栗東市には現在約80基に上る古墳の存在が知られているが、横穴式石室を持つと見られる後期古墳が80%ほどを占めている。
中でも、古墳発生期の最古式の古墳が築造されていた地域に注目したい。
写真は、栗東市野洲川左岸周辺の地図。
栗東市内の国道1号線と8号線が分岐する“大橋”で、その東の高野・辻の地域は、両国道と野洲川に囲まれたところで、ムラの首長が、早くも大和王権と同盟関係があったことを示していると考えられている。
野洲市・守山市・栗東市に跨る、野洲川両岸に広がる弥生時代後期から古墳時代前期の集落・墳墓は、大和王権の戦略拠点として組み込まれていたことを物語っている。
写真は、岡山古墳から出土した中国製の三神三獣鏡と右の盤龍鏡。
この地域の代表的古墳として、岡山古墳と亀塚古墳があり、岡山古墳は“六地蔵”の丘陵に築かれた円墳で、4世紀前半の古墳と見られ、主な出土品には、中国製の“天王日月獣文帯三神三獣鏡”と“盤龍鏡”の2種類があり、その一つは大分県と三重県の古墳出土の鏡と同氾関係が見られると云う。
写真は上から、栗東市出庭の私有地に所在する亀塚古墳、本古墳樹木の間から覗く三上山及び三神三獣鏡。
亀塚古墳は辻遺跡の西北1.2kmほどにあり、4世紀前半の前方後円墳で、国産の三神三獣鏡が出土したことで注目された。特にこの鏡は、愛知県・京都府・鳥取県の古墳と同氾関係にあるらしい。
岡山古墳・亀塚古墳は位置から見て、市内の岩畑・辻・高野遺跡と深い関わりを持った首長の古墳と見られている。
写真の岩畑遺跡は、高野神社の東側一帯に広がる野洲川の自然堤防上に立地している。
下の写真が、高野神社が所在する森で、北東側には三上山を望める農耕地が広がる。三上山は当時からシンボリックな御神山として神聖な存在。
方形の竪穴住居89棟、前方後方型周溝墓1基などがみつかり、弥生時代末から古墳時代後期まで続いた集落であることが判明。
古墳時代前期の竪穴住居には床に炉があり、そこから土師器が出土し、古墳時代後期のものからは、壁面に竈が設置され、須恵器が出土したと云う。
写真は、栗東市出土文化財センターに展示された岩畑遺跡の出土遺物。
岩畑遺跡からは鉄製品が高い出土率で見つかっており、鎌・刀子・鉄鏃など武器を持ったムラであったことが分かる。
鉄鏃は特に注目され、狩猟にも使われるが、各地の古墳では武器類とともに副葬されているので武器と見てよい。
近江地域の他の集落遺跡と比較しても、きわめて高い比率で鉄鏃が出土している。
稲作のかたわら、かなりの武器を常備していたムラであった可能性が高く、岩畑遺跡が東海道と東山道の両道が交差する位置にあることから、軍事的にも重視された集落であったと云える。
岩畑遺跡の西500mほどに高野遺跡があり、中ノ井川と葉山川に挟まれた平地にある。古墳時代前期を中心に後期までの40余棟の竪穴住居が検出されている。
写真は上から、栗東市辻遺跡が見つかった、現在の開発現場、ここから望む三上山及び発掘当時の様子。
辻遺跡は、岩畑遺跡の北、国道8号線と県道が交差する辻交差点付近にあり、古墳時代前期から8世紀にかけて営まれた遺跡。
岩畑・高野・辻の3遺跡とも、当時としてはかなり規模の大きい集落であったと思われる。
中でも、古墳発生期の最古式の古墳が築造されていた地域に注目したい。
写真は、栗東市野洲川左岸周辺の地図。
栗東市内の国道1号線と8号線が分岐する“大橋”で、その東の高野・辻の地域は、両国道と野洲川に囲まれたところで、ムラの首長が、早くも大和王権と同盟関係があったことを示していると考えられている。
野洲市・守山市・栗東市に跨る、野洲川両岸に広がる弥生時代後期から古墳時代前期の集落・墳墓は、大和王権の戦略拠点として組み込まれていたことを物語っている。
写真は、岡山古墳から出土した中国製の三神三獣鏡と右の盤龍鏡。
この地域の代表的古墳として、岡山古墳と亀塚古墳があり、岡山古墳は“六地蔵”の丘陵に築かれた円墳で、4世紀前半の古墳と見られ、主な出土品には、中国製の“天王日月獣文帯三神三獣鏡”と“盤龍鏡”の2種類があり、その一つは大分県と三重県の古墳出土の鏡と同氾関係が見られると云う。
写真は上から、栗東市出庭の私有地に所在する亀塚古墳、本古墳樹木の間から覗く三上山及び三神三獣鏡。
亀塚古墳は辻遺跡の西北1.2kmほどにあり、4世紀前半の前方後円墳で、国産の三神三獣鏡が出土したことで注目された。特にこの鏡は、愛知県・京都府・鳥取県の古墳と同氾関係にあるらしい。
岡山古墳・亀塚古墳は位置から見て、市内の岩畑・辻・高野遺跡と深い関わりを持った首長の古墳と見られている。
写真の岩畑遺跡は、高野神社の東側一帯に広がる野洲川の自然堤防上に立地している。
下の写真が、高野神社が所在する森で、北東側には三上山を望める農耕地が広がる。三上山は当時からシンボリックな御神山として神聖な存在。
方形の竪穴住居89棟、前方後方型周溝墓1基などがみつかり、弥生時代末から古墳時代後期まで続いた集落であることが判明。
古墳時代前期の竪穴住居には床に炉があり、そこから土師器が出土し、古墳時代後期のものからは、壁面に竈が設置され、須恵器が出土したと云う。
写真は、栗東市出土文化財センターに展示された岩畑遺跡の出土遺物。
岩畑遺跡からは鉄製品が高い出土率で見つかっており、鎌・刀子・鉄鏃など武器を持ったムラであったことが分かる。
鉄鏃は特に注目され、狩猟にも使われるが、各地の古墳では武器類とともに副葬されているので武器と見てよい。
近江地域の他の集落遺跡と比較しても、きわめて高い比率で鉄鏃が出土している。
稲作のかたわら、かなりの武器を常備していたムラであった可能性が高く、岩畑遺跡が東海道と東山道の両道が交差する位置にあることから、軍事的にも重視された集落であったと云える。
岩畑遺跡の西500mほどに高野遺跡があり、中ノ井川と葉山川に挟まれた平地にある。古墳時代前期を中心に後期までの40余棟の竪穴住居が検出されている。
写真は上から、栗東市辻遺跡が見つかった、現在の開発現場、ここから望む三上山及び発掘当時の様子。
辻遺跡は、岩畑遺跡の北、国道8号線と県道が交差する辻交差点付近にあり、古墳時代前期から8世紀にかけて営まれた遺跡。
岩畑・高野・辻の3遺跡とも、当時としてはかなり規模の大きい集落であったと思われる。
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