これから慶喜の隠遁生活を詳しく遡及する前に、慶喜が上野寛永寺・大慈院に蟄居謹慎してから、水戸を最初に、駿府そして江戸へと移り住み、1913年(大正2年)病没するまでの後半生期の略歴を振り返ってみる。
そのうち、先ず寛永寺蟄居謹慎当時から駿府在住期間、約30年間を取上げる。
写真は、東京鶯谷駅前の寛永寺・旧大慈院。
先ず寛永寺・旧大慈院で、約2ヶ月間、十二畳・十畳の部屋に起床していた。
ただ蟄居・恭順の日々で、慶喜を支えていた容保兄弟ら大名・幕臣も捨てた。
慶喜は、その後1868年4月に水戸・弘道館に入り、謹慎を継続することになった。
この時期、新政府は、徳川宗家の家督を田安亀之助(徳川家達)とし、慶喜に隠居を命じた。徳川宗家を駿河・遠江・三河東部の70万石・駿府へ移封を命じた。
水戸への旅立ちは、木綿の質素な服装・麻裏の草履・髭は伸ばすに任せ、日々の心労でやつれた表情であったとか。別れを惜しんで千住まで見送る群衆の中には、哲学者で側近の西周、山岡鉄舟の姿もあったと云う。
水戸では、水戸藩主・慶篤急逝により主人のいない家に、謹慎の罪を負ったまま預けられる身となった。
当時戊辰戦争・奥羽の形勢が、官軍にとって容易ならないため、猜疑の眼をもって誤解されるのを恐れ、1968年7月には水戸を発って、銚子を経由し、旧幕府所有で日本最初の軍艦・“蟠竜艦”に乗って清水に上陸した。慶喜の情勢判断は慎重、的確であった。
当時、駿河には3藩、遠江には4藩があり、これら7藩は上総に移封されたため、藩士たちは新藩地に向けて、駿府・遠江から移動を余儀なくされていた。
更に江戸開城に伴い、諸藩江戸屋敷詰め藩士たちの帰郷、薩長など新政府関係者の上京もあり、駿府藩に移住した旧幕臣を含めて、東海道は東西からの移住者が交錯して、陸路・海路とも大忙しであったと想像できる。
写真は、静岡市内にある、宝台院跡だが、現在は徳川家記念館。
慶喜は、7月に駿河の清水港経由で、現在のJR静岡駅に近い宝台院に入った。
清水港には松岡万率いる精鋭隊士50人余りが出迎え、宝台院まで警衛して入居させた。
本院は家康公の側室で、二代将軍徳川秀忠公の生母・西郷局を弔う徳川家縁の寺で、現在は徳川家宝物館として一般公開されている。
慶喜は当地で明治2年10月まで1年余りを過ごした。
写真は、静岡市内“元代官屋敷”跡で、現在は料亭“浮月楼”及び浮月楼の庭園。
JR静岡駅から西へ100mほどの場所で、写真の通り、紺屋町の元代官屋敷の記念碑が建てられている。
1869(明治2)年9月、慶喜に寛大な処置が降り、謹慎が解かれたこともあり、10月にはここ浮月楼に移り、これより20年弱、当地に閉居された。
慶喜にとって駿府は、初めての安寧の地であった。
写真は、現在の静岡市・浅間神社。
静岡藩知事となった第16代徳川家達とその家族達は、現在の浅間神社前に住居を構えており、家族の一員である慶喜(家達の義父)は別居していたことになる。
写真は、徳川慶喜の駿府・最後の居住地跡で、現在は西深草市民公園。
明治29年までほぼ10年間、当地に居住した。慶喜の静岡での生活は、合計約30年間に及び、幕臣の生活苦・困窮とは無縁で、趣味の生活に明け暮れた。
写真・油絵・馬術・囲碁・謡曲など文化人として優雅な余生を満喫したと云える。
慶喜と二人の側室との間に、10男・11女の子宝に恵まれた。
静岡移住後の慶喜は、政治との関わりを一切絶ち、旧家臣とも会わなかったと云う。
