の茶園開拓に従事したが、その後、明治新政府から中央政界に請われた。

しかし中條は、当時移住士族の多くが、不慣れな作業・環境などで、開墾地に定着できないで苦しんでいた最中、統率者として現地を離れることは罷りならないと、出生話を固辞し、終生官途に就くことなく、牧之原台地開墾に身を捧げたと云う。



写真は、大井川の川越人足のイラスト。
そして同じ頃職を失った大井川の“川越職人”たちも牧之原台地に入植し、開拓事業に加わった。

又水戸藩士・加藤木賞三は、多くの水戸藩士が命を落とした混乱期を無事切り抜け、“士族授産事業”のため駿府藩に雇われ、指導者として開墾に従事した。

菊川町をはじめ島田市・金谷町・榛原町など現在では6市町村から成る、“牧之原台地”では、その後大井川越人足のほか、周辺の農民も続々と進出し、茶園は急速に拡大したと云う。

現在の栽培総面積約6,000haは全国茶園面積の約13%、荒茶生産の20%を占めるという日本一の大茶園を作り上げた。





写真は上から、富士山麓に広がる茶畑の光景及び現在も名前が残る次郎長町・富士市大渕の開墾地。
更に清水次郎長も、富士山裾野の開墾事業で、自ら鍬をふるい、かつての子分たちも親分を慕って集まり、一緒に原野を耕して農地へ変えていった。
現在当地は、写真の通り、立派な茶畑になっている。

明治6・7年頃から始まった茶の生産は、駿府に居候していた旧幕臣の“開拓魂”が報われ、気候・土壌・交通の便など地理的条件に恵まれたこともあり、全国稀に見る、日本一大生産地となった。

駿府藩の士族授産のための開墾事業は、牧之原・富士山麓以外に、静岡県内の三方原・万野原・愛鷹山麓などでも行われた。多くの苦行士族が心骨を捧げた。

徳川慶喜物語 旧幕臣の駿府移住

2007年06月14日 | 歴史
慶喜に代わって幼い“亀之助・家達”が徳川家を継ぎ、70万石の一大名として、駿府藩に封じられた時、江戸から一斉に幕臣たちが、清水(現在の静岡市清水区)・静岡に移住した。



写真は、平成11年、開港100周年記念を祝った、清水港。

1868年7月15日に、駿府新藩主・家達が清水港到着、同23日には、慶喜が到着し、ここに静岡藩(当初は、駿府府中藩)が始動した。

そして旧幕臣の江戸からの大移動は、1868年の夏から秋にかけてピークを迎え、人数は家族たちも含めて約2万人に達したと云う。

藩主家達の下で、静岡藩を支えたのは、中老格の“大久保一翁”、幹事役の“勝海舟”や“山岡鉄舟”らで、いずれも江戸無血開城の立役者となった和戦派の人たちであった。
中でも大久保一翁は、薩長藩から「大久保一翁と勝海舟の他に幕府に人材なし」と評されるほどの人物であった。



写真は、大久保一翁の肖像。
大久保は、江戸城明け渡しの担当者として、幕府の敗戦処理を引受けた後は、慶喜と共に駿府に移住した。ここで徳川家と共に、一生を終えるつもりであったらしい。

その後は明治新政府からの度重なる要請により、大久保は静岡県知事・東京都知事・元老院議官などを歴任した。
しかし11年間にわたる、元老院議官として任務中、会議には出席したものの、一言も発言しなかったと云う。徳川家の遺臣として明治政府には協力できないと、元々の頑固者を通したらしい。



写真は、勝海舟の肖像。
一方勝海舟は、朝敵とされた慶喜の赦免、旧幕臣の生活保護など幕藩体制崩壊による大混乱を最少限に抑える努力を、死去直前までの明治30年間にわたって、続けた。

その結果、例えば当時侘しい村でしかなかった横浜に、江戸幕府瓦解で職を失った士族たちを10万人ほど送り込んで横浜港発展に寄与し、駿府にも8万人ほどの旧幕臣と家族たちを移住させて、静岡茶の生産を日本一に押し上げるなど、勝海舟の江戸難民対策の功績は賞賛に値する。

ところで江戸から大量に移動した幕臣たちのうち、多くは無禄移住者であった。
一挙に十分の一に縮小された徳川家石高では、直参の旗本・御家人たち全員を召し抱えることは到底無理であった。

それぞれの家族たちも含め、収入の道を失った幕臣たちが、いわば難民となって清水・静岡にやって来た。
移住先である、西遠は新居(現在の静岡県新居町)から静岡と清水周辺、沼津周辺に至る各地は、物不足からコメや生活物資が急騰し、大いに迷惑したと云う。

コメ不足の一因には移住者による突然の人口増とは別に、当時芽生えつつあった“兵農分離”の原則を覆そうとする農民の領主への抵抗の動き、商人の中には利得のため領外へ米穀を出荷するなど、商人と農民との経済的対立なども原因で、米価高騰に拍車をかけたと見られる。
経済的に困窮する者が続出し、駿府藩では急場凌ぎに、元の禄高に応じて米塩を支給したほど。



写真は、渋沢栄一の肖像。
財政負担の増大に窮した駿府藩は、殖産興業を担当していた“渋沢栄一”のアイディアを採用して、駿河国産の紙・茶・砂糖・漆器などを売り捌き、財源確保に必死であったと云う。

一方地元の人々は、彼らを“お泊りさん”と呼んで、宿泊場所を提供したり、炊き出しをやったりと、至れり尽くせりの温かい手を差し伸べた。
前述の“清水次郎長”もその一人で、地元の人たちによって語り継がれている。

しかし家康以降、徳川家を崇め・サポートしていた地元民とはいえ、当初2万人、後々の移住民を含めると合計約8万人もの江戸難民を受入れるのには、おのずと限界があった。
無禄移住者の江戸難民が、如何に難民から脱したかは、後述する。


