近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “秩禄処分”

2007年06月21日 | 歴史
明治新政府は、旧幕臣との間で繰広げられていた、戊辰戦争の戦費負担や維新功労者に対する“賞典禄”の支給負担など、発足当初から極度の財政難に陥っていた。

又軍事的にも諸藩に対抗する兵力を確保できなかったため、旧大名による諸藩の統治は、そのまま維持されるという、極めて中途半端な治世を余儀なくされていた。

従って諸藩の家臣は、藩主が家臣に対して世襲で与えていた“俸禄制度”を基本に編成・維持されていたが、明治維新後も“俸禄”は家禄として引継がれ、士族に対して支給されていた。

新政府の目指す中央集権化など財政改革を行うには、禄制改革が最大の課題であり、士農工商の身分制解体・武士階級の身分的特権廃止は不可欠であり、軍制改革の障害となっていた。

そして1869年の“版籍奉還”に伴う禄制改革により、家禄は新政府から直接支給されることになり、禄制は大蔵省が管轄することになった。

1871年には“廃藩置県”が実行され、幕藩体制は解消、全国の士族は政府が掌握すると共に、多元的であった家禄の支給体系が、全国一律化された。

1873(明治5)年には“徴兵制”の施行により、家禄支給の根拠が消失した。



写真は、落合弘樹著の“秩禄処分”についての書籍。
秩禄処分により、華族・士族の“家禄”を廃止しようとした、明治新政府の改革は、学制・徴兵令・地租改正などの改革に匹敵する一大改革で、これによって武士という特権的身分は完全に消滅することになった。

翌年には、禄制改革により、家禄に対する“家禄税”の創設や、“家禄奉還制”が布告された。
家禄税は、家禄のランクに応じて課税し、軍事資金として利用することで士族の理解を得ようとした。又家禄奉還制は、任意で家禄を返上したものに対して事業や帰農など就業資金を与えるもので、士族を事業に就かせる経済効果を意図した。

しかし地域格差がある中での一律施行に対する不満や、就業の失敗による混乱など政情不安を引起した。

又地租改正により農民の納税が金納化され、家禄支給を金禄で支給する府県も出現した。

1875年には、家禄を整理するために“秩禄奉還制”が定められ、秩禄を奉還するものに対して、禄高に対して“金禄公債”を付与する政策を行い、秩禄は段階的に廃止された。

と云うような地租改正・秩禄処分に対して、農民一揆や士族反乱が各地で勃発した。又米価の高騰による混乱や不満が一揆に拍車をかけた。
明治初期の農民一揆の背景は、豊年にもかかわらず、米商人の中には利得稼ぎのため、領外へ出荷していたことで、米価高騰を招いたことが直接の原因。

そもそも明治初頭には、“士農工商”と云う身分階層の解体・”兵農分離”の原則崩壊など、社会不安から地域社会に悪党が徘徊し、強盗事件を引起すなど、治安の悪化が深刻であったことも一揆・反乱の背景にあった。



写真は、西日本各地の不平士族の反乱状況を物語る書状。

西南戦争・神風連の乱など九州地方の士族反乱は、その代表的事例であり、士族反乱を契機に、救済措置として“士族授産”(士族に対する産業振興奨励策)が行われるようになった。