~纏向遺跡で3世紀最大の建物跡を発見した!
平成21年11月11日、「魏志倭人伝の宮室発見!」報道は全国の考古ファンを震撼させた。
女王卑弥呼と同時代・3世紀前半の大型建物跡が見つかった、桜井市辻の纒向遺跡では、11月14日に現地説明会が開かれ、全国から約3,600人の見学者が訪れたとされるが、15日も含めると計10,000人以上の来訪者が見込まれていた。
そこで、“邪馬台国畿内説”を勢いづかせる新発見について、4つの切口から緊急特集を贈る。
今回発掘の大発見・纏向遺跡に大型建物跡が出土した件、政治的・宗教的色彩を帯びた、計画的宮殿造りの件、卑弥呼とのかかわりを想わせる大発見とは、今後の更なる発掘調査方針・財源問題等について考えてみる。


写真は、発掘調査中の手前・纒向遺跡と上方の箸墓古墳との位置関係及び11月14日の現地説明会光景。
調査地は、標高75m前後の東側から派生する扇状地上の微高地で、“太田北微高地”と呼ばれ、微高地沿いの南北には旧河道が流れていたことが判明。
見学者の一人として、今世紀の考古学上一大発見と思われる、纏向遺跡の新展開を追ってみたい。

写真は、1978年発見の建物跡と柵列跡、2009年3月発見の柵列内建物跡と追加柵列跡。
1978年最初の発掘調査では、脇殿を備えた神殿状建物と見られる、約5m四方の建物跡や柵列遺構の一部が出土したと云う。
そして2009年3月の発掘調査では、神殿状建物の東約5mで新たに三つの柱穴(直径約15cm)が見つかった。
これら柵列内の柱穴は、南北6m以上の建物跡だったらしい。周囲からは柵列の延長(約25m)も出土した。
周囲の柵列は、計約40mにも及び、写真の通り、柵列は建物跡の部分だけ凸状に突き出ており、付近は整地のため、広い範囲で盛り土されていたらしい。
また、78年に見つかっていた別の柱穴は柵の外にあったことが判明。柵を挟んで少なくとも3棟が東西1列に並んでいたことが分かったと云う。
市教委によると、これほど計画的に造られた同時期の建物跡の確認例はなく、専門家は「宮殿など極めて重要な場所の西端だった可能性がある」と当時指摘していた。

今回2009年9月~11月に発見された、写真右側の建物跡CとD。
特に建物跡Dは、南北19.2m、東西12.4m、床面積は約238㎡と推定されているが、3世紀中頃までの建物遺構としては国内最大の規模を誇る。
この規模から居館城における中心的な役割を果たしていた建物と考えられる。
柱穴13個(直径32~38cm)を確認しているが、柱材は全て抜き取られ、残された柱の痕跡からその太さは平均32cm前後と推定されている。




写真は上から、太細の仮柱が交互に整列した建物跡Dの北方面を望む南北19.2mの奥行き、逆に南方面を望む大型建物跡の長さと向かって右半分が溝で埋められた状態、建物跡D越しに溝を挟んで西方向の建物跡C方向を望む光景及び建物跡Dの西半分が埋められた状態の溝跡。
30cm余りの柱穴13個の間には、写真の通り、一回り小さい柱穴9個(直径23~25cm)が出土した。南北の柱間(約4.8m)を支える束柱(つかばしら)だったとしている。東西の柱間(約3.1m)にはなかった。
飛鳥時代の宮殿に匹敵する大型建物跡は、この時代、当地一帯に政治・宗教の中心となる強大な権力が存在し、後の大和王権に続く可能性を示している。
古代日本に王権が誕生したとされる地で、宮殿と見られる建物跡が初めて確認できた意義は極めて大きい。
叉写真の通り、出土した柱穴群の西側半分は6世紀に造られた溝で削られていたが、見つかった柱穴の形や並び方から見て、削られた部分にも同様の柱列があったと見られている。
また、今回発見の大型建物跡Dの西側では、前述の通り、1978年と2009年3月の2回にわたる調査で、3世紀前半の小中規模の建物跡3棟が見つかっている。
今回の大型建物跡も同じ方位を向き、4棟連続して構築され、しかも中軸線は東西の同一直線上に並んでいた。
方位は建物・柱列など全ての構造物が真北に対して5°西に振れた方位に揃えて建てられていると云う。
周囲からは総延長40m以上の柵列も出ており、東側3棟の大型建物跡は全て柵内に区画され、一方最西端の建物は柵外に置かれ、その規模には明確な違いが認められていることから、柵を境に建物の重要度に違いがあったことが分かる。
と云うことで、現場の纒向遺跡は、小高い台地を大規模に造成しており、中軸線を揃えて一直線上に並べるなど綿密な計画性と強い規格性持って構築されたことが窺える。
地形からの推測では、“太田北微高地”上に東西約150m×南北約100mの居館区画が存在していたものと考えられ、柵を境に内郭と外郭に整然と区画されていたものと見られる。
計画的に配列された建物群は、飛鳥時代の宮殿や寺では一般化するが、今回は最古の例という。
大型建物跡の一部は、方形周溝墓とみられるL字形の溝で壊されていた。この溝から3世紀中頃の“庄内3式期”の土器片が出土したことから、大型建物の時期は3世紀前半と判断された。
平成21年11月11日、「魏志倭人伝の宮室発見!」報道は全国の考古ファンを震撼させた。
女王卑弥呼と同時代・3世紀前半の大型建物跡が見つかった、桜井市辻の纒向遺跡では、11月14日に現地説明会が開かれ、全国から約3,600人の見学者が訪れたとされるが、15日も含めると計10,000人以上の来訪者が見込まれていた。