徳川慶喜物語  第16代将軍・“徳川家達”誕生

2007年06月13日 | 歴史
1868(明治元)年4月、慶喜が“江戸開城”すると、旧将軍家の後継ぎは、御三郷の一つ・田安家の当主・亀之助と決定した。後の徳川家達(イエサト)である。

当主と云ってもまだ6歳、本来、14代将軍家茂の跡を継ぐはずであったが、幕府滅亡の危機に瀕していた時に、当時4歳の亀之助に将軍が務まるはずもなく、様々な対立の末、慶喜が“ワンポイントレリーフ”した経緯があった。

結局、嫌々ながら将軍の座に就いた慶喜が、自ら幕府を滅ぼすことになったが、さぞかし幕府関係者の慶喜へ恨みは深かったであろうと想像する。



写真は、徳川家達の肖像。

慶喜追討大号令・討幕大号令・江戸開城の結果、悲憤に滅びた徳川幕府は、家茂の正室・和宮や勝海舟など、様々な要人たちの努力で徳川家取り潰しは免れ、家達が第16代徳川宗家当主の座に就くことができた。

しかし家達は、明治新政府より江戸を追い出され、徳川家康ゆかりの地・駿府へ移住した。領土は十分の一と大幅に削られ、多くの幕臣が、この後生活に苦しむことになった。

家達の駿府移住道中、沿道の住民は平伏するわけでもなく、官軍の中には空砲を撃って脅かす者もいたくらいで、今昔の感があったと云う。

1869(明治2)年6月、家達は、版籍奉還(新政府の中央集権化方針として、諸藩主の領地・領民を朝廷に返上)・廃藩置県によって、藩主の座から解任され、藩主は全て華族として東京に集められることになった。

1884(明治17)年、成人した家達は、華族令公布と共に、最高位の公爵に任命され、1890(明治23)年には貴族院議員となった。
そして1903(明治36)年から昭和8年まで、なんと30年間も貴族院議長を務め、華族の頂点に君臨したと云える。

慶喜の子供たちを東京の学校に通わせたり、一族の相談に乗るなど、徳川家のトップとして信頼されたと云う。
家達が総理大臣になる話もあったが、家族会議の結果、これを固辞したため、幻に終わった。

又家達は、ワシントン軍縮会議首席全権を務めたり、日本赤十字社社長に就任したり、国際赤十字の東京会議開催に尽力したりと、歴史の表舞台で大活躍したと云える。



写真は、上野寛永寺・徳川家ゆかりの霊園通用門入口。

家達の国内外の表舞台での大活躍と、慶喜の極めてプライベートな隠居生活とは、好対照であったが、お互いに当時としては長寿を全うしたと云える。
1940(昭和15)年、家達死去、享年78歳。墓所は東京上野寛永寺。

徳川慶喜物語 1868年激動期の“駿府治安状況”

2007年06月12日 | 歴史
1868(明治元)年は幕末から維新に移り変わる、一大変革史の最終章幕開けとなり、戊辰戦争に始まり、王政復古の大号令、慶喜追討令の発布、新政府の征討大号令発布と続き、歴史が倒幕・新政府誕生へ大きく動き出した。

そのような緊迫した状況の中、有栖川宮大総督率いる新政府軍(官軍)が、江戸総攻撃に向けて京を出発した。
官軍の先鋒として駿府を治めていた、浜松藩家老・伏谷如水は、物情騒然たる駿府周辺の警固役として、次郎長を大抜擢した。



写真は、治安警護役を一手に担っていた、清水次郎長一家28人衆。
駿府や清水港の地元民は、元々徳川家領民として徳川家ひいきで、肩で風を切るような態度の官軍は、大嫌いであった。

江戸総攻撃に向けて行進中の官軍を駿府に迎えて、大藩の家老・如水と博徒の親分・次郎長のコンビは、3ヶ月の短い期間ではあったが、いつどこでも起こりかねない衝突・内戦を回避する大役を務めた。



写真は、静岡市内に所在する、現在の浅間神社大拝殿と本殿。
中でも、浅間神社などの駿河の尊王神職らが結成した、武装部隊・“赤心隊”や遠江の“報国隊”が、官軍の東征に加わっていたため、衝突を恐れていたが、事なきを得た。

尊王倒幕運動の波のなかで、駿府・遠州の武装部隊は、神主達を中心に尊王倒幕の兵として決起した。
彼ら民間からの志願兵は、慶喜追討軍に加わり東上した。神主たちの武装蜂起が、政治的な背景・思惑が潜んでいたかどうかは分からないが、純粋に天皇と神官との関わり合いだけだったとは信じがたい。

しかし維新後、慶喜と共に駿府に帰ってきた旧幕臣は、住む家・職・禄など全て召し上げられた。旧旗本・御家人達が、怨念だけを持物に江戸から旧領主の膝元に移住していたと云える。

領主を裏切った形となる官軍メンバーの赤心隊・報国隊の神職たちは、旧幕臣に恨まれていたため、故郷に帰ることが出来なくなってしまったらしい。
故郷に帰れても、現実に官軍に参加した神官や彼ら家族たちが、浪人によるテロ行為に遭遇し、殺傷された。

静岡藩は、赤心隊員殺傷事件の不行届きに、侘びの上申書を新政府に差し出し、領内取締りを一段と厳しくする旨を約束したほど、事態は緊迫していたと云う。

かつて咸臨丸から逃げる旧幕府軍兵士を追い回した神官たちが、その遺恨による報復テロに見舞われたことが発端であった。

1868(明治元)年夏から年末にかけては、慶喜が駿府隠居のため清水港に入港した時期にあたるが、駿府藩内では上述のように、かつての徳川領土民による内ゲバが、頻発した物騒な時期であった。


徳川慶喜物語 “隠居時代の余生トピックス”

2007年06月11日 | 歴史
1869年、ようやく謹慎を解かれた慶喜は、つとめて政治の表舞台から遠ざかろうとし、以降の人生は、政治的には何もない白紙の余生であった。



