近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “沼津兵学校”

2007年06月17日 | 歴史
1868(明治元)年、徳川家の駿府70万石への移封が決定されると、江戸幕府が残した厖大な書籍・器機や優れた人材の活用を図るため、上述“江原素六”の協力により、旧幕府陸軍幹部を中心に沼津兵学校が設立された。
沼津兵学校は陸軍の士官を養成することを主たる目的としていた。







写真は上から、JR沼津駅南口から直ぐの所にある城岡神社、明治27年に建てられた、本神社境内にある沼津兵学校跡記念碑、及び実際は城岡神社筋向いにあった、沼津兵学校跡地で、現在は駐車場。

沼津兵学校の初代頭取には、当代第一の啓蒙学者であり、オランダ留学の経験もあり、慶喜の政治顧問でもあった“西周”が招聘され、欧米の近代的学問・文化を採り入れ、その水準は、当時国内最高のレベルを示すもので、全国から優秀な人材が留学したと云う。



写真は、西周の肖像。
当時の幕府研究・教育機関や長崎海軍伝習所に所属していた多くの学者・職員が、そのまま静岡藩に移住してきたことで、豊富な人材と技術力が確保された。

教授陣は、20歳から30歳台の若々しい、幕府に仕えていた学者・軍人で、西洋の学問・技術を身につけていた者が就任したと云う。

兵学校設立の速さといい、充実した教授陣の就任といい、静岡藩の兵学校教育に対する並々ならぬ意気込みが窺える。
又同校の予備教育機関として設けられた、付属小学校は近代的小学校の先駆と云われた。

と云うように、短い期間ながら、沼津が日本の教育の中心であったことと、そこから巣立った多くの技術者が日本の近代化を支えたと云える。

兵学校の生徒は、14歳から18歳までの静岡藩士とその子弟及び他藩からの留学生から、学識の程度により選抜された秀才たちであったと云う。
高度な教育内容、広範な人材輩出などの記録が、現在も残されている。
個人的なこととは云え、沼津生まれ・育ちの同郷人にとって、真に誇りに思う。

と云うことで、教授陣も生徒も新しい組織で、一心不乱に学術の道を目指したと思われる当時は、一方で戊辰戦争・箱舘五稜郭の戦いが続いていた時期でもあり、筋道を通して薩長と戦うべきか、これからの日本のために学ぶべきか、複雑な心境であったと推察する。

そして沼津兵学校は明治5年には、東京本校に合併・吸収され、廃校となった。