慶喜は、1897(明治30)年に静岡を発ち、東京巣鴨の別邸に入り、1901年まで4年間居住し、その年には小石川小日向・第六天の邸に移られた。



写真は上から、東京豊島区・JR巣鴨駅前の別邸跡石碑、及び東京文京区春日町の大銀杏が象徴的な徳川家小日向屋敷跡で、現在は大蔵省官舎及び慶喜終焉の地記念看板。
東京で住んだ巣鴨と小石川の広大な屋敷は、それぞれ山手線沿いの繁華街で、巣鴨は当時の跡形が全くない。しかし小石川の屋敷は、現在は大蔵省管轄の公務員用マンションとして使われているが、3,000坪ほどの敷地に、当時は1,000坪ほどの平屋建て日本家屋で、常時50人ほどの関係者が同居していたと云う。
それまで徳川宗家の隠居家族でしかなかった身分が、維新の元勲たちも大半が死亡すると、慶喜の大政奉還が高く評価されるようになり、1902年、慶喜66歳の時に、公爵を授与され、徳川慶喜家として分家し、当主となった。
この年、“勲一等旭日大綬章”が授けられ、国家最高の功労者となった。
1911(明治43)年、徳川慶喜公爵家を7男の慶久に譲り、今回こそ本当の隠居であった。
1912年、日本橋が架け替えられたとき、江戸を戦禍から守った慶喜に、プロ顔負けの揮毫を願い出て、最初は辞退されたが、懇請が実って漢字の揮毫が、現在も高速道路に掛けられていると云う。
慶喜が晩年、孝明天皇陵に参拝した時、お供に「ここから誰も来るな」と押し留め、長時間一人で頭をたれていたと云う。
東京に戻ると青山墓地に出かけ、墓地内のいくつもの墓の寸法を測り、「将軍職を返上した自分は、徳川家代々の墓地には入らない。今後この家は仏式をやめて神式にする。墓は質素な御陵の形にならい、それを小さくしたものにする」と決めたと云う。下記写真の通り、慶喜のいわば遺言が守られている。
そして1913(大正2)年、病没した。享年77歳。
慶喜の死は、国内大手の新聞各紙で大々的に報じられ、「おおよそ明治維新が成功したのは、慶喜の政権返還の決断による」と、その偉業を讃えていた。
そして政権返上後の潔い身の置き方にも、賞賛している。
ワシントンポストは、日本の救世主、国家を守るために、自らの野心を犠牲にして、職を辞した最後の将軍として、最大級の賛辞を送っていた。
葬儀は、上野寛永寺・斎場で神式に行われ、谷中の墓地に葬られた。

写真は、谷中霊園にある、徳川慶喜の墓所。
谷中霊園は、東京文京区にある、東京都内三大霊園の一つで、慶喜の遺言により、徳川代々の賑々しい霊廟ではなく、当地の簡素な霊園に葬られた。
谷中霊園の墓所には、慶喜と正室・美賀子が、正面左右に並び、真後ろには側室・“幸”と“信”が仲良く並べられている。
側室の墓標には、“新村信子”、“中根幸子”と刻まれている。



写真は上から、東京豊島区・JR巣鴨駅前の別邸跡石碑、及び東京文京区春日町の大銀杏が象徴的な徳川家小日向屋敷跡で、現在は大蔵省官舎及び慶喜終焉の地記念看板。
東京で住んだ巣鴨と小石川の広大な屋敷は、それぞれ山手線沿いの繁華街で、巣鴨は当時の跡形が全くない。しかし小石川の屋敷は、現在は大蔵省管轄の公務員用マンションとして使われているが、3,000坪ほどの敷地に、当時は1,000坪ほどの平屋建て日本家屋で、常時50人ほどの関係者が同居していたと云う。
それまで徳川宗家の隠居家族でしかなかった身分が、維新の元勲たちも大半が死亡すると、慶喜の大政奉還が高く評価されるようになり、1902年、慶喜66歳の時に、公爵を授与され、徳川慶喜家として分家し、当主となった。
この年、“勲一等旭日大綬章”が授けられ、国家最高の功労者となった。

1911(明治43)年、徳川慶喜公爵家を7男の慶久に譲り、今回こそ本当の隠居であった。
1912年、日本橋が架け替えられたとき、江戸を戦禍から守った慶喜に、プロ顔負けの揮毫を願い出て、最初は辞退されたが、懇請が実って漢字の揮毫が、現在も高速道路に掛けられていると云う。
慶喜が晩年、孝明天皇陵に参拝した時、お供に「ここから誰も来るな」と押し留め、長時間一人で頭をたれていたと云う。
東京に戻ると青山墓地に出かけ、墓地内のいくつもの墓の寸法を測り、「将軍職を返上した自分は、徳川家代々の墓地には入らない。今後この家は仏式をやめて神式にする。墓は質素な御陵の形にならい、それを小さくしたものにする」と決めたと云う。下記写真の通り、慶喜のいわば遺言が守られている。
そして1913(大正2)年、病没した。享年77歳。
慶喜の死は、国内大手の新聞各紙で大々的に報じられ、「おおよそ明治維新が成功したのは、慶喜の政権返還の決断による」と、その偉業を讃えていた。
そして政権返上後の潔い身の置き方にも、賞賛している。

ワシントンポストは、日本の救世主、国家を守るために、自らの野心を犠牲にして、職を辞した最後の将軍として、最大級の賛辞を送っていた。

葬儀は、上野寛永寺・斎場で神式に行われ、谷中の墓地に葬られた。

写真は、谷中霊園にある、徳川慶喜の墓所。
谷中霊園は、東京文京区にある、東京都内三大霊園の一つで、慶喜の遺言により、徳川代々の賑々しい霊廟ではなく、当地の簡素な霊園に葬られた。
谷中霊園の墓所には、慶喜と正室・美賀子が、正面左右に並び、真後ろには側室・“幸”と“信”が仲良く並べられている。

側室の墓標には、“新村信子”、“中根幸子”と刻まれている。
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