近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

第21代雄略天皇陵に纏わる謎とは!その2

2009年01月28日 | 歴史
雄略天皇の治世下で、大和や河内の豪族等が武力で制圧され、多くの政略結婚が繰り返された事が伝えられてきた。

日本書紀によれば、吉備氏も雄略天皇の御代にその配下に組み込まれた。

勢力拡大の範囲は北から南に及び、埼玉県の“稲荷山古墳”から出土した太刀に漢文表記の銘文が発見され、ここに「ワカタケル大王」とあった。雄略天皇を指すとする説が有力である。



写真は、埼玉の稲荷山古墳から出土した、ワカタケル大王の太刀。

これにより熊本県の“江田山古墳”から出土していた鉄刀銘文も“ワカタケル”と解読でき、5世紀後半には大和朝廷の実権が日本全土の大半にまで及んでいた有力な証拠となった。

渡来系の人たちが刀を鍛え、文字を書いたと見られるが、雄略天皇が渡来系人脈を抱え、大きな勢力を持っていたことが窺える。

雄略天皇陵とされ、松原市と羽曳野市を区画する行政の境界線上に位置している、“河内大塚古墳”は幅の広い濠に囲まれて雄大な姿を横え、台地上に築かれた大型の前方後円墳。







写真は上から、“河内大塚古墳”全景、東北側ビュー及び西の側面。

墳丘の長さは約335mで、わが国で5番目の規模を誇り、堂々たる大王陵と見なされておかしくないが、歴代の天皇陵には比定されておらず、大正14年に陵墓参考地に指定された。

それ以後宮内庁の管理下にあるが、学術調査は今日まで行われていない。

本古墳が雄略天皇陵(在位456~479年)の可能性が高いとされるが、平面の形状や埴輪の有無などから6世紀後半の築造と考えられ、年代的に合致しない。

これほどの巨大古墳を築くことができる権力を有した人物ならば、必ず記紀にその名が登場していて当然であるが、そのような人物は見あたらないと云う。

一方で仲哀天皇の御陵といわれている前方後円墳が造営年代的にも、雄略天皇陵ではないかと云われている。



写真は、藤井寺市の“仲哀天皇陵”。

第14代・仲哀天皇陵(200年崩御)は、墳丘長242メートル、周濠幅約50メートルの大型前方後円墳で、古市古墳群では4番目の大きさ。

別名“岡ミサンザイ古墳”とも呼ばれ、羽曳野丘陵の北東部外縁に位置している。横穴式石室を採用している可能性があること、また出土した円筒埴輪などから、5世紀後半の築造と考えられている。

仲哀天皇陵にしては、余りに年代のずれがあり、雄略天皇陵ではないかとする研究者が多いと云う。

以上のような事情から、雄略天皇陵は高鷲丸山古墳か、或いは大仙古墳か、はたまた仲哀天皇陵か、現状のままでは、迷宮入りしそうな状況。


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