近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン 群馬県は縄文遺物の宝庫だ!

2007年08月02日 | 歴史
群馬縄文人は、神聖なる山々として赤城山・榛名山・妙義山・浅間山等を生活・祭祀・暦等の標的として活用していたと思われる。
実際夫々の山麓には多くの縄文時代の遺跡が発見されており、全国規模でも質量共縄文遺跡王国と呼んでも良いほどだ!

 赤城山・榛名山等の噴火により、良好な状態で遺構・遺物が保存されてきたこともあり、数百年単位連続して遺跡のトレースが出来る環境にも恵まれ、考古学者・ファンにとって格好の勉強材料を提供してくれる。

以下群馬縄文人の特徴や、4つの疑問に迫ってみたい。
1、生活拠点があるところに配石遺構・配石墓が計画的に配置されていたようだ。



写真は、群馬県月夜野町深沢遺跡の土壙墓・配石遺構。
しかも一定のルールの下に配石・組石・集石が為され、7~8形態の分化が見られるが、これらの分類形態がはたして何を物語っているのか?
 身分の差か、貧富の差か、家族構成の差か、或いは縄文人が構想力を競い合っていたのか等々疑問は尽きない。



写真は、群馬県月夜野町矢瀬遺跡出土の木柱根。
散積した膨大な石類の中に展開する数多くの配石墓と大きな立石群、半裁材を方形に立てた巨木柱列、林立する50本以上の巨大な木柱群等は、祭祀を行なう場所・シンボルとしての役割を担っていたのではないか。

2、群馬県各地の縄文時代後期・晩期の遺跡から、工芸品として精緻・精巧な耳飾りを含め、大量の土製耳飾りが出土している。





写真は、群馬県榛東村耳飾り館展示の茅野遺跡耳飾り類2点。
朱塗りの耳飾りは何を意味しているのか?魔除けの為なのか?耳飾りがペアーで見つからないのは偶然なのか?耳飾りの工芸品レベルに大きな格差があるのは何故か?粗悪・単純なモノから精緻・精巧なモノまでのレベル格差は、製作者の個人差・個性をあえてみせしめる意図があったのか?

 耳飾りとしてではなく、何らかの祭祀目的に使われたのか?時代がオーバーラップするとはいえ、人口50人ぐらいのムラに、1.000個以上の大量耳飾りは何を意味するのか?他のムラへの供給基地であったのか?それとも魔除けの為には数は厭わなかったのか?等々疑問が多い。
 形状から来る「耳飾り」としての既成概念・常識が当て外れているかも知れない。

3、群馬県の縄文時代遺跡群からは、あちこちで“敷石住居跡”が出土しているのは何故であろうか?



写真は、群馬県月夜野町梨の木遺跡出土の敷石住居跡。
快適さを求めて辿り着いたアイディアなのか、それとも別の目的があったのか?
 敷石として使った平坦な石そのモノに、座り易い・楽である点以外何か意味があったのか?雨季でもじめつかない為に石を介在させ、網目状の敷物(それらしき遺物が出土している)とセットで快適性を求めたのか?
それとも敷石住居は通常の住いとしてではなく、神聖な「祈りの場」であったのか?それとも屋内作業場として使っていたのか?

4、群馬県の縄文遺跡からは、全国的にもユニークな遺構・遺物が発見されている。







写真は上から、群馬県月夜野町矢瀬遺跡出土の四隅袖付炉のPR、同じ遺跡出土の“目の字”文入り土器片及び同香炉型土器。

月夜野町の矢瀬遺跡からは、全国で発見された唯一の遺構である“四隅突出型炉”や、この特殊炉の四隅文様に似た格子戸型・目の字文入り土器・香炉型土器・網かけ用の溝付き巨大木柱等が出土している。

 桐生市の千網谷戸遺跡からは、女性の人体を象徴した土器が、又長野原町の縄文遺跡からは“ハート型土偶”が出土している。



写真が、うわさの”ハート型土偶”。

尚これらの大変珍しい遺物は、月夜野町の郷土歴史資料館、北橘村の群馬県立発掘情報館にて展示されている。



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