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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “戊辰戦争・会津戦争”

2007年06月03日 | 歴史
1868年1月、鳥羽伏見の戦いの後、会津藩主・松平容保は幕府の首謀者として、新政府から追討令を受けた。
追討役を命じられた仙台藩・米沢藩など東北諸藩は、むしろ会津藩に同情的で、会津藩赦免の嘆願を行う一方、奥羽越列藩同盟を結成し結束を強めた。

明治新政府は、このような不穏な動きに対して、会津戦争で対抗した。
会津藩及びこれを支援する奥羽越列藩同盟などの旧幕府勢力に対して、薩摩・長州藩を中心とした明治新政府との戦いで、現在の福島県・新潟県・栃木県が戦場となった。



写真は、会津若松城、別名鶴ヶ城の勇姿。
旧幕府軍は、会津藩家老・西郷頼母を総督として、新政府軍は、薩摩藩参謀の指揮のもと、一進一退を繰返しながらも、新政府軍がじりじりと北上し、二本松城を落とし、いよいよ若松城・鶴ヶ城へ侵攻し、総攻撃に出た。



写真は、15から17歳までの武家男子によって構成された、会津藩精鋭部隊・白虎隊の現代版。

新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。





写真は上から、会津藩の白虎隊自刃の地及び白虎隊士の墓。

この際、西郷頼母邸では、籠城戦の足手まといとなるのを苦にした母・妻子など一族が自刃し、城下町で発生した火災を会津若松城の落城と誤認した白虎隊士の一部が、飯盛山で自刃したという悲しい結末は余りにも無念。

会津藩は会津若松城に籠城して抵抗し、開城後も域外での遊撃戦を続けたが、米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。
そしてついに1868年9月、孤立した会津藩・庄内藩は新政府軍に降伏した。
装備・軍制面など、旧幕府軍は新政府軍に及ばなかった。

その後旧幕府軍の残存兵は会津を離れ、仙台で榎本武揚と合流し、蝦夷地へ向かったと云う。

会津戦争責任を問われ、藩主・松平容保は死一等を減じられて江戸に禁固、家老など戦争責任者は、切腹処分とされた。
降伏後、会津藩は23万石から斗南藩(下北半島南部)3万石に移封され、厳しい試練に晒された。

会津藩士総勢約1万7千人は、この斗南不毛の地で、寒さと飢えに耐え、慣れない百姓仕事や、北海道へ漁業の出稼ぎなどで、生活難を凌いだと云う。

又薩長藩は、会津戦争の戦死者を“賊徒”として埋葬を許さず、長期間放置された死体は風雨に晒され、鳥獣に食い散らかされる悲惨な状況であったと云う。
見かねた近所の村長が、戦死者を埋葬したために、村長職を解かれたこともあったらしい。

又薩長の藩兵による会津若松城下での略奪・強姦・虐殺なども激しく、その野蛮さは目を覆いたくなるような冷酷・残虐な行為であったと云う。
これらの措置・行為は、会津民衆の薩長に対する、恨みを残す結果となり、その後も、両者間に気まずい不仲関係が続いたようだ。

ところで会津戦争における白虎隊悲話は余りにも有名だが、それは単なる悲劇の象徴としてではなく、純粋な忠誠心から「武士道」を貫いた少年たちの物語であり、会津人の「律儀にして純真な倫理観」の現れとも云える。

後世の人々は、彼らの、切なくも一途な生きざまに強い感銘を覚え、今も多くの人々が、墓前に花を手向けていると云う。


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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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こんにちは! (リシア)
2007-06-06 18:42:16
学校の宿題で、戊辰戦争や白虎隊のことについて調べていました。
tommz_1938さんのサイトのおかげで結構助かりました!
有難うございます!
これからもぜひ続けてください!!!
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