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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

京都府八幡市の西車塚古墳とは!

2009年10月26日 | 歴史
八幡市は京都府の南部、大阪府との境界線沿いに位置し、石清水八幡宮の門前町として発達した。

八幡市の代表的遺跡である、西車塚古墳は、八幡市八幡荘式部谷にある前方後円墳で、全長約115m・後円部径約80m・前方部幅約32mあり、後円頂部に八角院という仏堂があるが、後円部が著しく大きいのが特徴。

本古墳は、東車塚古墳から北東に100m前後と隣接していることから、被葬者は、東車塚古墳と同族の首長と考えられる。







写真は、田畑に浮かぶ西車塚古墳と僅かに覗く八角堂、田畑から望む、正面の男山及び本古墳墳頂から覗く八幡市市街地光景。

本古墳の立地する場所は、高台から平野へ向かって下がる傾斜面にあり、水の確保が難しい丘陵地は、古墳時代には墓地としての土地利用しかされていなかったと言う。

奈良~平安時代頃に溜池を造って、土地利用に着手し、さらに、平安末期~鎌倉時代には造成して、土地利用しにくかった傾斜地を、耕地として利用するようになったと云う。









写真は、西車塚古墳の発掘調査現場、墳丘への登り口と案内看板、八角堂がある西車塚古墳墳頂光景及びその八角堂近景。

形状は前方後円墳であるが、前方部は開墾されて原型はなくなっている。

後円部平坦地の北端、前方部に接するところに円筒埴輪が埋もれて見つかったと云う。

八角堂は、鎌倉時代に男山西谷に建立されたが、大破したため1607年に再建され、明治維新の神仏分離に際し、本尊と共に現在の地・本古墳墳頂に移設されたと云う。

このように墳上に八角堂が建っていたことが幸いし、古墳内部の破壊を免れた。
明治35年の境内工事に伴い、石室を掘りあてたが、残念ながら石室そのものは、破壊されてしまったと云う。

本古墳周辺には盾形の周濠跡が認められる。

明治35年の埋葬施設調査では、長さ2.7m・幅0.6m・高さ0.9mほどの竪穴式石室内で、銅鏡・車輪石・石釧・鍬形石・石製合子・勾玉・管玉・ガラス玉などが出土。

銅鏡には三角縁神獣鏡・盤竜鏡・画文帯神獣鏡・彷製六獣鏡・彷製品規矩鏡など9面の同笵鏡が確認されていた。
これらの埋葬品から5世紀前半の築造と推定されている。

しかしながら、これら貴重な埋葬品は散在・拡散してしまい、今日行方不明の状況。







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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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安産のお地蔵さん (八幡住民)
2011-04-23 10:03:30
突然ですが、八角堂に安産祈願のお地蔵さんがおられますが、背中?側面に漢字で何か書いています。その意味はお解かりですか?是非教えてください。
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