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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

徳川慶喜物語 “戊辰戦争・箱館戦争”

2007年06月05日 | 歴史
榎本武揚ら一部の旧幕府軍は、1868年8月、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出、仙台で大鳥圭介・土方歳三等の旧幕府軍隊を収容して蝦夷地に向った。

東北地方における奥羽諸藩の反新政府動向は根強く残っていたため、新政府は“奥羽鎮撫総督”を置き、新政府軍を派遣し、仙台藩に会津藩・庄内藩討伐を命じた。

しかし仙台藩は米沢藩と共に会津藩援護に廻った。
長岡等北越6藩も加わり、“奥羽越列藩同盟”を結成し、彰義隊の残党も参加して、新政府軍に対抗した。

新政府軍は、会津藩を降伏させ、相前後して米沢・仙台・盛岡・庄内藩なども帰順して、半年にわたった東北戦争は終わった。

東北諸藩に対する、戦争責任の処分が発表されたが、いずれも藩主は死一等を減じられ、一旦封土没収の上、削・転封されたと云う。



写真は、箱館政権総裁・榎本武揚の肖像。
一方総裁・榎本武揚らは、旧幕臣を蝦夷地に移住させるなど戦力を補充し、箱館の“五稜郭”などの拠点を占領して、“地域政権”(箱館政権)による蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵してきた。





写真は上から、五稜郭の星型要塞及び五稜郭跡の石塔。

旧幕府軍は、松前・江差などを占領するも、新政府軍に対抗する決め手であり、新政府軍の脅威でもあった、“開陽丸”を折からの突風で、座礁沈没させて失った後は、津軽海峡の制海権をも失ってしまった。



写真は、幕末の軍艦・開陽丸。
開陽丸の沈没は、旧幕府軍にとって決定的ダメージであった。
加えてアメリカが、新政府軍に最新鋭艦を引き渡し、俄然優位に立った。

旧幕府軍は、1869年3月には宮古湾海戦を挑んだが敗れ、結果的に新政府軍の蝦夷地への上陸を許し、五稜郭で土方歳三は戦死し、弾薬・兵糧も底をついた新撰組などが新政府軍に降伏した。



写真は、函館市に残る箱館戦争供養塔。

総裁・榎本武揚、副総裁・松平太郎、陸軍奉行・大鳥圭介らは、新政府軍の参謀・黒田清隆に降伏を申し入れた。

そして5月18日、五稜郭で最期の1,000人余りが投降し、開城したことで、9ヶ月間続いた“箱館戦争”は、ここに終わった。
鳥羽伏見戦争が始まって1年4ヶ月後、ついに戊辰戦争は終焉をみた。

以上箱館戦争を概観してきたが、最後まで疑問に残るのは、榎本武揚は旧幕府軍3,000人ほどを連れて蝦夷地に向かい、何を目指したのか?

当時の幕閣では随一の開明派であった榎本は、恐らく蝦夷地で、地方自治政権を目指したのではないか?
新政府に対する反乱軍ではない、という立場を取るには、それしか方法がないし、若し新政府が自治政権を認めない場合は、諸外国に認めさせようとしたのではないか?



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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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榎本の目指したもの (ミカエル)
2007-06-05 11:04:07
管理人さん、こんにちは!
そして初めまして。函館からです。

タイトルの件です。
大政奉還により、約30万の幕臣は収入が10分の1まで落ち込み、家財道具や娘を売ったりしての悲惨な生活でした。
困窮している彼らの救済のため、蝦夷地に移住させ開拓によって自立させようとしました。

自立の後押し材料として、農作物のほかに、当時の箱館港の国際貿易輸出品と過去の蝦夷地探査による資源の豊かさもありました。
また、徳川家のしかるべき人物をトップに据えるという計画でした。

以上、参考になればと思い、筆をとりました。
ミカエル
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