写真は、静岡市紺屋町の元代官屋敷に移り住んだ、徳川美賀子夫人の肖像。
宝台院から駿府・紺屋町元代官屋敷に移った慶喜は、初めて美賀子夫人を呼び寄せ、10年振りに、ようやく夫婦安息の日々が訪れた。

「なお、茫々と長い春秋を生きなければならない!」とわが身の不運を嘆息する慶喜に、側近たちは胸を詰まらせたと云う。
しかし慶喜は合理主義者であった。長い人生を慨嘆するのではなく、退屈しないよう、静岡での慶喜は、毎日のように外出し、鷹狩・鉄砲・乗馬・投網などに明け暮れた。

世情が落ち着いてくると、慶喜を訪ねてくる人もあったが、誰とも会うことはなかったと云う。



写真は、東京駅近くの日銀本店脇の渋沢栄一銅像。
せいぜい会ったのは、一橋家養子以来の家臣であった渋沢栄一と、政府との関連で保証人のようになっていた勝海舟ぐらいであった。
勝海舟も旧知の人に会うことを避けるように進言していた。

慶喜は、昔話・回顧譚、往時の行動の弁明や誰彼への批判等とは無縁であった。
自分が語ることの影響力を知っての上での、見事な沈黙であったと云う。

1898(明治31)年、参内して明治天皇夫妻に会い、三人だけの和やかな酒宴が催されたと云う。「今日やっと罪滅ぼしができたよ。何しろ、慶喜が持っていた天下を取ったのだから。」と天皇は呟いたと云う。

幕府を投げ出した卑怯な将軍から、維新を成功に導き、皇都・江戸を救った功績を讃える風潮が生まれてきた頃であった。



写真は、公爵となった、徳川慶喜の肖像。
その4年後には、徳川宗家から分家し、隠居から徳川慶喜家当主となり、公爵を賜っている。



写真は、大阪城天守閣。
そして明治36年、慶喜はあの決死の思いをした大坂城を訪れている。天守閣の台上に上がり、しばし四方を眺めていたと云う。

しかし京都へは二度と足を踏み入れることはなかった。幕末当時の暗黒の日々を思い出したくなかったかもしれない。

そして1913(大正2)年、肺炎を患って死去。15人の徳川将軍の中でも、最も長命で、満77歳の大往生であったと云う。

その死の床で、「衰弱を覚えるが、苦しさは去った。」と医師に応えたらしい。
明治を生き抜き、今世紀初頭まで生きた最後の将軍の、最後の言葉であった!

徳川慶喜物語 “慶喜”の後半生概観・東京居住時代

2007年06月10日 | 歴史
慶喜は、1897(明治30)年に静岡を発ち、東京巣鴨の別邸に入り、1901年まで4年間居住し、その年には小石川小日向・第六天の邸に移られた。







写真は上から、東京豊島区・JR巣鴨駅前の別邸跡石碑、及び東京文京区春日町の大銀杏が象徴的な徳川家小日向屋敷跡で、現在は大蔵省官舎及び慶喜終焉の地記念看板。

東京で住んだ巣鴨と小石川の広大な屋敷は、それぞれ山手線沿いの繁華街で、巣鴨は当時の跡形が全くない。しかし小石川の屋敷は、現在は大蔵省管轄の公務員用マンションとして使われているが、3,000坪ほどの敷地に、当時は1,000坪ほどの平屋建て日本家屋で、常時50人ほどの関係者が同居していたと云う。

それまで徳川宗家の隠居家族でしかなかった身分が、維新の元勲たちも大半が死亡すると、慶喜の大政奉還が高く評価されるようになり、1902年、慶喜66歳の時に、公爵を授与され、徳川慶喜家として分家し、当主となった。
この年、“勲一等旭日大綬章”が授けられ、国家最高の功労者となった。

1911(明治43)年、徳川慶喜公爵家を7男の慶久に譲り、今回こそ本当の隠居であった。

1912年、日本橋が架け替えられたとき、江戸を戦禍から守った慶喜に、プロ顔負けの揮毫を願い出て、最初は辞退されたが、懇請が実って漢字の揮毫が、現在も高速道路に掛けられていると云う。

慶喜が晩年、孝明天皇陵に参拝した時、お供に「ここから誰も来るな」と押し留め、長時間一人で頭をたれていたと云う。
東京に戻ると青山墓地に出かけ、墓地内のいくつもの墓の寸法を測り、「将軍職を返上した自分は、徳川家代々の墓地には入らない。今後この家は仏式をやめて神式にする。墓は質素な御陵の形にならい、それを小さくしたものにする」と決めたと云う。下記写真の通り、慶喜のいわば遺言が守られている。

そして1913(大正2)年、病没した。享年77歳。
慶喜の死は、国内大手の新聞各紙で大々的に報じられ、「おおよそ明治維新が成功したのは、慶喜の政権返還の決断による」と、その偉業を讃えていた。
そして政権返上後の潔い身の置き方にも、賞賛している。

ワシントンポストは、日本の救世主、国家を守るために、自らの野心を犠牲にして、職を辞した最後の将軍として、最大級の賛辞を送っていた。

葬儀は、上野寛永寺・斎場で神式に行われ、谷中の墓地に葬られた。



写真は、谷中霊園にある、徳川慶喜の墓所。
谷中霊園は、東京文京区にある、東京都内三大霊園の一つで、慶喜の遺言により、徳川代々の賑々しい霊廟ではなく、当地の簡素な霊園に葬られた。
谷中霊園の墓所には、慶喜と正室・美賀子が、正面左右に並び、真後ろには側室・“幸”と“信”が仲良く並べられている。
側室の墓標には、“新村信子”、“中根幸子”と刻まれている。

徳川慶喜物語 “慶喜”の後半生概観・静岡居住時代

2007年06月09日 | 歴史
これから慶喜の隠遁生活を詳しく遡及する前に、慶喜が上野寛永寺・大慈院に蟄居謹慎してから、水戸を最初に、駿府そして江戸へと移り住み、1913年(大正2年)病没するまでの後半生期の略歴を振り返ってみる。
そのうち、先ず寛永寺蟄居謹慎当時から駿府在住期間、約30年間を取上げる。



