ここからは、静岡県西部の浜松市・磐田市などを中心とした古墳群を紹介する。
千人古墳は、浜松市中区有玉西町の三方原学園敷地内にあり、市内最大の中期円墳で直径が約49m・高さが7mほどを測る。
千人古墳群は、三方原台地の縁辺部に築かれた現存9基からなり、5世紀中頃から6世紀前半まで1世紀近くにわたって築かれ続けたもので、これらを三方原園内古墳群と総称している。





写真は、三方原学園敷地入口の千人塚古墳標識、千人塚古墳墳丘の全体像、同墳頂に建てられた石碑、同墳丘の様子及び墳頂から望む磐田方面光景。
本古墳は2段築成で、北西方向に造出しが付き、幅8.5mの周濠が巡り、葺石・埴輪が見つかっている。
主体部は2基の木棺直葬で、大量の鉄製武器・農具が副葬されていた。


写真は、千人塚古墳出土の鉄製革綴冑及び同古墳出土の鉄製品。
第1主体部の南側に第2主体部が発見され、そこからは冑・短甲・鉄剣・大刀・鉄鍬など豊富な副葬品が発見されたと云う。
更に墳丘の裾にある造り出し部からは鉄剣・大刀・大量の鉄鍬・鉄斧など豊富な鉄製品や埴輪が発見された。
この場所から一望出来る、天竜川平野部に大きな勢力を得た地方豪族の墳墓と考えられている。
周辺には、このほかにも全長約45mの前方後円墳である瓢箪塚古墳をはじめ、やや大型の古墳が分布している。
三方原台地の北端には7kmにわたって160余りの古墳群があったとされ、現在三方原学園内には7つの古墳が保存されている。
1572年、武田と徳川両軍が戦った三方原合戦の激戦地は、三方原学園付近と言われていたが、当地に千人塚があり、戦没者を葬った塚とする伝説があった。
しかし千人塚古墳を発掘した結果、全く根拠がない事が判明。
千人古墳は、浜松市中区有玉西町の三方原学園敷地内にあり、市内最大の中期円墳で直径が約49m・高さが7mほどを測る。
千人古墳群は、三方原台地の縁辺部に築かれた現存9基からなり、5世紀中頃から6世紀前半まで1世紀近くにわたって築かれ続けたもので、これらを三方原園内古墳群と総称している。





写真は、三方原学園敷地入口の千人塚古墳標識、千人塚古墳墳丘の全体像、同墳頂に建てられた石碑、同墳丘の様子及び墳頂から望む磐田方面光景。
本古墳は2段築成で、北西方向に造出しが付き、幅8.5mの周濠が巡り、葺石・埴輪が見つかっている。
主体部は2基の木棺直葬で、大量の鉄製武器・農具が副葬されていた。



写真は、千人塚古墳出土の鉄製革綴冑及び同古墳出土の鉄製品。
第1主体部の南側に第2主体部が発見され、そこからは冑・短甲・鉄剣・大刀・鉄鍬など豊富な副葬品が発見されたと云う。
更に墳丘の裾にある造り出し部からは鉄剣・大刀・大量の鉄鍬・鉄斧など豊富な鉄製品や埴輪が発見された。
この場所から一望出来る、天竜川平野部に大きな勢力を得た地方豪族の墳墓と考えられている。

周辺には、このほかにも全長約45mの前方後円墳である瓢箪塚古墳をはじめ、やや大型の古墳が分布している。
三方原台地の北端には7kmにわたって160余りの古墳群があったとされ、現在三方原学園内には7つの古墳が保存されている。
1572年、武田と徳川両軍が戦った三方原合戦の激戦地は、三方原学園付近と言われていたが、当地に千人塚があり、戦没者を葬った塚とする伝説があった。
しかし千人塚古墳を発掘した結果、全く根拠がない事が判明。

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