そして慶喜は謹慎した生活を送るどころか、悠悠自適の生活・全く屈託のない生き方をしていることからも、内心は「してやったり」と笑みを堪えながら晩年を送ったのではないかと想像出来るが・・・・・・・。
そのうち、先ず寛永寺蟄居謹慎当時から駿府在住期間、約30年間を取上げる。
写真は、東京鶯谷駅前の寛永寺・旧大慈院。
先ず寛永寺・旧大慈院で、約2ヶ月間、十二畳・十畳の部屋に起床していた。
ただ蟄居・恭順の日々で、慶喜を支えていた容保兄弟ら大名・幕臣も捨てた。
慶喜は、その後1868年4月に水戸・弘道館に入り、謹慎を継続することになった。
この時期、新政府は、徳川宗家の家督を田安亀之助(徳川家達)とし、慶喜に隠居を命じた。徳川宗家を駿河・遠江・三河東部の70万石・駿府へ移封を命じた。
水戸への旅立ちは、木綿の質素な服装・麻裏の草履・髭は伸ばすに任せ、日々の心労でやつれた表情であったとか。別れを惜しんで千住まで見送る群衆の中には、哲学者で側近の西周、山岡鉄舟の姿もあったと云う。
水戸では、水戸藩主・慶篤急逝により主人のいない家に、謹慎の罪を負ったまま預けられる身となった。
当時戊辰戦争・奥羽の形勢が、官軍にとって容易ならないため、猜疑の眼をもって誤解されるのを恐れ、1968年7月には水戸を発って、銚子を経由し、旧幕府所有で日本最初の軍艦・“蟠竜艦”に乗って清水に上陸した。慶喜の情勢判断は慎重、的確であった。
当時、駿河には3藩、遠江には4藩があり、これら7藩は上総に移封されたため、藩士たちは新藩地に向けて、駿府・遠江から移動を余儀なくされていた。
更に江戸開城に伴い、諸藩江戸屋敷詰め藩士たちの帰郷、薩長など新政府関係者の上京もあり、駿府藩に移住した旧幕臣を含めて、東海道は東西からの移住者が交錯して、陸路・海路とも大忙しであったと想像できる。
写真は、静岡市内にある、宝台院跡だが、現在は徳川家記念館。
慶喜は、7月に駿河の清水港経由で、現在のJR静岡駅に近い宝台院に入った。
清水港には松岡万率いる精鋭隊士50人余りが出迎え、宝台院まで警衛して入居させた。
本院は家康公の側室で、二代将軍徳川秀忠公の生母・西郷局を弔う徳川家縁の寺で、現在は徳川家宝物館として一般公開されている。
慶喜は当地で明治2年10月まで1年余りを過ごした。
写真は、静岡市内“元代官屋敷”跡で、現在は料亭“浮月楼”及び浮月楼の庭園。
JR静岡駅から西へ100mほどの場所で、写真の通り、紺屋町の元代官屋敷の記念碑が建てられている。
1869(明治2)年9月、慶喜に寛大な処置が降り、謹慎が解かれたこともあり、10月にはここ浮月楼に移り、これより20年弱、当地に閉居された。
慶喜にとって駿府は、初めての安寧の地であった。
写真は、現在の静岡市・浅間神社。
静岡藩知事となった第16代徳川家達とその家族達は、現在の浅間神社前に住居を構えており、家族の一員である慶喜(家達の義父)は別居していたことになる。
写真は、徳川慶喜の駿府・最後の居住地跡で、現在は西深草市民公園。
明治29年までほぼ10年間、当地に居住した。慶喜の静岡での生活は、合計約30年間に及び、幕臣の生活苦・困窮とは無縁で、趣味の生活に明け暮れた。
写真・油絵・馬術・囲碁・謡曲など文化人として優雅な余生を満喫したと云える。
慶喜と二人の側室との間に、10男・11女の子宝に恵まれた。
静岡移住後の慶喜は、政治との関わりを一切絶ち、旧家臣とも会わなかったと云う。
そして慶喜は謹慎した生活を送るどころか、悠悠自適の生活・全く屈託のない生き方をしていることからも、内心は「してやったり」と笑みを堪えながら晩年を送ったのではないかと想像出来るが・・・・・・・。