写真は、東京鶯谷駅前の寛永寺・旧大慈院。
先ず寛永寺・旧大慈院で、約2ヶ月間、十二畳・十畳の部屋に起床していた。
ただ蟄居・恭順の日々で、慶喜を支えていた容保兄弟ら大名・幕臣も捨てた。
慶喜は、その後1868年4月に水戸・弘道館に入り、謹慎を継続することになった。

この時期、新政府は、徳川宗家の家督を田安亀之助(徳川家達)とし、慶喜に隠居を命じた。徳川宗家を駿河・遠江・三河東部の70万石・駿府へ移封を命じた。

水戸への旅立ちは、木綿の質素な服装・麻裏の草履・髭は伸ばすに任せ、日々の心労でやつれた表情であったとか。別れを惜しんで千住まで見送る群衆の中には、哲学者で側近の西周、山岡鉄舟の姿もあったと云う。
水戸では、水戸藩主・慶篤急逝により主人のいない家に、謹慎の罪を負ったまま預けられる身となった。

当時戊辰戦争・奥羽の形勢が、官軍にとって容易ならないため、猜疑の眼をもって誤解されるのを恐れ、1968年7月には水戸を発って、銚子を経由し、旧幕府所有で日本最初の軍艦・“蟠竜艦”に乗って清水に上陸した。慶喜の情勢判断は慎重、的確であった。

当時、駿河には3藩、遠江には4藩があり、これら7藩は上総に移封されたため、藩士たちは新藩地に向けて、駿府・遠江から移動を余儀なくされていた。
更に江戸開城に伴い、諸藩江戸屋敷詰め藩士たちの帰郷、薩長など新政府関係者の上京もあり、駿府藩に移住した旧幕臣を含めて、東海道は東西からの移住者が交錯して、陸路・海路とも大忙しであったと想像できる。



写真は、静岡市内にある、宝台院跡だが、現在は徳川家記念館。
慶喜は、7月に駿河の清水港経由で、現在のJR静岡駅に近い宝台院に入った。
清水港には松岡万率いる精鋭隊士50人余りが出迎え、宝台院まで警衛して入居させた。

本院は家康公の側室で、二代将軍徳川秀忠公の生母・西郷局を弔う徳川家縁の寺で、現在は徳川家宝物館として一般公開されている。
慶喜は当地で明治2年10月まで1年余りを過ごした。





写真は、静岡市内“元代官屋敷”跡で、現在は料亭“浮月楼”及び浮月楼の庭園。
JR静岡駅から西へ100mほどの場所で、写真の通り、紺屋町の元代官屋敷の記念碑が建てられている。

1869(明治2)年9月、慶喜に寛大な処置が降り、謹慎が解かれたこともあり、10月にはここ浮月楼に移り、これより20年弱、当地に閉居された。
慶喜にとって駿府は、初めての安寧の地であった。



写真は、現在の静岡市・浅間神社。
静岡藩知事となった第16代徳川家達とその家族達は、現在の浅間神社前に住居を構えており、家族の一員である慶喜(家達の義父)は別居していたことになる。



写真は、徳川慶喜の駿府・最後の居住地跡で、現在は西深草市民公園。
明治29年までほぼ10年間、当地に居住した。慶喜の静岡での生活は、合計約30年間に及び、幕臣の生活苦・困窮とは無縁で、趣味の生活に明け暮れた。
写真・油絵・馬術・囲碁・謡曲など文化人として優雅な余生を満喫したと云える。

慶喜と二人の側室との間に、10男・11女の子宝に恵まれた。
静岡移住後の慶喜は、政治との関わりを一切絶ち、旧家臣とも会わなかったと云う。

そして慶喜は謹慎した生活を送るどころか、悠悠自適の生活・全く屈託のない生き方をしていることからも、内心は「してやったり」と笑みを堪えながら晩年を送ったのではないかと想像出来るが・・・・・・・。

徳川慶喜物語 “明治天皇”

2007年06月08日 | 歴史
明治時代を概観すると、憲法制定・国会開設までの前期は、自由民権運動から絶対主義政権の確立期で、経済的には資本主義が発達し、産業革命を迎えた。
後期は日清戦争・日露戦争 により,軍部と結んだ重工業の発展と資本主義の発達がみられ,国家主義的傾向を強めた反面,労働問題・社会主義運動が起こった時代。



写真は、明治天皇の肖像。
明治天皇は孝明天皇を父として、若干・16歳で即位したため、側近の岩倉具視が、絶対主義政府の専制支配者として内治優先・天皇制確立の政策を主導していた。

公武合体論者・孝明天皇から明治天皇への即位は、それまでの朝廷の政治的風土を一変させるのに十分で、急速に討幕・王政復古の路線へと突き進んだ。

明治天皇は、慶喜に大政奉還の勅許を与えると共に、薩長両藩主に討幕の密勅を下し、王政復古の大号令を発して新政府を樹立し、1868年1月からの戊辰戦争で旧幕府勢力を打倒、同年3月に“五箇条のご誓文”を発して、新政府の基本方針を宣言した。



写真は、大日本帝国憲法の原本。

1871(明治4)年6月に、廃藩置県を断行して中央集権体制を実現し、1885年には、内閣総理大臣並びに大臣を置く“合議体内閣制”を施行し、更に1889(明治22)年に大日本帝国憲法を発布した。

明治天皇は、“帝国議会”開設後には、政党勢力と藩閥政府との対立の調停者的機能を遂行し、日清・日露戦争では、大本営で戦争指導の重要な役割を果たした。

大日本帝国憲法は、天皇が立法・行政・司法の三権のみならず、軍事大権も総攬する、絶対統治権者であることを定めたことで、国家運営の根幹を歪め、忌まわしい戦争に至る破局への道の出発点となったと云える。

