近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “無血開城”の裏話

2007年06月02日 | 歴史
江戸城攻撃中止、江戸城無血開城、江戸の町安泰、そして江戸市民百余万の生命と財産の保全に繫がるに至った、成功秘話を遡及してみる。

☆勝海舟→山岡鉄舟→清水次郎長へとバトンタッチ
1868年3月15日江戸総攻撃に向けて進撃している西郷が静岡・駿府に入ると、幕臣の山岡鉄舟が面会を求めた。



写真は、山岡鉄舟の肖像。
山岡鉄舟は、剣・禅・書の達人として、多くの人材を育成したが、中でも明治天皇の教育係として10年間仕えたほか、日本の近代化にも大きな影響を及ぼしたと云う。

面会を求めたのは、勝海舟の手紙を西郷に手渡すためであった。
手紙の骨子は、「無頼の徒が、新政府軍に対して反乱を起こすか、恭順の道を守るかは、西郷・参謀の措置如何にかかっている。慶喜の処遇を含め、もし間違った処置をすれば、おのずと日本は滅亡の道を歩むだろう。」と、脅しに近いような内容が書かれていたと云う。

西郷は、“朝敵慶喜の家来”と名乗る無刀流・鉄舟の強靭な精神力、西郷に負けず劣らずの堂々とした剣豪に感心し、早速有栖川宮大総督・参謀たちと相談し、降伏条件を箇条書きにして山岡に渡したと云う。

山岡は降伏条件を検討した結果、唯一「慶喜を備前藩に預ける」条項の撤回を申し入れた。
西郷は、「慶喜公のことについては、自分が責任を持って引受けいたしもうす。」との回答に、山岡も大いに感動し、泣いて西郷に感謝したと云う。

東征大総督の参謀であった、西郷が絶大な権限を持っていたことが窺える。
山岡は直ぐ江戸に戻り、勝に西郷との会談の内容・降伏条件等を報告した。

と云うように、江戸総攻撃を未然に防ぐためには、山岡が西郷との会談を無事済ませ、勝のメッセージを伝え、無事江戸に戻るまでの一大事には、特に短期間でのスケジュール消化であるだけに、万全の治安保障が必要であった。
そこで鉄舟の護衛役を担当したのが、街道の治安を一手に引きうけていた清水次郎長親分であった。



写真は、清水次郎長の肖像。
次郎長は、当地では最も有力な親分で、当時の街道縄張り勢力範囲は、三河にまで広がっていた。
山岡鉄舟・清水次郎長は、幕末・明治維新のハイライトといわれる“江戸城無血開城”の立役者であったと云える。
これを契機に始まった鉄舟と次郎長の交流は、次郎長の人生観を大きく変えたと云う。

☆勝海舟の大勝負
1868年3月15日の江戸総攻撃3日前、東征軍参謀の西郷が池上本門寺に到着したと聞いた勝は、すぐさま会見を申し込み、山岡と共に訪問した。
久しぶりの対面であったが、勝は慶喜の命を絶対守ること、幕臣の生活を保障するだけの石高の確保など、捨て身の覚悟を胸に秘めて、しぶとい交渉力で慶喜の命ばかりか、江戸の町も救った。



写真は、勝海舟の肖像。
この日の交渉について、勝は後年次の通り述懐している。
「西郷は、俺の言うことを全て信用してくれ、一点の疑問も挟まなかった。特に“私一身にかけてお引き受けします”との一言で江戸の町が救われ、徳川氏もその滅亡を免れたのだ。」更に続く。
「西郷は、談判のときにも、終始座を正して手を膝の上に乗せ、少しも戦勝者の威光でもって、敗軍の将を軽蔑するというような振りを見せなかった。」と。
この回顧談で、西郷と云う人柄が窺えるが、礼を重んじ、丁重に接することを生涯心がけた人であったと云う。

☆放火を引き受けた火消役
慶喜の影の側近であった、新門辰五郎は、常に慶喜に随行し、京都御所・二条城の警備に当っていた。静岡・駿府でも慶喜と共に滞在していたと云う。



写真は、新門辰五郎の肖像。
辰五郎の娘・お芳は、慶喜の妾でもあった。お芳は、奥付き女中として一橋家奉公中に、慶喜の愛妾となったと云う。

辰五郎の本業は、浅草・上野一帯の町火消で、3千人の子分がいたと云う。
その辰五郎が生涯一度だけ放火を頼まれたことがあったが、それは勝が西郷との会見の前に、若し会談が決裂すれば、官軍進撃の前に江戸市中を焼き払う作戦を伝えられ、二つ返事で応えたと云う。