近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

堺市泉北丘陵上の陶邑窯跡群と須恵器とは!

2010年07月26日 | 歴史
昭和30年代、泉北丘陵一帯でニュータウンの建設工事が計画され、その開発工事の前に古代窯跡の分布が調べられ、そのうち多くの窯跡が発掘されたと云う。その結果1,600年ほどの時を経て日本最大の須恵器生産地が姿を現した!

当陶邑の須恵器は、九州から東北地方にまで流通したらしい。



写真は、泉北高速鉄道の“泉が丘”駅から望む泉北ニュータウン現在の様子。

大阪府の“泉北丘陵住宅地区開発事業”によって計画され、事業期間は1965年~1982年で、1967年から入居を開始した。2007年6月時点で、約58,000世帯、およそ14万2,000人が居住する、巨大な大都市ベッドタウン。

有田、備前、丹波、美濃など陶器のルーツとなる須恵器が、堺市の泉北ニュータウンを中心に西は和泉市・岸和田市、東は大阪狭山市の東西15km・南北9kmほどに及ぶ、泉北丘陵一帯で大規模に焼かれ、各地に運び出されていたらしい。

泉北丘陵の周辺では、須恵器生産に関係する遺跡が発見されている。石津川流域では深田橋遺跡、陶器川・前田川流域では陶器南遺跡・辻之遺跡・田園遺跡などがある。

これらの遺跡に共通していることは、倉庫と考えられる建物跡や不良品の須恵器がたくさん見つかっていること。このことから、焼きあがった須恵器を運び込み、良品と不良品に選別した後、倉庫で保管され、河川などを利用して出荷する集積・出荷センターの役割があったと考えられる。

叉泉北丘陵で工房を備えていた遺跡の存在が考えられるが、100基を越える粘土を採掘した穴も発見されている。

わが国で須恵器生産が始まったのは、今から約1,600年前の古墳時代中期に遡り、新しい焼きものの技術は、朝鮮半島からの渡来人によって伝えられ、泉北の地にも根をおろし、平安時代までの約500年間で1,000基とも言われる数の窯が築かれたと云う。

これらの窯跡群は、『日本書紀』に書かれた古い地名の「茅渟県陶邑(ちぬのあがたすえむら)」にあたるとされ、陶邑窯跡群と名付けられた。

窯を用いて焼成した日本最初のやきものである須恵器と弥生時代の系譜を引く土師器は、葬祭供献用や日用品として用いられていた。

中でも須恵器の使用は、数に限りがあったことから、貴族層などに限られ、土師器は一般民衆用と階層別区別があったと見られる。

須恵器は古墳の副葬品として、発掘されることが多い。









写真は上から、檜尾塚原古墳から出土した壷・台付壷・器台・圷など副葬品の須恵器、野々井古墳から出土した壷・鉢・器台・坏・甑などの須恵器、小角田遺跡の壷や坏など皿類の須恵器及び古墳群からしばしば出土する須恵器の“はそう”。

須恵器の種類には、その特徴を生かして液体や固形物を貯えておく甕や壺、食物や供え物を盛る蓋坏・高坏・椀・皿・盤、水筒のような形をした提瓶・平瓶、液体を注ぐため穴をあけた"はそう"のほかに、壺をのせる器台や蒸し器の甑などがある。

珍しい須恵器では、飯蛸壷・網の錘・硯などが見つかっている。





写真は、南区の“大蓮公園”内に移設された登窯のサイドビュー及び同登窯を上から覗いた光景。

須恵器を焼くには窯が必要で、窯内の温度を徐々に上げ、1,000から1,200度の高温で焼いた後、酸素を絶つために、窯を塞がなければならない。

登窯は、斜面を掘りくぼめ細かく切った藁などを混ぜた粘土で天井を覆い、細長いトンネルを造る。

窯の構造は、下から薪を入れる焚き口、薪を燃やす燃焼部、土器を焼く焼成部と煙を出す煙道に分かれ、燃焼部で燃やされた炎が斜面を上り、効率良く熱が焼成部に伝わる。焼成の終わりに、焚口や煙出しを密封すると、空気があたらないで、須恵器固有の青灰色になると云う。

登窯の長さは約10m・幅は約2mで、内部の高さは1.5mぐらい。

須恵器生産遺跡の近くには、須恵器生産に関係した首長や集落長クラスの支配者たちが葬られたと考えられる、湯山古墳・陶器千塚古墳群・牛石古墳群・檜尾塚原古墳群などがある。

窯や集積・出荷センターと考えられる遺跡は、10~100年という期間でその働きを終えている。

須恵器を焼くには大量の薪を必要とし、森林がなくなった時点で新しい場所に移動していたと見られている。

859年、河内と和泉の国の間で、須恵器を焼くための薪を切り出す山をめぐって起こった「陶山の薪争い」が『日本三代実録』に書かれていると云う。この事件から平安時代にはかなりの森林が不足していたことが分かる。

長年の須恵器生産が丘陵から森林を奪い、須恵器を焼くことができなくなったことも、陶邑の須恵器生産が終わりを向かえ、歴史の表舞台から姿を消してしまった理由の一つと考えられる。




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