元来律令制が確立されて以降は、天皇家は政治の実権を他に委ね、権力の座から遠い位置にあって、その存続が保たれてきた。
しかし南北朝時代など天皇家が政治権力を掌握しようとした時には、権力を巡る闘いを激化させ、世は乱れ、政治の瓦解を早めた教訓は歴然と残っている。

そして幕末の尊王・王政復古という大義名分は、山県有朋ほか明治の元勲たちが、近代化の推進に天皇の権威を借り、天皇の名で大改革を実行し、政治の実権はあくまで元勲・元老たちが手中に留めていた。

天皇への権力集中は、形の上だけで、実際には何らの実権も与えられていなかったとも云える。
法形式と実態とが乖離していた体制が誕生してしまった。

そして明治の元勲・元老たちが時代と共に、政治の舞台から消えていくに連れて、旧帝国憲法の欠陥は繕い難くなり、新たな指導者たちが軍部の実権を掌握するに及んで、その後の軍事化と共に、大正・昭和にかけて、破局を迎えることになった。

しかし一方で、帝国日本の統治者として、日清・日露の戦争を勝ち抜いた明治天皇に対しては、「君臨すれども統治せず」とする従来の天皇像が見直され、政治・戦争の指導にも積極的にかかわる「統治する天皇」として再評価され、称えられたが・・・・・・・・。

徳川慶喜物語 “新門辰五郎”とは!

2007年06月07日 | 歴史
新門辰五郎は、江戸時代後期の町火消・侠客・浅草寺門番などを勤めた。



写真は、晩年の新門辰五郎の肖像。
辰五郎も、“江戸無血開城”に関わった一人で、前述した通り、勝海舟と西郷隆盛の”無血開城”交渉が、若し決裂すれば、官軍の進撃の前に江戸市中を焼き払う作戦の指示を、勝海舟より受けていた。
勝が西郷との交渉を前にしたギリギリの作戦であったと思われる。

辰五郎は、上野大寺院別当の仲介で、一橋慶喜と知り合ったと伝えられている。
“禁裏御守衛総督”に任ぜられた慶喜が京都へ上洛する際に、辰五郎は慶喜に呼ばれ、子分を率いて上洛し、慶喜の警護・二条城の防火を任されていたと云う。



写真は、上野寛永寺の根本中堂。
辰五郎は、慶喜が大坂から江戸へ逃れ、上野寛永寺に謹慎した際の寺の警護、上野戦争での寛永寺伽藍の防火、慶喜が水戸・静岡へと移り謹慎すると、それぞれ警護を務めていた。

辰五郎は慶喜と共に静岡に移り住み、駿河国清水の侠客であった清水次郎長とも知縁であった。
そして辰五郎が江戸・浅草に戻る際に、慶喜の警護を次郎長に託したと云う。



写真は、新門家の菩提寺・東京西巣鴨の盛雲寺。

辰五郎没後は、浅草と云う繁華街で、辰五郎の名声を売ったことから、小説・講談・歌舞伎・テレビ番組などで、暴れん坊将軍に登場するキャラクターの題材とされた。



写真は、雷門で有名な“浅草寺”。江戸の文化・信仰の中心であり、徳川幕府の祈願所でもあった。
新門の末裔となる町田家は、今日まで浅草寺の御用を勤めていると云う。

辰五郎の一人娘・お芳は、奥付き女中として一橋家に奉公にあがり、いつ頃からか、慶喜の愛妾となったと伝えられている。
下町育ちで男まさりの娘・お芳は、お洒落で江戸っ子の粋を好んだ、慶喜には相性が良かったのかもしれない。

普段言えない愚痴も、お芳だけには話していたようで、お芳は、次第に孤立していく慶喜を影で支えていたと云う。

晩年お芳の消息がプッツリと途切れてしまうが、生涯結婚せず仕舞いであったとか。


徳川慶喜物語 “清水次郎長”とは

2007年06月06日 | 歴史
任侠ヤクザ映画で、一世を風靡した「食いねえ・食いねえ・寿司食いねえ・・・・・」のセリフでお馴染みの、“清水次郎長”(以下次郎長)親分は、実は“江戸無血開城”に一役果たした人物。
そこで次郎長とはどういう人物なのか、特に慶喜とのかかわりについて、振り返ってみたい。





写真は上から、次郎長生家の表玄関で、筑後200年ほどの建物は現存、下は一般公開されている屋内のリアルな様子・仏壇が見える。

次郎長は、幕末・明治の侠客で、駿河国清水湊の船頭の三男に生まれ、米穀商の養子となり、やがて米穀商の主人となった次郎長は、人を斬り清水を出奔、無宿渡世の門をくぐった。



写真は、当時次郎長が使った装身具・調度品。
そして諸国を旅して修行を積み、清水湊に一家を構えた。

前述した通り、“東征大総督”が、1868年3月15日の“江戸総攻撃”を目指していた途上、次郎長が街道警護役と山岡鉄舟の護衛役に任じられ、駿府で西郷隆盛・山岡鉄舟会談を成就させ、“江戸無血開城”に導いた陰の功労者であった。

その次郎長は幕末には、東海道一のやくざの大親分として名を馳せたが、明治に入る頃からは、富士山麓開墾や清水港の整備、英語塾開設など、「世のため人のため」の事業に熱心であったと云う。

そして慶喜公が、駿府在住中は、かなり頻繁に清水港に遊びに来ていたという記録が残されている。
慶喜公は、早朝人力車で清水港に出向き、趣味の“投げ網漁”(投網)を楽しんでいたらしい。その際、次郎長は慶喜公の警護役を担っていたらしい。



写真は、現存する、かつて次郎長経営の船宿「末広」で、現在は次郎長ゆかりの品々の展示場として活躍中。

慶喜と次郎長とは確かに顔なじみであったようで、慶喜の息子と遊ぶ光景が記録に残っており、又慶喜が撮影したという、次郎長経営の船宿「末広」の写真も伝えられている。







写真は上から、清水港の隠れた銘菓・“追分羊羹”は、現在も健在で清水名物として300年の歴史を持つ。
写真は、上から銘菓・店頭光景、元禄8年創業と記された包装紙、及び竹の皮に包まれた、手作りの蒸し焼き羊羹。

