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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

高槻市の今城塚古墳~継体天皇陵の所在地を巡って!そのⅠ

2010年02月12日 | 歴史
継体天皇陵の本命と見られる、高槻市の「今城塚古墳」は、全長350m・総幅約340mの巨大古墳で、6世紀前半の造営とされる国指定史跡。



写真は、今城塚古墳の空からの映像。

今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳で、西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、日本最大の家型埴輪や精緻な武人埴輪が発見されている。

本古墳は、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳。







写真は、地震による総崩れ状態の石組跡、数多くの埴輪出土状況及び高さ約170cmの日本最大の家型埴輪。

今後の整備・公開に向けて平成9年以降、引続き確認調査が行われており、古墳の規模をはじめ、城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られている。

なかでも平成13・14年度の調査で北側内堤からは、大量の円筒埴輪や太刀を持った武人、力士や巫女、盾や動物など、さまざまな形をした形象埴輪を多数設置した埴輪祭祀区も確認されている。



写真は、今城塚古墳墳丘の張出し部で行なわれたと見られる、埴輪祭祀場跡で、いろいろな埴輪が散乱しいている。

家型・人物・動物などの形象埴輪が配置され、亡き大王との別れを惜しみつつ、新たな大王が引継ぐ祭祀場として、造られたのではないか?
大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めている。



写真は、平成10年当時、本古墳外濠で魚釣りが横行していた光景。

巨大古墳は荒れたい放題に荒れており、宮内庁の管理下になかったことが、これほどメンテナンス上の不行き届きをもたらすものかと、事実誤認の恐ろしさと悲哀を痛感せざるを得ない。

現在も発掘調査中とのことだが、引続き発掘が出来るのは、皮肉にも宮内庁の管轄にないためであると見られ、現状とは相矛盾している状況。





写真は、柵で囲まれた平成10年当時の今城塚古墳及び本古墳の墳丘。

今城塚古墳は、遺跡公園として出入り自由、わずかに柵が設けられているが、犬の散歩コースとしても恰好。外濠も一部にその面影を残しているが、復旧は難しいのではないかと思われる。

そういう中で、平成16年から7ヵ年計画で、本古墳の修復再現プロジェクトが進められている。





写真は、平成22年1月現在進行中の今城塚古墳の修復再現工事。

本古墳の遺構を盛土で保護し、墳丘は裾部に護岸列石を復元し、埴輪祭祀場周辺から二重濠の復元整備、造出し部の復元と埴輪列の再現等々により、往時を想わせる墳丘や全体像の再現工事を進めている。

順調にいけば、平成23年春には、壮大な歴史空間が史跡公園として蘇る予定。

本古墳の被葬者とされる、継体天皇の経歴については、凡そ以下のように言い伝えられている。越前・近江の豪族で、淀川流域にも勢力をもつ息長氏の出であるという説が有力。

大和の豪族大連・大伴金村に推され、大王位につくが王宮は樟葉の宮(枚方市)、筒城の宮(京田辺市)、弟国の宮(長岡京市)などを転々とし、晩年まで中央(大和)に入れなかった。

葛城氏など、今で言う強力な抵抗勢力が存在したためだが、一説によると、葛城氏の支族であった、蘇我氏の協力を得てやっと大和入りを果たしたというが・・・・・・。














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