沖縄の代表的な焼物・“壺屋焼”の歴史はおよそ400年、時の琉球王府が薩摩から朝鮮人の陶工を招き、朝鮮式陶法を習得したのが始まり。
その後焼物産業の発展のため、県内各地から焼物職人を招集し、現在の那覇市壺屋で焼物を作らせたので、“壺屋焼”と呼ばれていると云う。
写真は、焼物の町・壺屋地区、通称“壺屋やちむん通り”。
約300年前、琉球王府が各地に点在していた陶窯をこの地に集めて以来、壺屋は焼物の町として歴史を歩み始めた。
戦時中、壺屋の窯はすべて閉鎖されたが、終戦と共に米軍は収容所から焼物職人を解放し、壺屋に送還し、壺屋焼は復活した。
しかし時代の変遷と共に煙害と云う新たな問題が発生、ついに薪を焚く“登り窯”は廃止され、ガス窯への移行を余儀なくされた。
写真は上から、読谷村・壺屋焼“やちむんの里”の登り窯、人間国宝・故“金城次郎”の壷屋焼作品2点。
しかし人間国宝・“金城次郎”をはじめ若手陶芸家は、薪窯を基本とする共同窯にこだわり、製作から焼成まで人手が要る薪焼きを続け、日用雑器を主体とする生産を、“読谷村共同窯”で開始して、伝統を守ろうとした。
金城次郎の作品は海の生物をテーマにしたものが多く、線彫り技法から生まれる魚文・海老文は、力強さと躍動感に溢れ、作家の真骨頂とも云える。
作品の種類・作風・モノづくりの体制など、壺屋の伝統を引継いでいると云う。
若手陶芸家は、運命共同体のメンバーとして共同でできることは、すべて共同でやっているが、彼らは作家ではなく、職人を自認している。
写真は上から、沖縄の個性的壺屋焼及び日用品のサンプル。
暮らしに使われる日用品を目標としているだけに、価格もほかに比べて安く、その分若き陶工たちはよく働くと云う。
読谷村の若き陶工たちには、本土から移住した者が多いと云う。
頭は本土だが、身体は全身でどっぷり沖縄につかり、土着化しているらしい。
沖縄の陶芸そのものが、他地域との人とモノと技と情報の交流史の過程で育ってきたので、沖縄的陶芸の伝統は守られている。
その後焼物産業の発展のため、県内各地から焼物職人を招集し、現在の那覇市壺屋で焼物を作らせたので、“壺屋焼”と呼ばれていると云う。
写真は、焼物の町・壺屋地区、通称“壺屋やちむん通り”。
約300年前、琉球王府が各地に点在していた陶窯をこの地に集めて以来、壺屋は焼物の町として歴史を歩み始めた。
戦時中、壺屋の窯はすべて閉鎖されたが、終戦と共に米軍は収容所から焼物職人を解放し、壺屋に送還し、壺屋焼は復活した。
しかし時代の変遷と共に煙害と云う新たな問題が発生、ついに薪を焚く“登り窯”は廃止され、ガス窯への移行を余儀なくされた。
写真は上から、読谷村・壺屋焼“やちむんの里”の登り窯、人間国宝・故“金城次郎”の壷屋焼作品2点。
しかし人間国宝・“金城次郎”をはじめ若手陶芸家は、薪窯を基本とする共同窯にこだわり、製作から焼成まで人手が要る薪焼きを続け、日用雑器を主体とする生産を、“読谷村共同窯”で開始して、伝統を守ろうとした。
金城次郎の作品は海の生物をテーマにしたものが多く、線彫り技法から生まれる魚文・海老文は、力強さと躍動感に溢れ、作家の真骨頂とも云える。
作品の種類・作風・モノづくりの体制など、壺屋の伝統を引継いでいると云う。
若手陶芸家は、運命共同体のメンバーとして共同でできることは、すべて共同でやっているが、彼らは作家ではなく、職人を自認している。
写真は上から、沖縄の個性的壺屋焼及び日用品のサンプル。
暮らしに使われる日用品を目標としているだけに、価格もほかに比べて安く、その分若き陶工たちはよく働くと云う。
読谷村の若き陶工たちには、本土から移住した者が多いと云う。
頭は本土だが、身体は全身でどっぷり沖縄につかり、土着化しているらしい。
沖縄の陶芸そのものが、他地域との人とモノと技と情報の交流史の過程で育ってきたので、沖縄的陶芸の伝統は守られている。