もっちりした食感とあっさりとした甘味が特徴で、試食してみたが、なかなか美味で飽きが来ない。素材や控えめな甘味は当時のまま引継がれていると云う。
甘党でもある慶喜公が、駿府清水銘菓・“追分羊羹”の店にしばしば顔を出していたそうで、次郎長が案内したのではないかと云われている。

次に逸話の例では、榎本武揚率いる旧幕府軍艦隊・咸臨丸が暴風雨により破船し、清水港で修理中に新政府軍により発見され、襲撃された結果、多数の死者が駿河湾に投げ出され、浮遊していた。
次郎長は放置された遺体を子舟で収容し、向島の砂浜に埋葬したと云う。

静岡藩責任の大参事であったが、旧幕臣の山岡鉄舟は、次郎長に深く感謝し、これが機縁となってお互いの交際が深まったという。





写真は、次郎長の墓所がある、清水町の梅蔭禅寺及び次郎長墓所。

そのほかにも、清水港の発展のために、輸出用お茶の販路拡大に寄与したり、静岡の刑務所にいた囚人を督励して農地開墾に従事させるなど、博打を止めた後の次郎長の変身振りが、記録に残されている。


徳川慶喜物語 “戊辰戦争・箱館戦争”

2007年06月05日 | 歴史
榎本武揚ら一部の旧幕府軍は、1868年8月、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出、仙台で大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍隊を収容して蝦夷地に向った。

東北地方における奥羽諸藩の反新政府動向は根強く残っていたため、新政府は“奥羽鎮撫総督”を置き、新政府軍を派遣し、仙台藩に会津藩・庄内藩討伐を命じた。

しかし仙台藩は米沢藩と共に会津藩援護に廻った。
長岡等北越6藩も加わり、“奥羽越列藩同盟”を結成し、彰義隊の残党も参加して、新政府軍に対抗した。

新政府軍は、会津藩を降伏させ、相前後して米沢・仙台・盛岡・庄内藩なども帰順して、半年にわたった東北戦争は終わった。

東北諸藩に対する、戦争責任の処分が発表されたが、いずれも藩主は死一等を減じられ、一旦封土没収の上、削・転封されたと云う。



写真は、箱館政権総裁・榎本武揚の肖像。
一方総裁・榎本武揚らは、旧幕臣を蝦夷地に移住させるなど戦力を補充し、箱館の“五稜郭”などの拠点を占領して、“地域政権”(箱館政権)による蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵してきた。





写真は上から、五稜郭の星型要塞及び五稜郭跡の石塔。

旧幕府軍は、松前・江差などを占領するも、新政府軍に対抗する決め手であり、新政府軍の脅威でもあった、“開陽丸”を折からの突風で、座礁沈没させて失った後は、津軽海峡の制海権をも失ってしまった。



写真は、幕末の軍艦・開陽丸。
開陽丸の沈没は、旧幕府軍にとって決定的ダメージであった。
加えてアメリカが、新政府軍に最新鋭艦を引き渡し、俄然優位に立った。

旧幕府軍は、1869年3月には宮古湾海戦を挑んだが敗れ、結果的に新政府軍の蝦夷地への上陸を許し、五稜郭で土方歳三は戦死し、弾薬・兵糧も底をついた新撰組などが新政府軍に降伏した。



写真は、函館市に残る箱館戦争供養塔。

総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎、陸軍奉行・大鳥圭介らは、新政府軍の参謀・黒田清隆に降伏を申し入れた。

そして5月18日、五稜郭で最期の1,000人余りが投降し、開城したことで、9ヶ月間続いた“箱館戦争”は、ここに終わった。
鳥羽伏見戦争が始まって1年4ヶ月後、ついに戊辰戦争は終焉をみた。

以上箱館戦争を概観してきたが、最後まで疑問に残るのは、榎本武揚は旧幕府軍3,000人ほどを連れて蝦夷地に向かい、何を目指したのか?

当時の幕閣では随一の開明派であった榎本は、恐らく蝦夷地で、地方自治政権を目指したのではないか?
新政府に対する反乱軍ではない、という立場を取るには、それしか方法がないし、若し新政府が自治政権を認めない場合は、諸外国に認めさせようとしたのではないか?


徳川慶喜物語 “戊辰戦争・上野戦争”

2007年06月04日 | 歴史
上野戦争は、彰義隊ら旧幕府軍と、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍との間で行われた戦いだが、僅か一日で新政府軍が勝利した戦い。

彰義隊は、1868年に前征夷大将軍・徳川慶喜警護のために旧幕臣の渋沢成一郎・天野八郎らにより結成された旧幕臣による尊王恭順組織で、旗本や浪士3,000人ほどが集まったと云う。

と云うのも、前述の「無血開城」で触れた通り、1868年3月、“鳥羽伏見の戦い”で勝利した新政府軍は、有栖川宮熾仁親王を“東征大総督”に任命し、3月15日の“江戸総攻撃”を目指して、京をスタートしていた。

彰義隊には、旧幕臣の抗戦派も含まれ、当初は本営を本願寺に、後に“上野寛永寺”へ移し、旧幕府の公認を得て、江戸の町を警護しつつ、いざ出陣の機会に備えていた。



写真は、上野寛永寺大慈院の入口。
1868年4月まで、上野戦争前夜、慶喜は上野寛永寺大慈院に謹慎中で、警護には山岡鉄太郎ら精鋭隊70人余りと見廻組50人余りが当っていた。

しかし同月中には、慶喜は寛永寺を出て、水戸弘道館に移ったこともあり、彰義隊のうち、天野八郎ら強硬派が台頭し、旧新撰組の残党も加わり、徳川家菩提寺でもあった上野寛永寺に集結した。

