八幡市は京都府の南部、大阪府との境界線沿いに位置し、石清水八幡宮の門前町として発達した。
八幡市の代表的遺跡である、西車塚古墳は、八幡市八幡荘式部谷にある前方後円墳で、全長約115m・後円部径約80m・前方部幅約32mあり、後円頂部に八角院という仏堂があるが、後円部が著しく大きいのが特徴。
本古墳は、東車塚古墳から北東に100m前後と隣接していることから、被葬者は、東車塚古墳と同族の首長と考えられる。



写真は、田畑に浮かぶ西車塚古墳と僅かに覗く八角堂、田畑から望む、正面の男山及び本古墳墳頂から覗く八幡市市街地光景。
本古墳の立地する場所は、高台から平野へ向かって下がる傾斜面にあり、水の確保が難しい丘陵地は、古墳時代には墓地としての土地利用しかされていなかったと言う。
奈良~平安時代頃に溜池を造って、土地利用に着手し、さらに、平安末期~鎌倉時代には造成して、土地利用しにくかった傾斜地を、耕地として利用するようになったと云う。




写真は、西車塚古墳の発掘調査現場、墳丘への登り口と案内看板、八角堂がある西車塚古墳墳頂光景及びその八角堂近景。
形状は前方後円墳であるが、前方部は開墾されて原型はなくなっている。
後円部平坦地の北端、前方部に接するところに円筒埴輪が埋もれて見つかったと云う。
八角堂は、鎌倉時代に男山西谷に建立されたが、大破したため1607年に再建され、明治維新の神仏分離に際し、本尊と共に現在の地・本古墳墳頂に移設されたと云う。
このように墳上に八角堂が建っていたことが幸いし、古墳内部の破壊を免れた。
明治35年の境内工事に伴い、石室を掘りあてたが、残念ながら石室そのものは、破壊されてしまったと云う。
本古墳周辺には盾形の周濠跡が認められる。
明治35年の埋葬施設調査では、長さ2.7m・幅0.6m・高さ0.9mほどの竪穴式石室内で、銅鏡・車輪石・石釧・鍬形石・石製合子・勾玉・管玉・ガラス玉などが出土。
銅鏡には三角縁神獣鏡・盤竜鏡・画文帯神獣鏡・彷製六獣鏡・彷製品規矩鏡など9面の同笵鏡が確認されていた。
これらの埋葬品から5世紀前半の築造と推定されている。
しかしながら、これら貴重な埋葬品は散在・拡散してしまい、今日行方不明の状況。
八幡市の代表的遺跡である、西車塚古墳は、八幡市八幡荘式部谷にある前方後円墳で、全長約115m・後円部径約80m・前方部幅約32mあり、後円頂部に八角院という仏堂があるが、後円部が著しく大きいのが特徴。

本古墳は、東車塚古墳から北東に100m前後と隣接していることから、被葬者は、東車塚古墳と同族の首長と考えられる。



写真は、田畑に浮かぶ西車塚古墳と僅かに覗く八角堂、田畑から望む、正面の男山及び本古墳墳頂から覗く八幡市市街地光景。
本古墳の立地する場所は、高台から平野へ向かって下がる傾斜面にあり、水の確保が難しい丘陵地は、古墳時代には墓地としての土地利用しかされていなかったと言う。
奈良~平安時代頃に溜池を造って、土地利用に着手し、さらに、平安末期~鎌倉時代には造成して、土地利用しにくかった傾斜地を、耕地として利用するようになったと云う。




写真は、西車塚古墳の発掘調査現場、墳丘への登り口と案内看板、八角堂がある西車塚古墳墳頂光景及びその八角堂近景。
形状は前方後円墳であるが、前方部は開墾されて原型はなくなっている。
後円部平坦地の北端、前方部に接するところに円筒埴輪が埋もれて見つかったと云う。
八角堂は、鎌倉時代に男山西谷に建立されたが、大破したため1607年に再建され、明治維新の神仏分離に際し、本尊と共に現在の地・本古墳墳頂に移設されたと云う。

このように墳上に八角堂が建っていたことが幸いし、古墳内部の破壊を免れた。
明治35年の境内工事に伴い、石室を掘りあてたが、残念ながら石室そのものは、破壊されてしまったと云う。
本古墳周辺には盾形の周濠跡が認められる。
明治35年の埋葬施設調査では、長さ2.7m・幅0.6m・高さ0.9mほどの竪穴式石室内で、銅鏡・車輪石・石釧・鍬形石・石製合子・勾玉・管玉・ガラス玉などが出土。
銅鏡には三角縁神獣鏡・盤竜鏡・画文帯神獣鏡・彷製六獣鏡・彷製品規矩鏡など9面の同笵鏡が確認されていた。
これらの埋葬品から5世紀前半の築造と推定されている。
しかしながら、これら貴重な埋葬品は散在・拡散してしまい、今日行方不明の状況。