そこで、“邪馬台国畿内説”を勢いづかせる新発見について、4つの切口から緊急特集を贈る。
今回発掘の大発見・纏向遺跡に大型建物跡が出土した件、政治的・宗教的色彩を帯びた、計画的宮殿造りの件、卑弥呼とのかかわりを想わせる大発見とは、今後の更なる発掘調査方針・財源問題等について考えてみる。


写真は、発掘調査中の手前・纒向遺跡と上方の箸墓古墳との位置関係及び11月14日の現地説明会光景。
調査地は、標高75m前後の東側から派生する扇状地上の微高地で、“太田北微高地”と呼ばれ、微高地沿いの南北には旧河道が流れていたことが判明。
見学者の一人として、今世紀の考古学上一大発見と思われる、纏向遺跡の新展開を追ってみたい。

写真は、1978年発見の建物跡と柵列跡、2009年3月発見の柵列内建物跡と追加柵列跡。
1978年最初の発掘調査では、脇殿を備えた神殿状建物と見られる、約5m四方の建物跡や柵列遺構の一部が出土したと云う。
そして2009年3月の発掘調査では、神殿状建物の東約5mで新たに三つの柱穴(直径約15cm)が見つかった。
これら柵列内の柱穴は、南北6m以上の建物跡だったらしい。周囲からは柵列の延長(約25m)も出土した。
周囲の柵列は、計約40mにも及び、写真の通り、柵列は建物跡の部分だけ凸状に突き出ており、付近は整地のため、広い範囲で盛り土されていたらしい。
また、78年に見つかっていた別の柱穴は柵の外にあったことが判明。柵を挟んで少なくとも3棟が東西1列に並んでいたことが分かったと云う。
市教委によると、これほど計画的に造られた同時期の建物跡の確認例はなく、専門家は「宮殿など極めて重要な場所の西端だった可能性がある」と当時指摘していた。


今回2009年9月~11月に発見された、写真右側の建物跡CとD。
特に建物跡Dは、南北19.2m、東西12.4m、床面積は約238㎡と推定されているが、3世紀中頃までの建物遺構としては国内最大の規模を誇る。
この規模から居館城における中心的な役割を果たしていた建物と考えられる。

柱穴13個(直径32~38cm)を確認しているが、柱材は全て抜き取られ、残された柱の痕跡からその太さは平均32cm前後と推定されている。




写真は上から、太細の仮柱が交互に整列した建物跡Dの北方面を望む南北19.2mの奥行き、逆に南方面を望む大型建物跡の長さと向かって右半分が溝で埋められた状態、建物跡D越しに溝を挟んで西方向の建物跡C方向を望む光景及び建物跡Dの西半分が埋められた状態の溝跡。
30cm余りの柱穴13個の間には、写真の通り、一回り小さい柱穴9個(直径23~25cm)が出土した。南北の柱間(約4.8m)を支える束柱(つかばしら)だったとしている。東西の柱間(約3.1m)にはなかった。
飛鳥時代の宮殿に匹敵する大型建物跡は、この時代、当地一帯に政治・宗教の中心となる強大な権力が存在し、後の大和王権に続く可能性を示している。

古代日本に王権が誕生したとされる地で、宮殿と見られる建物跡が初めて確認できた意義は極めて大きい。
叉写真の通り、出土した柱穴群の西側半分は6世紀に造られた溝で削られていたが、見つかった柱穴の形や並び方から見て、削られた部分にも同様の柱列があったと見られている。
また、今回発見の大型建物跡Dの西側では、前述の通り、1978年と2009年3月の2回にわたる調査で、3世紀前半の小中規模の建物跡3棟が見つかっている。
今回の大型建物跡も同じ方位を向き、4棟連続して構築され、しかも中軸線は東西の同一直線上に並んでいた。
方位は建物・柱列など全ての構造物が真北に対して5°西に振れた方位に揃えて建てられていると云う。
周囲からは総延長40m以上の柵列も出ており、東側3棟の大型建物跡は全て柵内に区画され、一方最西端の建物は柵外に置かれ、その規模には明確な違いが認められていることから、柵を境に建物の重要度に違いがあったことが分かる。

と云うことで、現場の纒向遺跡は、小高い台地を大規模に造成しており、中軸線を揃えて一直線上に並べるなど綿密な計画性と強い規格性持って構築されたことが窺える。
地形からの推測では、“太田北微高地”上に東西約150m×南北約100mの居館区画が存在していたものと考えられ、柵を境に内郭と外郭に整然と区画されていたものと見られる。

計画的に配列された建物群は、飛鳥時代の宮殿や寺では一般化するが、今回は最古の例という。
大型建物跡の一部は、方形周溝墓とみられるL字形の溝で壊されていた。この溝から3世紀中頃の“庄内3式期”の土器片が出土したことから、大型建物の時期は3世紀前半と判断された。
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