彼らは再三にわたる勝海舟の解散命令にも応じず、徹底抗戦の姿勢を崩さなかった。主人なき戦いに、死に場所を探していたのかもしれない。

と云うことで、江戸を戦火から守るため、いわば義勇軍が立ち上がった。
新政府軍は、長州藩の大村益次郎が指揮し、上野を封鎖するために、要所に兵を配備し、更に彰義隊の退路を限定するため、主要道を分断し、一部だけ退路を残して逃走予定路と看做していた。



写真は、上野戦争における、彰義隊の戦い振り。
1868年5月、新政府軍側から宣戦布告がされ、3方で両軍が衝突し、雨天の中で新政府軍は、最新の銃砲を使って有利に展開、新政府軍の西郷も指揮官として参画していた。朝に始まった戦闘は、その日のうちに終結、彰義隊は2百数十名の死者を出し、ほぼ全滅したと云う。



写真は、元“上野寛永寺”正門の黒門。
彰義隊はこの“黒門”を本陣として戦ったが、写真のように、弾痕の跡が生々しく多数残っている。この黒門は、現在円通寺に移され、残している。



写真は、山岡鉄舟筆になる「戦士之墓」碑がある場所で、彰義隊士遺体の火葬場跡であり、現在は彰義隊の墓所として祀られている。
特に上野寛永寺は、大村益次郎率いる官軍2,000人の総攻撃を受け、もろくも敗退した。官軍は彰義隊に対しては厳罰で臨み、死体の後片付けさえも許さなかったと云う。

戦場になったのは、上野付近と云う限定的な場所で、中でも寛永寺境内にあった建物・約1千戸が焼失したが、江戸の町が戦火に遭遇することはなかった。

と云うことで、彰義隊士は江戸町民の命・財産を守るために立ち上がった点は、幕末・維新史に残る、悲劇の中にも、心に留める武勇伝として、銘記しておくべき。


徳川慶喜物語 “戊辰戦争・会津戦争”

2007年06月03日 | 歴史
1868年1月、鳥羽伏見の戦いの後、会津藩主・松平容保は幕府の首謀者として、新政府から追討令を受けた。
追討役を命じられた仙台藩・米沢藩など東北諸藩は、むしろ会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成し結束を強めた。

明治新政府は、このような不穏な動きに対して、会津戦争で対抗した。
会津藩及びこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力に対して、薩摩・長州藩を中心とした明治新政府との戦いで、現在の福島県・新潟県・栃木県が戦場となった。



写真は、会津若松城、別名鶴ヶ城の勇姿。
旧幕府軍は、会津藩家老・西郷頼母を総督として、新政府軍は、薩摩藩参謀の指揮のもと、一進一退を繰返しながらも、新政府軍がじりじりと北上し、二本松城を落とし、いよいよ若松城・鶴ヶ城へ侵攻し、総攻撃に出た。



写真は、15から17歳までの武家男子によって構成された、会津藩精鋭部隊・白虎隊の現代版。

新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。





写真は上から、会津藩の白虎隊自刃の地及び白虎隊士の墓。

この際、西郷頼母邸では、籠城戦の足手まといとなるのを苦にした母・妻子など一族が自刃し、城下町で発生した火災を会津若松城の落城と誤認した白虎隊士の一部が、飯盛山で自刃したという悲しい結末は余りにも無念。

会津藩は会津若松城に籠城して抵抗し、開城後も域外での遊撃戦を続けたが、米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。
そしてついに1868年9月、孤立した会津藩・庄内藩は新政府軍に降伏した。
装備・軍制面など、旧幕府軍は新政府軍に及ばなかった。

その後旧幕府軍の残存兵は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地へ向かったと云う。

会津戦争責任を問われ、藩主・松平容保は死一等を減じられて江戸に禁固、家老など戦争責任者は、切腹処分とされた。
降伏後、会津藩は23万石から斗南藩(下北半島南部)3万石に移封され、厳しい試練に晒された。

会津藩士総勢約1万7千人は、この斗南不毛の地で、寒さと飢えに耐え、慣れない百姓仕事や、北海道へ漁業の出稼ぎなどで、生活難を凌いだと云う。

又薩長藩は、会津戦争の戦死者を“賊徒”として埋葬を許さず、長期間放置された死体は風雨に晒され、鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況であったと云う。
見かねた近所の村長が、戦死者を埋葬したために、村長職を解かれたこともあったらしい。

又薩長の藩兵による会津若松城下での略奪・強姦・虐殺なども激しく、その野蛮さは目を覆いたくなるような冷酷・残虐な行為であったと云う。
これらの措置・行為は、会津民衆の薩長に対する、恨みを残す結果となり、その後も、両者間に気まずい不仲関係が続いたようだ。

ところで会津戦争における白虎隊悲話は余りにも有名だが、それは単なる悲劇の象徴としてではなく、純粋な忠誠心から「武士道」を貫いた少年たちの物語であり、会津人の「律儀にして純真な倫理観」の現れとも云える。

後世の人々は、彼らの、切なくも一途な生きざまに強い感銘を覚え、今も多くの人々が、墓前に花を手向けていると云う。

徳川慶喜物語 “無血開城”の裏話

2007年06月02日 | 歴史
江戸城攻撃中止、江戸城無血開城、江戸の町安泰、そして江戸市民百余万の生命と財産の保全に繫がるに至った、成功秘話を遡及してみる。

☆勝海舟→山岡鉄舟→清水次郎長へとバトンタッチ
1868年3月15日江戸総攻撃に向けて進撃している西郷が静岡・駿府に入ると、幕臣の山岡鉄舟が面会を求めた。



写真は、山岡鉄舟の肖像。
山岡鉄舟は、剣・禅・書の達人として、多くの人材を育成したが、中でも明治天皇の教育係として10年間仕えたほか、日本の近代化にも大きな影響を及ぼしたと云う。

面会を求めたのは、勝海舟の手紙を西郷に手渡すためであった。
手紙の骨子は、「無頼の徒が、新政府軍に対して反乱を起こすか、恭順の道を守るかは、西郷・参謀の措置如何にかかっている。慶喜の処遇を含め、もし間違った処置をすれば、おのずと日本は滅亡の道を歩むだろう。」と、脅しに近いような内容が書かれていたと云う。

