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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪府岬町の西陵古墳とは!

2009年06月15日 | 歴史
ここからは、紀氏の活躍ぶりについて、和歌山市に境界を接する、大阪府岬町の中期の古墳を取上げる。

と云うのは、朝鮮半島との密接な交流を物語る貴重な資料の数々や、大和朝廷の生命線とも云える、大阪湾岸・河川を含む制海権を牛耳っていたこともあり、当時の紀氏の絶大なパワーを追ってみたい。

先ず西陵古墳は、墳丘長約210m・後円部直径115m・高さ18m・前方部幅108m・長さ110m・高さ14mほどの前方後円墳で、全国第31位の大きさを誇り、又近くには全長約170mの“宇度墓古墳”があり、巨大古墳が二つも並ぶこの地は、重要な紀伊水軍拠点であったことが窺い知れる。





写真は、西陵古墳を中心とした周辺地図及び西陵古墳の全景。

本古墳が所在する淡輪地域は、番川によって形成された小さな平野で、そのほぼ中央に大阪湾を見下ろすような位置にあり、太正11年に国史跡に指定されている。

墳丘の周りは、写真の通り、幅25~40mの水をたたえた周濠が巡り、これらを含めると全長が300mにもなると云う。

本古墳は、垂仁天皇王子・五十瓊敷入彦(いにしきいりひこ)宇度の陵墓として宮内庁が管理しているが、古墳時代中期の5世紀前半頃の築造。

周濠外部からは、円筒埴輪・朝顔形埴輪・蓋形・盾形・短甲形・家形埴輪といった埴輪類が見つかり、墳丘にはこれら埴輪が配列され、葺石も施されていたと云う。

後円部には、主体施設として、かつて凝灰岩製の長持形石棺の蓋石が一部露出していたが、大正11年に埋め戻されたと云う。

大和政権が、大和から河内そして和泉に進出し、仁徳陵古墳をはじめとする巨大古墳が作られたのは、5世紀の半ばで、紀伊から和泉へ向かう海上交通路として、その中間地点となる岬町は、大阪湾の入り口にある点から重要な戦略拠点。

岬町の古墳時代は、まさに巨大古墳を中心とした時代であり、古墳の規模或いは豪華な副葬品からすれば、相当な権力をもつ被葬者が想像されるが、紀伊水軍を管掌する首長の古墳ではないか?

被葬者としては、紀小弓宿禰とする説、紀船守とする説、五十瓊敷入彦命とする説があるが・・・・・。





写真は、岬町白峠山古墳頂上から見下ろす、大阪湾と岬町光景及び船守神社と楠木。

岬町は、大阪湾に面した町であることから、海上交通に関連した職務に携わった、しかも古代国家政権に大きな影響のある町であったことは間違いない。

本古墳近くには、淡輪の氏神にもなっている船守神社があり、紀船守・紀小弓宿弥・五十瓊敷入彦命の三神を祀っている、由緒深い紀氏の氏神神社。

その本殿は、桃山式三社造千鳥波風神殿造りで重要文化財として登録され、又境内の大クスノキは、樹齢700年ほどと大阪府随一の大きさを誇る。







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