西郷は、“朝敵慶喜の家来”と名乗る無刀流・鉄舟の強靭な精神力、西郷に負けず劣らずの堂々とした剣豪に感心し、早速有栖川宮大総督・参謀たちと相談し、降伏条件を箇条書きにして山岡に渡したと云う。

山岡は降伏条件を検討した結果、唯一「慶喜を備前藩に預ける」条項の撤回を申し入れた。
西郷は、「慶喜公のことについては、自分が責任を持って引受けいたしもうす。」との回答に、山岡も大いに感動し、泣いて西郷に感謝したと云う。

東征大総督の参謀であった、西郷が絶大な権限を持っていたことが窺える。
山岡は直ぐ江戸に戻り、勝に西郷との会談の内容・降伏条件等を報告した。

と云うように、江戸総攻撃を未然に防ぐためには、山岡が西郷との会談を無事済ませ、勝のメッセージを伝え、無事江戸に戻るまでの一大事には、特に短期間でのスケジュール消化であるだけに、万全の治安保障が必要であった。
そこで鉄舟の護衛役を担当したのが、街道の治安を一手に引きうけていた清水次郎長親分であった。



写真は、清水次郎長の肖像。
次郎長は、当地では最も有力な親分で、当時の街道縄張り勢力範囲は、三河にまで広がっていた。
山岡鉄舟・清水次郎長は、幕末・明治維新のハイライトといわれる“江戸城無血開城”の立役者であったと云える。
これを契機に始まった鉄舟と次郎長の交流は、次郎長の人生観を大きく変えたと云う。

☆勝海舟の大勝負
1868年3月15日の江戸総攻撃3日前、東征軍参謀の西郷が池上本門寺に到着したと聞いた勝は、すぐさま会見を申し込み、山岡と共に訪問した。
久しぶりの対面であったが、勝は慶喜の命を絶対守ること、幕臣の生活を保障するだけの石高の確保など、捨て身の覚悟を胸に秘めて、しぶとい交渉力で慶喜の命ばかりか、江戸の町も救った。



写真は、勝海舟の肖像。
この日の交渉について、勝は後年次の通り述懐している。
「西郷は、俺の言うことを全て信用してくれ、一点の疑問も挟まなかった。特に“私一身にかけてお引き受けします”との一言で江戸の町が救われ、徳川氏もその滅亡を免れたのだ。」更に続く。
「西郷は、談判のときにも、終始座を正して手を膝の上に乗せ、少しも戦勝者の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するというような振りを見せなかった。」と。
この回顧談で、西郷と云う人柄が窺えるが、礼を重んじ、丁重に接することを生涯心がけた人であったと云う。

☆放火を引き受けた火消役
慶喜の影の側近であった、新門辰五郎は、常に慶喜に随行し、京都御所・二条城の警備に当っていた。静岡・駿府でも慶喜と共に滞在していたと云う。



写真は、新門辰五郎の肖像。
辰五郎の娘・お芳は、慶喜の妾でもあった。お芳は、奥付き女中として一橋家奉公中に、慶喜の愛妾となったと云う。

辰五郎の本業は、浅草・上野一帯の町火消で、3千人の子分がいたと云う。
その辰五郎が生涯一度だけ放火を頼まれたことがあったが、それは勝が西郷との会見の前に、若し会談が決裂すれば、官軍進撃の前に江戸市中を焼き払う作戦を伝えられ、二つ返事で応えたと云う。


徳川慶喜物語 “無血開城”女性の力

2007年06月01日 | 歴史
江戸城無血開城に集約できた背景には、陰の功労者として“皇女・和宮”の力が大きい。
心ならず江戸に下った皇女・和宮は、大奥に入っても頑なに公家の風習を守り、徳川家に馴染もうとしなかった。

例えば、6畳2間に化粧室・浴室・厠(トイレ)まで付いた“京造り”の簡易な家を、50人の人夫を使って江戸まで運ばせたと云う。

と云うように江戸・徳川家に対する、当時のコンプレックスで、和宮は慶喜をも好きになれなかった。
鳥羽伏見の戦いから戻って面会を求めた慶喜に「洋服では会わぬ」と一言、慶喜は着物を借りて何とか面会が叶ったとか。

それほどまでに馴染めなかった徳川家ではあったが、和宮は「自分は徳川家の嫁である以上、江戸城と生死を共にする」との手紙を朝廷に提出した。
和宮が守りたかったものは徳川家という家の存続ではあったが、結果的には慶喜を救うことになった。後年慶喜は、和宮の命日には必ず墓参りをしたと云う。



写真は、徳川家茂の正室・天璋院篤子の肖像。
もう一人の女性は、“天璋院篤子”で、島津斉彬の養女篤姫は、さらに右大臣近衛忠煕の養女となり、そして第13代将軍家茂に嫁いだ。

斉彬は将軍後継問題を巡り、紀州慶福を推す南紀派に対抗し、一橋派の慶喜を将軍後継に実現するために天璋院を輿入れさせたと云う。



写真は、大奥のイラスト。
天璋院は、以降江戸城明け渡しまでの12年間、江戸城大奥を守り続けた。

大奥3千人と云われていたが、幕府の財政難から、慶喜は大奥の人員・経費節減を断行し、1千人前後まで減らしたとか。
と云うこともあり、慶喜は全般に大奥のウケが良くなかったが、天璋院だけは慶喜びいきであったと言う。



写真は、大奥への通用門とされた、江戸城平川門。
慶喜は、鳥羽伏見の戦いの経緯・結果を説明するため大奥に入ったが、和宮から「朝敵には会わぬ」と面談謝絶を言い渡された。
しかし天璋院のとりなしのお陰で、結局和宮に面会でき、報告方々協力のお願いもできたと云う。

江戸城明け渡しの日、天璋院は徳川265年の威光を見せつけようと、大奥のご休息の間・御座の間・後化粧の間に、雪舟の掛け軸などを飾り置いたまま、大奥を去ったと云う。